2007年8月18日土曜日

遊侠の徒

 一昨日のことだった。送り盆も終わり一息入れているところにオヤジから電話が掛かった。「加賀の田中が死んだと聞いたが、そうなのか?」とその声は低く重かった。私は、またその話かと思ったが調べてから返事しますと答えて電話を切った。もともとその男が入院したという話は先月若い者から聞いていたので近い内に見舞に行こうとは思っていた。だが死んだという話はまだ聞いていなかった。現に1週間ほど前もある者から問い合わせが来て調べたばかりだったからだ。噂がすぐに大きくなるのもこの世界の通例といえるだろう。今回も結果的には死んではいなかった。その旨オヤジに告げるとお前が名代として明日にでも見舞に行けと言った。
 午前11時だというのに気温は36度を越えていて国立病院の大きな駐車場はそのアスファルトの照り返しによって私の首筋に大量の汗を流れ下らせた。前もって室番号を聞いていたのでそのまま真っ直ぐ八階の病室に向かった。エレベータを出てナース・ステーションの前を通り過ぎたところで聞き覚えのある声で呼び止められることになった。当時の舎弟頭補佐をしていた男であった。もう70は過ぎたはずで角刈りだった頭も禿げあがり髪も真っ白になっていた。そして当時精悍さを誇っていたその顔も面影はなかった。簡単な挨拶と名代であることを告げると彼は深くお辞儀で返し、そのまま簡易な椅子が並んでいる隅にあるコーナーに私を誘った。隅にある自販機から緑茶を私に差し出すと言った。
「儂等三人(舎弟)が24時間交替で付き添っていて各自家には着替える為だけ帰っています。肝臓癌です。医者の話だともう今月いっぱいももたないと言ってます」
 私の返す言葉なんか無かった。そのヒトは独り身であった。随分昔のことではあったが娘がまだ小さかった頃妻子と別れてしまっていたからだ。そして今まさにひとりで死に向かおうとしていた。
「喋れるのですか?」と私は聞いた。
「まだ大丈夫です。時々時間の感覚が跳びますが、南無さんが来たということになれば大変喜ぶでしょう。結核も併発してますのでマスクをして下さい」そういって私にマスクを手渡したがたいした役にも立ちそうもなかったので装着しなかった。そのまま個室である病室に案内され入った。やはり顔見知りの舎弟がひとりベッドの脇の椅子に座っていたが私が入室すると立って軽く会釈を交わした。ベッドによこたわっているそのヒトは頬が落ち痩せさらばえ骨と皮になっていた。入れ墨のはいった腕には点滴針が刺さっていた。仰向けになって閉じられた瞼の上にある入れ墨の眉は昔のままだった。付き添いが私が来たことを告げると静かに目を開け、屈むようにして上から覗き込んでいる私の顔をじっと見つめた。
「オヤジの代理で来ました。私が判かりますか?」と聞くと黙って頷き私の顔をまじまじと見つめていた。
「アニキは元気なのか?」とまだ力の残る声で私にオヤジの近況を問うた。
「はい。歩くことは少しおぼつかないですがまだ元気です」と答えるとまた黙って頷き、聞き取りにくい声でなにか言った。もう一度耳を近づけると再びそのヒトは喋った。
「お前、老けちまったな」と。私は場違いのようなその言葉に一瞬戸惑ったが気を取り直し笑いながら答えた。
「もうすぐ60になりますよ」
「そうか、もうお前も60になったか。ろくでなしの60か…」と笑った顔を見せた。どうやら私の若い頃の顔を記憶の隅から呼び起こしているようだった。数え切れないほどそのヒトに迷惑を掛けた若い時代のことが私の頭の中を一瞬よぎった。そして突然「娘が来てくれた」とぼそっとそのヒトは言った。付き添いの者に目を向けるとその者は黙って私に頷き返した。きっと誰かが娘を探し出し頭を下げ説得して連れてきたのだろうと推することが出来た。
「娘さんに会えてよかったですねぇ」と私が言うと黙って頷いた。そのヒトの目に涙があった。そして、あとは何も語ろうとしなかった。
 帰る車中の窓の外を眺めると遠く見える市街地のビル群の上にかげろうが揺らめいていた。そしてそれが私の居る灼熱地獄の風景なのだろうと思った。

2007年1月31日水曜日

善なる人々-善造編-

 雪が舞っていた。それは時には谷筋から斜面へ駆け上がろうとするわずかな上昇気流に押され杉の木々の間を横なぐりに変化し始め乱舞した。ゲレンデからこのあたりまで離れていると周りは殆ど無音状態になる。遠くから時々スキーヤに向けてのゲレンデ・アナウンスが尾根越えに散発的に聞こえてくるだけであった。今聞こえるそれ以外の音といえば斜面で足を踏ん張りながら下りに向かう鬼頭の早くなる息使いだけであり、頬といわず額といわず激しく鬼頭を嬲るような雪は野獣のごとく上気して真っ赤になったその顔から一瞬にして融け湯気をたてていた。視界を妨げている雪幕の向こうには確実に息を上がらせながら必死で潅木の間を駆け抜けている谷口の姿があるはずであった。足跡を追っている鬼頭にはその姿が手にとるようにわかっていた。なぜならホテルの支配人室のタバコの吸殻にはまだ火の残りが認められ、つい先ほどまで谷口善造がいたことを教えていたからだ。

 「その手形の支払義務は無い」と善造は受話器の向こうの男を突き放すように言った。元はといえば三ヶ月だけの融通手形の約束だった。善造の経営するホテルの軒先にスキーヤー相手にホットドッグや焼きソバ等の立ち食い店をテナントとしてやっていた男に運転資金不足を請われてやむえず貸した善造が経営するホテル会社振り出しの手形であった。シーズン短期間に売上が上がり返済も出来る予測が立っており、さしたる問題は無いはずであった。またその立ち食い店は何かとホテルの集客誘致に役立っていた。当初に切った期日は二ヶ月の三百万円であり今日がその期日であった。更に1ヶ月の延長のため三日前差し替え用の手形としてもう一枚三百万円の手形を切りその男に渡した。しかし手形ジャンプの通例として戻るべき前の手形は戻ってこずテナントの男も突然店を閉めたまま消えてしまった。そして代わりに鬼頭と名乗る街金業者から都合六百万円の手形貸し付け金があると電話がかかったのである。その内最初の一枚は期日である旨回したと宣告され先ほどの電話の応酬になったのである。確かに善造にとって借りたのは三百万円だけでありその決済は来月であり返済財源はそのテナントが払うはずの予定であった。つまり一円たりとも現金の用意はしなくても済むはずだったのである。だが今となれば、まったく違う展開が起きてきたのである。手形の呈示期間を考慮に入れ明日には回された手形が善造の取引銀行の口座に決済を迫るということになってしまった。自分が生きているこの世界は自分のものである確実性から突き放された瞬間を善造は生まれて初めて遭遇してゆくことになった。
 「だって、その手形は詐取された手形であんたの言ってることは二重取りだ。警察に訴えるぞ」
 善造は精一杯の虚勢を張って声を荒げたが受話器の向こうからは予想に反して冷静な声が返っただけであった。
 「ああ、そんなことはどうでもいいんだよ。訴えるなり拒否するなり好きなようにするんだな。先ほどガタは回したから、おれはもう知ったことではない。詐取の名目で不渡りにするんならそれでも構わんよ。そうなれば頂くものを頂くだけだがな」
 鬼頭にとって谷口善造の言葉は十分に予測できていたばかりか元々そのテナント業者に貸していた金の回収であった。つまり最初の一枚の手形は貸付金の回収方法としての返済に過ぎずビタ一文も出さず内入れ金としてとったものでしかなかった。あとの二枚目の三百万は債務者のテナント屋と謀って決済後の二、一の取りだった。つまりテナント屋に手形詐取をさせ、しばらくの逃亡資金として百万をテナント屋に握らせ残り二百万の儲けが鬼頭の懐に入るという仕掛けであった。手形は所持人のものという大原則が全てを制するのだ。あとは谷口を追い込み、場合によっては一度決済させて状況を見てまた金を貸してやればいいと思っていた。相手から只同然でふんだくった金を今度は自分の貸し金としてその相手に貸すだけのことである。なんら懐が痛むわけでもなく、ひょっとすればホテルの営業権もろとも獲れると踏んでいた。あとは全てをしゃぶり尽くせば相当額の儲けがぶら下がっているのである。鬼頭は相手の幾分震えた声から察しはついていた。アホンダラが、今日早速混み合ってやるぜ、と腹に決め、叩み込むように言葉を続けた。
 「ところで、そっちの言い分も俺にとっては寝耳に水だ。俺は金貸しとしてまっとうなことをやっている。現に確かに300万円の現金を奴に貸している。それを詐取だなんだと言われても後味が悪いじゃねぇか。こうなると俺としてはおめぇの言いたいことをよく聞いてやりたいと思うが、どうだ?事と次第じゃ明日の手形の返却依頼を銀行にかけてやってもいいんだぜ」
 物事は最初が肝心である。ここでいったん相手と直接会い圧力を加えていくことが今後の行く末を占うことにもなるのだ。鬼頭は勿論返却以来など端からする気はなかったが相手を話し合いの場に引きづり込みたかった。ことによっては新たな300万円の現金を鬼頭は谷口に放り、その金で明日の手形を決済させもう一枚手形を切らせる仕掛けを考えていた。相手の谷口にすれば予定もしていない資金繰りに対応は出来ているとは思えなかったからである。現金をいったん投げておき相手がそれに飛びつけば鬼頭に対して「詐取」は成立しなくなり善意の第三者を完璧に装える計算が働いていた。だが鬼頭の予測に反して谷口から返ってきた言葉はかたくなまでの拒否だった。
 「私の方はあんたと話することなんかありません」
 これが善造にとっての目一杯の言葉であった。いくら詐取とはいえ手形に付箋が付くのである。スキー人気が落ち込んでいる今の世に銀行に対してそのような事態を起こせば良い顔をするわけもなかった。また詐取には警察の事件受理書も必要であることもわかっていた。肝心のテナント屋の行方も知れず果たして警察が詐取と認めるかどうかも疑問であった。民事不介入が警察の大前提であり手形請求権は所持人であり善意の第三者を主張する街金業者の鬼頭の手にある事実は変わらなかった。また対応が間に合わない場合は手形相当額を供託することになることも分かっていた。何れにしても供託金に該当するような余裕資金は今の善造には無かった。これと似た話はよく世間で聞いたことがあったが善造はまさか自分の身に降りかかることまでは考えていなかったのである。
 「では明日不渡りということになるが、それで良いのか?」と鬼頭の凄みのある声が受話器から伝わってきた。善造はたたみ掛けるように言う鬼頭の言葉に応えるべき言葉を持たなかった。しばらく沈黙が続いていた。それを破ったのは鬼頭の方であった。
 「俺はオメェの言い分をただ聞こうとするだけで取って食おう、焼いて食おうってことじゃねぇ。わかるか?話し合いだよ。話し合い」
 鬼頭は鬼頭で谷口がこのまま突っ張り通し、万が一警察介入になってテナント屋が捕まれば全てを喋るかも知れないという不安もあった。そうなれば鬼頭としてもおもしろくない結果になり儲けも何も吹っ飛ぶことになる。どうしても今日中に谷口を懐柔し決着をつけねばなるまいと思っていた。こうなれば相手の返事を待つまでもなく気の弱そうな谷口を急襲し、型に嵌めるのが一番であると信じ込むに至った。相変わらず谷口は無言のままであった。
 「ああ、谷口さん話し合いはこれで無しにしておくわ。じゃあ電話を切らせて貰うぜ」と鬼頭はそう言って受話器を下ろし谷口のホテルへ出掛ける準備を始めた。とりあえず金庫の中から現金を1千万円取り出しカバンの中に無造作に放り込んだ。今後の勝負の為にも見せ金としてちらつかせる必要もあると思ったのである。
 善造の方と言えば鬼頭の電話が切れた後、支配人室の応接セットに座り込みしばらくの間、頭を抱え込んでいた。金がいる現実にはなんら変わりが無く、今のままだと明日中に間に合うとは思えなかった。もし、金が用意できても1ヶ月後にはまたもう1本の同額手形が鬼頭から回ることになるのだ。そんなことをされれば一挙にこのちっぽけなホテルは倒産に追い込まれてしまうだろう。とりあえず善造は知り合いの弁護士に頼ろうと思い電話をかけた。出来ることからしなければならないと思ったのである。だが肝心の頼りにしているその弁護士は運悪く県外の法廷に出ているらしく明日にならないと戻らない旨法律事務所の女事務員は言った。でも、とりあえずは明日のアポは入れておくしかなかった。しかし最後の頼りとしている弁護士の不在は確実に善造の気力を萎えさせるのには充分でもあった。夜には万が一の為にも二、三の友人や親類関係を回り金策もしなくてはならないことも気分を鬱にさせた。とりあえず明日を乗り切れば次の期日まで1ヶ月の余裕期間がある。警察や民事裁判を巻き込んでもこの難局は乗り切ってやると善造は何度も自分に言い聞かせるのであった。しかしこの決意とやらはこれから起ころうとしている出来事の前に崩れ去るとはこの時考えもしていなかった。何事にもボタンの掛け違いと言うことは人生においてよくあることなのだ。現に善造は所詮はひ弱な一庶民でしかなかったからであり、野獣のごとくに鬼頭がその後現れるとは想像もしていなかったからであった。

 鬼頭は除雪の行き届いたホテルの駐車場に車を止めると車内からその4階建ての建物を見上げていた。二、三千万は行けそうだなと値踏みをしてから早速ホテルに携帯電話をかけた。電話に出たのは支配人である谷口その人であった。鬼頭はにやりと笑いそのまま車から降り建物の窓のいくつかに目をやった。一人の貧相な男が窓からこちらを見ていた。その男の手には受話器がしっかりと握られていたのである。
 「谷口さんよ、下の駐車場に着いたよ。今からその部屋に行かせて貰うよ」
 鬼頭はそう言って電話を切り、窓から覗き込んでいる善造に向かって手を振って見せた。大型の黒塗りのセダンから出てきた坊主頭の厳つい大男がこちらに手を振っているのを善造は見ていた。スキー・リゾートに似合うわけもなく革靴のままの風体はあたりのスキー客を威圧するかのように遠ざけてこちらに向かって歩き出した。善造の心臓がドクンと鳴りだし一瞬呼吸が乱れたような気がした。大きく深呼吸をしてみたが心臓の動悸は止まることはなく、膝も心なしか震えているようであり自分で何度落ち着くように言い聞かせても、ふるえは止まらなかった。自分のいるこの支配人室はほかには誰もいなかった。このような突然の事態の予測は善造の考えには入っていなかったのである。だが善造の取った行動は素早かった。彼にとっては支配人室から逃亡することしか考えれなかったのである。鬼頭が支配人室と表札のあがった部屋に到着したときには谷口の姿が既に消えていた。応接セットのテーブルにある灰皿にはまだ火が付いたタバコが残されていたのみであった。鬼頭はいったん手にしていたカバンをテーブルの上に置き窓の外を見ると長靴姿で逃げるように走っていく谷口の後ろ姿を認めることが出来た。鬼頭にとっては話し合いに来たつもりであり暴力を振るうつもりでもなく、只じわじわと言葉で攻めればいいと思って来ただけのことであった。まさかあのように動転して逃げるとは想像も出来ないことでしか無く、鬼頭は大きな舌打ちと共に支配人の大きなデスクを蹴飛ばすしかなかった。
 「なんなんだ、あの野郎は」と鬼頭は毒づき谷口が道の向こうの灌木の中に走り込んでいく後ろ姿を見ていた。だが逃げる者は追うのが鬼頭が本来持っている習性である。また手形期日を考えるとどうしても決着をつけておかなくてはいけなかった。鬼頭はそのまま一旦車に戻り長靴に履き替えて直ちに善造を追跡する準備に入った。
 谷に向かってなだらかな下り斜面を鬼頭は谷口の足跡を辿りながら足を早めていた。先ほどから降り始めた雪は時々横なぐりに舞い始め鬼頭の顔面を叩くようであった。善造も必死に鬼頭から逃げながらこの状況に陥っている自分を冷静に見ることなく、いわば恐怖の余り気が動転している自分に気づいていなかった。今となれば、何故あのとき逃げたのだろうと一度考えを振り出しに戻せば済むだけのことでしかなかった。だが、いまの善造にはその余裕が無く木立の陰で時折後ろを振り返るなどして頭に溢れこぼれる妄執に取り憑かれていたのである。確かに遠方をよく見ると雪の中に黒い人影が見えていた。あのような風体の者はきっと暴力を振るうに違いないとそのとき思い込み、体が頭と違った方向に向かっただけである。しかし今となってはどのような言い訳もあの追ってくる男に通用しないだろうと思えた。幸いこの近辺の谷筋は雪のない頃から山菜を採ったりして形状に詳しく逃げ切る自信があったが深い積雪の為足が雪に取られ思ったほどの早さで歩くことが出来なかった。もしかすると鬼頭との距離が縮められているかも知れない不安に先ほどから駆られていた。追い詰められたらあのような男に抵抗することも出来ないかも知れないという不安は終いには自分の身体の危機にまで高まってきていた。
 「川向に渡る前に追いつかれるかも知れない。何とかしなくてはいけない」と善造は混乱を来たした頭の中でまとまらない考えで一杯になっていた。やがて前方の川岸にふっくらとした雪の盛り上がりが見えてきた。クマザサが雪の下になっている地域に出たのであった。その向こうには冬季には水が涸れている河床があり越えて向こう岸の斜面にあがれば自分の自宅であった。しかしそれには斜面を這い上がる自分の姿を追跡者である鬼頭に見られることになり誠に都合が悪かった。きっとあのような男は他人の家にまで上がり込み家族に危害を加えるに違いないと思う不安にまた襲われたのである。そうなると善造は居ても立ってもおれなく川原の方に下り、川床から両手で持てそうな手頃な石を選びクマザサの中に潜り込んだ。鬼頭を待ち伏せする体制を取ったのである。善造の肉体は駆けめぐるアドレナリンで充満し、まるで待ち伏せをしている獰猛な動物の顔つきに変わってきていた。やがて鬼頭が雪を踏みしめる音と獣のような荒い息づかいの音が聞こえ、その男の両脚が善造の潜んでいる前に現れた。

 谷口善造は何気ない顔をして周囲に気づかれることの無いように支配人室に戻ると対策を考えた。雪解け前に鬼頭の死体を川岸に埋める算段をしていた。冬季である当分の間、人の寄りつかない場所であったが油断は出来なかった。とりあえず明日考えるしかないと思った時にテーブルの上にある鬼頭のカバンに気がついた。中を開けると札束が見えていた。弁護士も金策も必要でなくなったことに善造が気づくまでそんな時間はかからなかった。善造は独りでに笑みが浮かぶのを止めることは出来なかった。だがしかしボタンの掛け違いで始まった谷口善造の行動は最後までボタンの掛け違いで終わることに気づくにはまだ数日を待たなければならなかった。夕方には死んだはずの鬼頭がクマザサから滑り落ちた溜まり雪が顔に当たり我に返ったからである。頑丈に出来ていた鬼頭の体は小一時間ぐらい気を失っていたが後ろ頭にコブが出来ただけのことにしか過ぎなかったからである。
 「つくづく、あの野郎は運が無いのぉ、これでホテルは俺のものになった」
 鬼頭は今後のことを考えると笑いが止まらないでいる自分にほくそ笑んでいた。

 -了-
※この掌編は特別企画として2006年12月31日に『追跡者』として書かれたものに加筆訂正されたものであることをお断りいたします。

2007年1月25日木曜日

善なる人々-飛男編-

「ぎゃあっ」
 まるで獣のような声だった。目の前に起きたことを信じないというばかりの絶望にうち拉がれた声にも聞こえた。そうやって男は目の前に掘られた穴に頭から転がり落ちていった。山鳥たちの囀る音さえ緑を増した周りの木々に吸い込まれていき、一瞬の静寂のあと雨上がりの山中には掘り返した土の匂いがむせるように漂っていた。

 悪夢にうなされてガバッとはね起きた男には全く身に覚えがある夢ではなく起きてしばらくする頃には既に忘れ去ってしまっていた。ことの起こりは五年ぐらい前から始まった。職場の経理係として最初は目立たない金額だった。勘定科目を少し振り替えるだけで済んだからである。最初の二、三年は監査の眼をかいくぐることも易い小額の金であった。県の公安委員会とはいえ大概が県庁や警察からの天下りの警察員で占められていて生え抜きともいえる者は少なかった。女子の殆ども各役人から押し付けられた子女だったし菊池飛男にとって都合のいいことにその殆どが愚鈍だった。万事このような調子で経理課といっても伝票の書き方ひとつわからない者達であり実質は商業高校出の飛男に殆ど任せっきりにしていた。特に今の課長である肥田は商業簿記のなんたるかも分からない警察官上がりで、そのうえ酒や女に目がない下卑た男であった。飛男のほうで気を利かせたつもりで飲食代を捻出したことからますますその信頼を厚くした。飛男は時々肥田からの誘いにもそつなく付き合い共犯になることも忘れなかった。こういう事は万が一のためには重要なことなのである。ばれたら一蓮托生というわけである。
「課長、この前の飲食代ですけど上手く福利厚生費にしておきました」と耳に囁く。只々これの類で済み後は月に一度統括管理のほうに架空経費も紛れ込ませながら計算書を廻せばよかった。課長の判さえあれば素通りなのである。判自体も飛男に預けられ放しで、笑えることにその統括管理の役職に就いている者達の飲食費まで飛男が請け負うようになっていた。こうなれば委員会そのものさえ飛男の思うままみたいなものだった。要は商業法人と違い利益にこだわる必要もなく翌年次への繰越金が不自然でなければ良いだけである。当初はそれで千数百万円にもなる個人預金を妻に内緒でため込んでいた。だが好事も無きにしかずというか、時たま通っていた小料理屋の若い仲居である美嘉に惹かれるようになった。やがて逢瀬を重ねることになり美嘉が醸し出す肉欲に飛男は溺れていった。ついには委員会近くのマンションまで美嘉に買い与え小料理屋を辞めさせるまでに関係は深まった。昼は美嘉の部屋で食べ貪欲までのセックスに耽った。やがて御多分に漏れずその女の借金の保証に立ってしまった。飛男は女に関してだけは初心だったのであった。半年ほど経つと横領して貯めた預金通帳も空になり、寝る毎に美嘉に縋られるまま経理処理で誤魔化した金を貢いだ。飛男は若いわりに床上手である美嘉を失いたくはなかったのである。そしてついに監査も通りようも無いほどの金額にまでなってしまっていた。
 ある日、街金屋の鬼頭から飛男に督促の電話がかかった。充分に金を与えていたはずの美嘉の返済が遅滞していたのである。無論その電話で飛男は初めてその事実を知り信じられない思いだった。
「とにかく本人に聞いてから明日中になんとかする」
 自分の職域のことも考え飛男にはそれが精一杯のセリフであった。
「なるほど、オメェの職場が職場だけに答えにくいのだろうな。ふふふ。ま、いいだろう、しばらく考える時間だけやろうじゃネェか」
 鬼頭の電話は嘲笑うかのように切れた。鬼頭はこの時、飛男が周囲に聞こえることの無いように受話器に顎を押しつけるように喋っている姿が手に取るように分かっていた。街金屋の習性として飛男の役職から考えても、もっと搾り取れるという風に踏んだのは当然のことである。
 その夜、飛男は美嘉のことを嘘つき女と罵り、美嘉は二度とこんなことはしないといって泣いて見せた。舌の根も乾かないうちに新たな嘘を作り上げればすむことであり、その後飛男の情けないまでの短小ペニスを口に含みながら濃厚なセックスをしてやればそれで収まるのだ。そしてそのとおり飛男のペニスは美嘉の口の中に銜えられていった。

 鬼頭は「ぎゃあっ」という自分の口から出た大きな声で早朝目覚めた。どうやら悪夢を見たようなのだが何度記憶を辿っても夢の中でのことを思い出すことが出来なかった。
「まったく、縁起でもネェ夢だぜ。俺がやられるなんて。ま、俺ほどのものがやられるわけネェわな」
 鬼頭は気を取り直したように自分の頭の中で呟き、そんな夢はやがて頭の中から消え去っていた。稼業柄暴力には慣れっこであるが自分がやられるって事は考えも出来ないことであった。体躯が巨大で、プロレスラーばりの身体で相手に凄む鬼頭にはヤクザも一目置いているからである。まして今日の仕事は簡単でちょちょいと脅せば数百万に化ける仕事である。とりあえず今日の昼に美嘉のマンションの入口で飛男を捕まえなければならなかった。車に乗せ山中で脅せば大概の者は言われるが儘になることは鬼頭が一番知っていた。マンションの裏側にある駐車場のなるべく出入り口に近いところで鬼頭は車を頭から突っ込みトランクを開けたままにして準備に取り掛かった。

 飛男の身体は真っ暗なトランクの中で小一時間ばかりの間揺られていた。情けないことに予想だにしなかったその出来事の衝撃で震えながら泣いていたのである。鬼頭にあっという間に首を押さえられそのまま車のトランクに放り込まれ真っ暗闇の中にいた。何度も車のシャーシが地面とぶつかる音がしているところをみると悪路を走っているようだった。鬼頭は林道の入口にある車止めのゲートの手前でいったん降り鉄製の扉の前に立った。ぐわーっというその巨漢が吠える声と共にガシガシと周りに大きな音を響かせながらながら赤錆びたゲートは開かれた。周りを小高い山で幾重にも囲まれたこのあたりまで来ると人家もなく人気は一切無くなる。ゲートをくぐるり鬼頭の車は更に奥の方へ林道の轍を避けながらのろのろと進んでいった。「あいつの職場が職場だけに半端な脅しじゃ駄目かもな。大体がチクられれば俺が檻の中だ。ったくのところ美嘉もいっぱしの女になったものだ。まだまだあのおめこは使えるってもんだ。菊池よこれが終わったらまた美嘉を抱かせてやるぜ」と鬼頭はその足りない脳ミソでそれなりの絵を描きながら一人でほくそ笑んでいた。鬼頭が美嘉を仕事に使い始めて二年になろうとしていた。美嘉の父親の借金の形に無理矢理犯したのが始まりだった。まだ美嘉は高校生でしかなかったがその男好きのする顔を鬼頭は見逃さはずもなく学校帰りに事務所に連れ込んでは犯し続けた。やがて美嘉は鬼頭の身体に反応するようになり、毎日のように鬼頭のペニスをヴァギナに銜え込んだのであった。鬼頭はあらゆる性技で美嘉を一人前の女に変容させるばかりでなく彼女の思考の隅々までも弄んだのである。鬼頭が父親の借金の整理に家を競売にかけ全ての財産を奪い取り自殺に追い込んだ後も美嘉は弄ばれるが儘であった。鬼頭は美嘉を既に善悪をも越えた18歳の女として成長させていたのであった。
 車のトランクが開けられた時、飛男の目に差し込んで来る木々の間からこぼれる陽の光が痛く感じられた。
「さぁ、出ろ」
 鬼頭はスコップを手にとって車の傍で仁王立ちで立っていてその酷薄さを無表情で表していた。
「一体私をどうするんだ」
「昼飯前で気の毒に思うが、このスコップで穴を掘って貰いてぇ。ちょっと埋めるものがあるのでな、オメェにつきあって貰ったというわけだ」
 鬼頭はトランクから降り立った菊池の足下にそれを放り投げた。意味が良く飲み込めないという顔を飛男が一瞬見せたが、質問も反論も一切許さないような鬼頭の風体の前では従わざるを得なかった。すべからく世は理不尽にしかできてなかった。30分ほども掘り続けただろうか、深さは飛男の背丈近くまで掘り下げられたようであった。顔を上げるとすぐ傍では鬼頭が地べたに座りながら建設現場監督よろしくタバコをくわえて飛男の働き具合を見ているようだった。
「そうだな、もう1メートルぐらい掘ってくれネェか。それじゃ、まだ深さってものが足りねぇんだよ」
 鬼頭は白けた感じで飛男に言った。飛男はまた黙々と掘り続けるしかなかった。身体も小さく力仕事などしたこともない飛男にとってその作業はきつく何度も息があがるかと思えたが鬼頭の顔を思い浮かべるとそう不満を言うわけにもいかなかった。汗がダラダラと体中から出、顔面からそれが滴り落ちていた。
「もういいだろう、上がっていいぞ。まずそのスコップの柄を俺に向けろ、引っ張り上げてやる」
 飛男の頭上から鬼頭の声がかかった。飛男はほっとした顔を見せながらスコップの柄を頭上に高く上げしゃがんで待っている鬼頭の手に届くように差し出した。やがて力強い力が加わり身体がふわりと持ち上げられ穴の縁にまで身体が上がった。そして鬼頭を見上げようとした瞬間両膝を力一杯の鬼頭の蹴りが襲いかかり再び「ぎゃあっ」と悲鳴をあげながら飛男は穴の底に落ちていった。しばらく穴の底で打った身体の痛みを堪えていたが昨夜降った雨で軟らかくなった土のせいか怪我もないようだった。やがていくつかの山鳥の鳴き声がこの穴の底まで聞こえてきて、それが飛男の恐怖感を僅かばかり払拭したように思えた。こんなつまらないことでこの山中で殺されるのかと思ってみたが、ここに至ってはもはや手遅れだとしかいいようがなかったのである。どうやら鬼頭は本気で飛男を殺そうとしているように思えた。変な女に入れあげたばっかりに悪徳金融の鬼頭から金を借りたわが身を初めて飛男は呪った。なんとかしなくては、と飛男は必死で頭の中で考えた。その時鬼頭の声が聞こえてきた。
「このまま埋めてもいいんだが、オメェはそれでいいのかよ」
 頭上からの鬼頭の嘲笑いだった。
「助けてくれっ、なんでも言うことを聞くから」と飛男は恥も外聞も無く、すがるような必死の思いで鬼頭に哀願するしかなかった。
「そうか、なんでもするんだな。じゃー助けてやろう。今後は俺の言う通りになんでもかんでもすることだな。手を差し出せ」
 スコップの先が飛男の前に下ろされた。今度は無事に地表まで上がり終えることが出来た。両手をついたまま地面を下に見ながら飛男は自分の呼吸を整えていた。心臓ははやなりの鐘のように動悸を打っていたからである。とにかく俺はなんとか考えなくてはならない、と。そしてそのまま土下座の姿勢のまま鬼頭にすがるように言った。
「助けて頂きありがとう御座いました。今後鬼頭さんの言うことはなんでも聞きます。二度と逆らったりすることはしません。許して下さい」
 まずは時間稼ぎというものであった。鬼頭をとにかく宥めておかなくてはならない。効果はどうやらあったらしく鬼頭の顔面が緩んだことを飛男は見逃さなかった。
「うへへへ。そうか、物わかりの好い奴は好きだぜ。じゃ、車にある書類に判を押して貰おうか。いいんだな?」
 馬鹿な野郎だ。ちょっと脅せばチョロイもんだぜ。根こそぎオメエの持っているものは全て頂いてやる。鬼頭はこの先のことを考えると楽しくなってくる自分の高ぶりを抑えることが出来なかった。
「はい、なんでも仰って下さい。その通りにします」
 飛男の顔は下げたままであったが少し先に転がっているスコップに目が行った。
「じゃ、ちょっとそのまま待ってろ」
 鬼頭が後ろに振り向きざま、素早く飛男の身体が動きスコップの柄を掴んだ。そして立ち上がった瞬間飛ぶようにして思いっきり鬼頭の後ろ頭めがけて振り下ろした。鈍い感触と共にズブブッとスコップは頭蓋に入り込み突き刺さった。引き抜くように引っ張ったと同時に鬼頭の身体がクルリとこちらに向き顔が一瞬天を仰いだように見えた。そして瞬時に「ぎゃあっ」と獣のような叫びをあげた。鬼頭は穴の底に向かって落ちながら失う寸前の意識の中で今朝見た夢が正夢であったことを悟ったのである。まさしくあの声はほかならぬ鬼頭自身の声だったのである。ドサリという音を立てて底に落ちた鬼頭の頭蓋からは吹き出してくる脳漿をかき分けるようにピンク色の脳味噌の中身もこぼれ出てきていた。上から底を見ていた飛男はそのあまりにも凄惨な光景に何度も嘔吐をし、吐瀉物が鬼頭のぬめった脳味噌の上に降りかかり混じり合った。

 飛男は洗面所で顔を洗って身繕いをした後、職場に何喰わぬ顔で舞い戻った。ここに戻るまでお昼休みを入れて4時間程度経ってはいたが職場の者でそれを不自然であると思う者も居なくいつも通りであった。あれは仕方のないことでしかなかった。正当防衛というものだった。それに鬼頭の死体が見つかることはあのような山中ではまず考えられ無かった。てんこ盛りみたいに必死で埋めたのだった。やがて飛男の気持ちも落ち着き、ここまで乗ってきた鬼頭の車の処分を考えていた。あの車さえ元に戻しておけば問題なんかはないだろう、と。とにかく今日はこのまま家に帰る気分になれなかった。美嘉と時間を考えずに過ごしたいと思った。あの妖艶な口に銜えさせている自分の姿を想像するだけで飛男の下半身が持ち上がってくるのがわかった。そしてなんと言っても憂鬱の材料であった鬼頭という邪魔者もこの世に居ない。5時近くなっている時計を見ると飛男はいそいそと机の上を片づけ始めた。いつも持ち歩いているシステム手帖の中に飛男が保証人となっている例の借用証書を折りたたんで挟み込み机の奧にしまい込んだ。鬼頭がもっていた鞄の中にそれがあったのである。
 その夕刻、飛男は美嘉のマンションを訪ねるとすぐに彼女をベッドに押し倒し体中をまさぐった。そうせねば飛男の心が落ち着かなかったからであり、ちょっと油断すると鬼頭が絶命した時の歪んだ顔がふっと眼前に浮かぶのであった。美嘉は自分の性器や尻の穴にはい回る飛男の舌が鬱陶しかった。今朝の鬼頭との目眩くような獣のように連み合ったセックスの後、飛男のペニスは銜えるのも腹立たしいくらいの見窄らしさでしかなかった。美嘉が鬼頭から飛男を脅すこと聞かされていなかったら部屋にいるつもりはなかった。脅された直後の飛男の心理状態を確かめるように鬼頭に言われていたからであった。美嘉の性器を嘗め回しながら徐々に飛男の身体が転回し勃起しきったペニスを美嘉の口元に来るようにして来たのを境に呻き声を上げながら美嘉はそれを口の奥深くまで導き入れた。二、三分吸い込むように舌で転がしただけで飛男は軽い声を上げて果ててしまった。しばらくの間、飛男は昼に起きたあの忌まわしい出来事を思い出していた。如何に鬼頭が悪党とはいえ自分が殺した事実には変わりがなかった。このまま黙っていれば誰にもばれない出来事でしかなく、おまけに飛男の嵌められて担がされた借金も棒引きになる。それに自分と共に鬼頭に苦しまされていた美嘉もきっと喜ぶはずだと思った。その思いはあの殺人が自分ひとりではなく誰かもきっとわかってくれるはずだという独りよがりの考えに過ぎなかった。まさに役人生活の中で培われ来た御都合主義の見本のような愚かさであったが美嘉にだけは隠し事はしたくなかったのである。そして御目出度いことに鬼頭と美嘉が出来ていると言うことを飛男は知る由もなかった。それは凡夫の愚かさとでも言うべきであった。
「あのな、美嘉。実はな今日、鬼頭から呼び出されて会っていたんだが」
 思い切って美嘉にだけは打ち明けておこうと飛男は決意したのであった。
「あらそうなの。私はちゃんと払っているわよ」と美嘉はとぼけることだけは忘れなかった。
「それでな、いきなり山奥に連れて行かれて埋められそうになったんだ。怖かったよ」
 飛男は恐ろしさを振り落とすかのように美嘉に抱きついてきた。
「ええっ!なんてひどいことをする男なの」
 美嘉はその情景を浮かべながら笑いで吹き出しそうな自分を必死でこらえていた。だがそれは一時のことでしかなく次の言葉でそれが止まった。
「な、そう思うだろう。俺も必死になって抵抗したんだが素手であいつに勝てるわけがない。車に於いてあったスコップであいつを殴ったら、あいつあっけなく死んじまったんだよ」
 美嘉に抱きついたまま肩越しに飛男は一気に言ってしまった。その言葉を聞いた瞬間、美嘉の体がビクンと波打ったが飛男が強く抱きしめたためそれ以上の動きはなかった。こんな腐れチンボに鬼頭がやられるなんて、にわかに美嘉は信じがたかったが飛男の体は次第にがたがた震えだしてきていた。またそのことによって美嘉はそれが事実であると悟ったのである。美嘉はその頭の中で鬼頭の死を認めようとしたがどこかの隅では鬼頭によって女にされたもうひとりの美嘉が認めたくないと叫んでいるような気がしていた。そして美嘉はすぐに次の行動に出た。
「ねぇ、あんた。鬼頭はそのあとどうなったの?」
 美嘉はしがみついている飛男の腕を無理やり解きながら尋ねた。
「そのまま埋めたんだよ。だけど、ひとつ間違えばこの俺が埋まっているところだったんだ。だけど、今こうやって美嘉を抱くことができる。俺の勝ちなんだ。奴の鞄の中にあった俺達の借用証書も抜いて持ってきたし、もう鬼頭なんかに責められることもないんだよ。なぁ、美嘉、わかってくれよ」
 再び飛男は美嘉を抱き寄せ手の指を股座の奥で濡れそぼっている襞に差し込んできた。美香の体が鬼頭の死の情景を想像するからか、そこはもう鋭敏になり淫水が次から次へと滴り落ちていた。軽い呻き声が美嘉の口元からこぼれ落ちてきた。
「鞄はどうしたの?」
 美嘉はいつも鬼頭が持ち歩いている鞄の中に金融事務所のドアの鍵と金庫の鍵があるのを知っていた。
「中身をとりあえず全部紙袋に移し変えて奴の死体と一緒に埋めてしまったよ。紙袋は今テレビの上に置いてあるよ。ほら」と部屋の隅に置いてあるテレビを指差し、そんなことはもうどうでも好いといった具合で美嘉をまた押し倒した。飛男のペニスは既にもう勃起していてそのまま美嘉の襞を押し分け入ってきた。美嘉の体は得も入れぬ快感に覆われ飛男のペニスを力強く痙攣する膣で締め始めた。
 飛男は二回目を果てたあと口を開け鼾をかきながらベッドで寝入っていた。美嘉の淫水と飛男の精液にまみれたあと、そのまま乾いて白く粉を噴いたようになっているペニスはだらしなく萎えてしな垂れていた。美嘉は指の先でペニスをちょいと弾き眠りの深さを推し測っていた。一瞬鼾は止まったが、しばらくするとまた大きな音を立て始めた。美嘉はそっとベッドから降りて洗面所に向かい、その壁の下にある戸棚から電気掃除機を取り出した。そして持ち手を掴みながらベッドで眠りこけている飛男の枕元に立った。音を消すかのようにそっとリールを動かしやや太めに出来ている電気コードを二メートル程引っ張り出してそのまま飛男の首に廻しきると一挙に後ろからコードを力いっぱい絞め上げた。飛男がグッという声を喉の奥から出ししたようにも思ったが手の力を緩めることなくそのまま絞め続けていた。そして深夜にかけて飛男の肉体はバスルームの中で美嘉によって包丁と鋸によって解体されプラバケツ10個ほどに分けられ翌日には海に架かる大橋から深夜肉片として魚の餌に消えたのであった。飛男が見た悪夢もやはり実現されたのであった。

 二日も経つと美嘉は元居た小料理屋の仲居としてカウンターのあちこちを忙しそうに立ち回っていた。怪しまれないためにもそうすることが一番いいように美嘉は思ったからである。鬼頭の事務所と部屋からの金庫には数千万円の現金が出てきてそれはもう美嘉のベッドの下に隠してあった。「あとは新たな男を捜すだけだわ」と美嘉は心の中で呟いていた。なんと言っても三日も空き家になっていて下半身が疼いていてどうしようもなかったからであった。
「やあ」
 男の声がして後ろを振り返るとにこやかな顔をして男が美嘉に手を挙げていた。飛男と数回この店に来ていた課長の肥田だった。美嘉がカウンターに案内し、すぐに注文のビールとツマミの肴を持って行った。
「お久しぶりです。おひとつどうぞ」
 美嘉はことさらに肥田の首にくっつくかのように口を近づけた。それはまさに妖艶な雰囲気を漂わせて肥田に鳥肌が立つようになるであろうことを美嘉が一番よく知っていた。そのまま相手の目を見つめると肥田の脂ぎって下品な顔が崩れているのが読み取れた。肥田は一旦まわりを気にするかのように軽い咳払いをしたあと板場の眼を盗んで美嘉の尻を撫で回した。数時間後ホテルの一室で肥田の体に馬乗りになりながら美嘉が荒々しい嗚咽声を上げ腰を振っていたことは言うまでもなかった。そして翌日菊池飛男の妻からの捜索願によって職場にある飛男の机の中が捜査員の手によって開けられ、システム手帳が発見されることなどこの二匹の獣達は予想することはなかった。

   -了-
※本作はコンポラGで2006-11-30に既に発表されたものに加筆訂正を加えたものです。