2004年11月7日日曜日

喰らう男

 汽車で上がり、野暮用が終わったオレは心斎橋筋の一角でいつも立ち寄る小料理屋のカウンターに座っていた。同郷の女将がオレに良くしてくれるからである。大きな水槽が正面壁面に置かれ、なじみのある魚たちが泳いでいて、客の注文に応じて捌いてくれる品のいい店であった。客層も良く、それなりに繁盛している店で奥にあるコアガリは既に満席のようであった。ここでじっくり飲み、あとはホテルで寝ればそれで満足のはずであった。
内ポケットで携帯電話が振るえた。村埜だった。
「南無さん!おめぇんとこのオヤジさんに聞いたよ。大阪来てんだって?」
「来てるっ、て、言ったって、明日そっちへ戻りますよ」
「いや、な、ワシもここに居てんや。どっちにいるんや?」
「ミナミに居ます」
「というと、あそこかぁ?」
元々この店は村埜に連れてこられたのが縁なのである。
「組用が終わったし、ワシもそっち行くわなぁ。むしゃくしゃしてるさかい、アンタと飲もうという訳や」オレの返事も何も聞かないうち電話が切れた。
 村埜の組本部はキタにあった。彼はその枝の組で若頭を務めていた。若衆が50人ほど居てオレの地元ではそれなりに強大であった。オレにとってはそれなりにお目こぼしもあった。助けられたことも数度ばかり有り村埜には義理もあった。気がいい奴ではあったが、跳ぶのも早かった。
しばらくして村埜は女将に挨拶をしながらオレの横に座った。
「栄田のジイサンとこ行ってたらしいな。元気にしてかい?」
「ええ、お元気でお過ごしのようでした」
栄田とはオヤジの昔の兄弟分であった。短期間の治療入院をして、その退院祝いに少しばかりの心付けと海のものを手みやげに「祝いの口上」を代理としてのべに行ってきたのだった。二人とも今は引退していて、温泉巡りとかを楽しみにつるむ、いわば刺青のはいった老人会のメンバーである。
「今回は長いのですか?」とオレは村埜の顔を見た。相当苛ついている顔であった。
「うーん、わからん。ワシも早う帰りたいんやけどな。阿保でうるさい奴ばかりいてな、なかなか前へ進みよらん」
何かもめ事があったらしく本部で話し合いが行われている、と云うことだろうとオレは思った。会議は踊る、となっているようだ。もっともオレにとってはそのようなことは何ら関係のない世界である。オレは村埜にビールをついだ。ゴクリと大きな音を立てながら一気にそれを飲み干し溜息をついた。どうやらオレは奴の愚痴を聞く夜となったようである。
「ワシもデリケートやさかいに、ホンマ、疲れる。ワシんとこのあほんだらが一人ヘタ打ちしよってな、ここに呼び出され、カシラ(若頭)としてワシがよってたかっていじめられてるって訳だ。ちゃんと謝ってんのにのぅ、腹立つわ」
エンコ(指)落として、つかない話しは責任者にもエンコ落としが行われることもあるようだが、村埜はそのタイプではなかった。反抗的な村埜の態度に古参連中の横やりが入り、若いモンの指は相手に受け取って貰えなかったらしい。内輪もめとはどの世界でもあるようではある。
「なんやら、きょうはビールもまずう感じるわ。あの連中の顔思い出したら気持ち悪うなってきた。ったく、イジメやないかっ。ワシの答えはもうその場で出したる、がな。連中!腰抜かしよった」村埜は本当に気分が悪くなってきたらしく顔も青ざめていた。
「村埜さん、だいじょうぶなんか?顔色が悪いぜ」オレも気になり声をかけた。その言葉も終わらない内に村埜は席を立ち上がった。
「おぅ、うーむっ!うぇーっ!もう、あかんっ!」とカウンターにそのまま反吐を噴水のように吹き上げた。女将もそれに気づき大慌てで仲居を呼び、彼女自身が駆け寄り村埜の肩に手をかけた。濡れたタオルで女将は村埜の額や口の周りを優しく拭いて、吐瀉物を仲居と共に拭き除こうとした。
「ちょっと!待ったれっ、ちょっとだけ待つんやっ!」と村埜は声を荒げて女将に言って彼女の身体を押しのけた。
「かんにんやで、あっち向いてんか、すぐ終わるさかいに」
村埜はカウンター一面にひろがった自分の吐瀉物の中に手を突っ込み汚物の中をまさぐり始めた。ちょっとだけや、と呟くように言って手を動かし、やがて反吐にまみれた一切れの人間の指を取り出した。村埜は薄笑いを浮かべながらその指を眺め、やがてそれは再び彼の口の中に消えた。
村埜は自分の若衆の指を受け取らない相手に対し突っ返されたその指を喰らい席を蹴ってきたのである。