2007年1月31日水曜日

善なる人々-善造編-

 雪が舞っていた。それは時には谷筋から斜面へ駆け上がろうとするわずかな上昇気流に押され杉の木々の間を横なぐりに変化し始め乱舞した。ゲレンデからこのあたりまで離れていると周りは殆ど無音状態になる。遠くから時々スキーヤに向けてのゲレンデ・アナウンスが尾根越えに散発的に聞こえてくるだけであった。今聞こえるそれ以外の音といえば斜面で足を踏ん張りながら下りに向かう鬼頭の早くなる息使いだけであり、頬といわず額といわず激しく鬼頭を嬲るような雪は野獣のごとく上気して真っ赤になったその顔から一瞬にして融け湯気をたてていた。視界を妨げている雪幕の向こうには確実に息を上がらせながら必死で潅木の間を駆け抜けている谷口の姿があるはずであった。足跡を追っている鬼頭にはその姿が手にとるようにわかっていた。なぜならホテルの支配人室のタバコの吸殻にはまだ火の残りが認められ、つい先ほどまで谷口善造がいたことを教えていたからだ。

 「その手形の支払義務は無い」と善造は受話器の向こうの男を突き放すように言った。元はといえば三ヶ月だけの融通手形の約束だった。善造の経営するホテルの軒先にスキーヤー相手にホットドッグや焼きソバ等の立ち食い店をテナントとしてやっていた男に運転資金不足を請われてやむえず貸した善造が経営するホテル会社振り出しの手形であった。シーズン短期間に売上が上がり返済も出来る予測が立っており、さしたる問題は無いはずであった。またその立ち食い店は何かとホテルの集客誘致に役立っていた。当初に切った期日は二ヶ月の三百万円であり今日がその期日であった。更に1ヶ月の延長のため三日前差し替え用の手形としてもう一枚三百万円の手形を切りその男に渡した。しかし手形ジャンプの通例として戻るべき前の手形は戻ってこずテナントの男も突然店を閉めたまま消えてしまった。そして代わりに鬼頭と名乗る街金業者から都合六百万円の手形貸し付け金があると電話がかかったのである。その内最初の一枚は期日である旨回したと宣告され先ほどの電話の応酬になったのである。確かに善造にとって借りたのは三百万円だけでありその決済は来月であり返済財源はそのテナントが払うはずの予定であった。つまり一円たりとも現金の用意はしなくても済むはずだったのである。だが今となれば、まったく違う展開が起きてきたのである。手形の呈示期間を考慮に入れ明日には回された手形が善造の取引銀行の口座に決済を迫るということになってしまった。自分が生きているこの世界は自分のものである確実性から突き放された瞬間を善造は生まれて初めて遭遇してゆくことになった。
 「だって、その手形は詐取された手形であんたの言ってることは二重取りだ。警察に訴えるぞ」
 善造は精一杯の虚勢を張って声を荒げたが受話器の向こうからは予想に反して冷静な声が返っただけであった。
 「ああ、そんなことはどうでもいいんだよ。訴えるなり拒否するなり好きなようにするんだな。先ほどガタは回したから、おれはもう知ったことではない。詐取の名目で不渡りにするんならそれでも構わんよ。そうなれば頂くものを頂くだけだがな」
 鬼頭にとって谷口善造の言葉は十分に予測できていたばかりか元々そのテナント業者に貸していた金の回収であった。つまり最初の一枚の手形は貸付金の回収方法としての返済に過ぎずビタ一文も出さず内入れ金としてとったものでしかなかった。あとの二枚目の三百万は債務者のテナント屋と謀って決済後の二、一の取りだった。つまりテナント屋に手形詐取をさせ、しばらくの逃亡資金として百万をテナント屋に握らせ残り二百万の儲けが鬼頭の懐に入るという仕掛けであった。手形は所持人のものという大原則が全てを制するのだ。あとは谷口を追い込み、場合によっては一度決済させて状況を見てまた金を貸してやればいいと思っていた。相手から只同然でふんだくった金を今度は自分の貸し金としてその相手に貸すだけのことである。なんら懐が痛むわけでもなく、ひょっとすればホテルの営業権もろとも獲れると踏んでいた。あとは全てをしゃぶり尽くせば相当額の儲けがぶら下がっているのである。鬼頭は相手の幾分震えた声から察しはついていた。アホンダラが、今日早速混み合ってやるぜ、と腹に決め、叩み込むように言葉を続けた。
 「ところで、そっちの言い分も俺にとっては寝耳に水だ。俺は金貸しとしてまっとうなことをやっている。現に確かに300万円の現金を奴に貸している。それを詐取だなんだと言われても後味が悪いじゃねぇか。こうなると俺としてはおめぇの言いたいことをよく聞いてやりたいと思うが、どうだ?事と次第じゃ明日の手形の返却依頼を銀行にかけてやってもいいんだぜ」
 物事は最初が肝心である。ここでいったん相手と直接会い圧力を加えていくことが今後の行く末を占うことにもなるのだ。鬼頭は勿論返却以来など端からする気はなかったが相手を話し合いの場に引きづり込みたかった。ことによっては新たな300万円の現金を鬼頭は谷口に放り、その金で明日の手形を決済させもう一枚手形を切らせる仕掛けを考えていた。相手の谷口にすれば予定もしていない資金繰りに対応は出来ているとは思えなかったからである。現金をいったん投げておき相手がそれに飛びつけば鬼頭に対して「詐取」は成立しなくなり善意の第三者を完璧に装える計算が働いていた。だが鬼頭の予測に反して谷口から返ってきた言葉はかたくなまでの拒否だった。
 「私の方はあんたと話することなんかありません」
 これが善造にとっての目一杯の言葉であった。いくら詐取とはいえ手形に付箋が付くのである。スキー人気が落ち込んでいる今の世に銀行に対してそのような事態を起こせば良い顔をするわけもなかった。また詐取には警察の事件受理書も必要であることもわかっていた。肝心のテナント屋の行方も知れず果たして警察が詐取と認めるかどうかも疑問であった。民事不介入が警察の大前提であり手形請求権は所持人であり善意の第三者を主張する街金業者の鬼頭の手にある事実は変わらなかった。また対応が間に合わない場合は手形相当額を供託することになることも分かっていた。何れにしても供託金に該当するような余裕資金は今の善造には無かった。これと似た話はよく世間で聞いたことがあったが善造はまさか自分の身に降りかかることまでは考えていなかったのである。
 「では明日不渡りということになるが、それで良いのか?」と鬼頭の凄みのある声が受話器から伝わってきた。善造はたたみ掛けるように言う鬼頭の言葉に応えるべき言葉を持たなかった。しばらく沈黙が続いていた。それを破ったのは鬼頭の方であった。
 「俺はオメェの言い分をただ聞こうとするだけで取って食おう、焼いて食おうってことじゃねぇ。わかるか?話し合いだよ。話し合い」
 鬼頭は鬼頭で谷口がこのまま突っ張り通し、万が一警察介入になってテナント屋が捕まれば全てを喋るかも知れないという不安もあった。そうなれば鬼頭としてもおもしろくない結果になり儲けも何も吹っ飛ぶことになる。どうしても今日中に谷口を懐柔し決着をつけねばなるまいと思っていた。こうなれば相手の返事を待つまでもなく気の弱そうな谷口を急襲し、型に嵌めるのが一番であると信じ込むに至った。相変わらず谷口は無言のままであった。
 「ああ、谷口さん話し合いはこれで無しにしておくわ。じゃあ電話を切らせて貰うぜ」と鬼頭はそう言って受話器を下ろし谷口のホテルへ出掛ける準備を始めた。とりあえず金庫の中から現金を1千万円取り出しカバンの中に無造作に放り込んだ。今後の勝負の為にも見せ金としてちらつかせる必要もあると思ったのである。
 善造の方と言えば鬼頭の電話が切れた後、支配人室の応接セットに座り込みしばらくの間、頭を抱え込んでいた。金がいる現実にはなんら変わりが無く、今のままだと明日中に間に合うとは思えなかった。もし、金が用意できても1ヶ月後にはまたもう1本の同額手形が鬼頭から回ることになるのだ。そんなことをされれば一挙にこのちっぽけなホテルは倒産に追い込まれてしまうだろう。とりあえず善造は知り合いの弁護士に頼ろうと思い電話をかけた。出来ることからしなければならないと思ったのである。だが肝心の頼りにしているその弁護士は運悪く県外の法廷に出ているらしく明日にならないと戻らない旨法律事務所の女事務員は言った。でも、とりあえずは明日のアポは入れておくしかなかった。しかし最後の頼りとしている弁護士の不在は確実に善造の気力を萎えさせるのには充分でもあった。夜には万が一の為にも二、三の友人や親類関係を回り金策もしなくてはならないことも気分を鬱にさせた。とりあえず明日を乗り切れば次の期日まで1ヶ月の余裕期間がある。警察や民事裁判を巻き込んでもこの難局は乗り切ってやると善造は何度も自分に言い聞かせるのであった。しかしこの決意とやらはこれから起ころうとしている出来事の前に崩れ去るとはこの時考えもしていなかった。何事にもボタンの掛け違いと言うことは人生においてよくあることなのだ。現に善造は所詮はひ弱な一庶民でしかなかったからであり、野獣のごとくに鬼頭がその後現れるとは想像もしていなかったからであった。

 鬼頭は除雪の行き届いたホテルの駐車場に車を止めると車内からその4階建ての建物を見上げていた。二、三千万は行けそうだなと値踏みをしてから早速ホテルに携帯電話をかけた。電話に出たのは支配人である谷口その人であった。鬼頭はにやりと笑いそのまま車から降り建物の窓のいくつかに目をやった。一人の貧相な男が窓からこちらを見ていた。その男の手には受話器がしっかりと握られていたのである。
 「谷口さんよ、下の駐車場に着いたよ。今からその部屋に行かせて貰うよ」
 鬼頭はそう言って電話を切り、窓から覗き込んでいる善造に向かって手を振って見せた。大型の黒塗りのセダンから出てきた坊主頭の厳つい大男がこちらに手を振っているのを善造は見ていた。スキー・リゾートに似合うわけもなく革靴のままの風体はあたりのスキー客を威圧するかのように遠ざけてこちらに向かって歩き出した。善造の心臓がドクンと鳴りだし一瞬呼吸が乱れたような気がした。大きく深呼吸をしてみたが心臓の動悸は止まることはなく、膝も心なしか震えているようであり自分で何度落ち着くように言い聞かせても、ふるえは止まらなかった。自分のいるこの支配人室はほかには誰もいなかった。このような突然の事態の予測は善造の考えには入っていなかったのである。だが善造の取った行動は素早かった。彼にとっては支配人室から逃亡することしか考えれなかったのである。鬼頭が支配人室と表札のあがった部屋に到着したときには谷口の姿が既に消えていた。応接セットのテーブルにある灰皿にはまだ火が付いたタバコが残されていたのみであった。鬼頭はいったん手にしていたカバンをテーブルの上に置き窓の外を見ると長靴姿で逃げるように走っていく谷口の後ろ姿を認めることが出来た。鬼頭にとっては話し合いに来たつもりであり暴力を振るうつもりでもなく、只じわじわと言葉で攻めればいいと思って来ただけのことであった。まさかあのように動転して逃げるとは想像も出来ないことでしか無く、鬼頭は大きな舌打ちと共に支配人の大きなデスクを蹴飛ばすしかなかった。
 「なんなんだ、あの野郎は」と鬼頭は毒づき谷口が道の向こうの灌木の中に走り込んでいく後ろ姿を見ていた。だが逃げる者は追うのが鬼頭が本来持っている習性である。また手形期日を考えるとどうしても決着をつけておかなくてはいけなかった。鬼頭はそのまま一旦車に戻り長靴に履き替えて直ちに善造を追跡する準備に入った。
 谷に向かってなだらかな下り斜面を鬼頭は谷口の足跡を辿りながら足を早めていた。先ほどから降り始めた雪は時々横なぐりに舞い始め鬼頭の顔面を叩くようであった。善造も必死に鬼頭から逃げながらこの状況に陥っている自分を冷静に見ることなく、いわば恐怖の余り気が動転している自分に気づいていなかった。今となれば、何故あのとき逃げたのだろうと一度考えを振り出しに戻せば済むだけのことでしかなかった。だが、いまの善造にはその余裕が無く木立の陰で時折後ろを振り返るなどして頭に溢れこぼれる妄執に取り憑かれていたのである。確かに遠方をよく見ると雪の中に黒い人影が見えていた。あのような風体の者はきっと暴力を振るうに違いないとそのとき思い込み、体が頭と違った方向に向かっただけである。しかし今となってはどのような言い訳もあの追ってくる男に通用しないだろうと思えた。幸いこの近辺の谷筋は雪のない頃から山菜を採ったりして形状に詳しく逃げ切る自信があったが深い積雪の為足が雪に取られ思ったほどの早さで歩くことが出来なかった。もしかすると鬼頭との距離が縮められているかも知れない不安に先ほどから駆られていた。追い詰められたらあのような男に抵抗することも出来ないかも知れないという不安は終いには自分の身体の危機にまで高まってきていた。
 「川向に渡る前に追いつかれるかも知れない。何とかしなくてはいけない」と善造は混乱を来たした頭の中でまとまらない考えで一杯になっていた。やがて前方の川岸にふっくらとした雪の盛り上がりが見えてきた。クマザサが雪の下になっている地域に出たのであった。その向こうには冬季には水が涸れている河床があり越えて向こう岸の斜面にあがれば自分の自宅であった。しかしそれには斜面を這い上がる自分の姿を追跡者である鬼頭に見られることになり誠に都合が悪かった。きっとあのような男は他人の家にまで上がり込み家族に危害を加えるに違いないと思う不安にまた襲われたのである。そうなると善造は居ても立ってもおれなく川原の方に下り、川床から両手で持てそうな手頃な石を選びクマザサの中に潜り込んだ。鬼頭を待ち伏せする体制を取ったのである。善造の肉体は駆けめぐるアドレナリンで充満し、まるで待ち伏せをしている獰猛な動物の顔つきに変わってきていた。やがて鬼頭が雪を踏みしめる音と獣のような荒い息づかいの音が聞こえ、その男の両脚が善造の潜んでいる前に現れた。

 谷口善造は何気ない顔をして周囲に気づかれることの無いように支配人室に戻ると対策を考えた。雪解け前に鬼頭の死体を川岸に埋める算段をしていた。冬季である当分の間、人の寄りつかない場所であったが油断は出来なかった。とりあえず明日考えるしかないと思った時にテーブルの上にある鬼頭のカバンに気がついた。中を開けると札束が見えていた。弁護士も金策も必要でなくなったことに善造が気づくまでそんな時間はかからなかった。善造は独りでに笑みが浮かぶのを止めることは出来なかった。だがしかしボタンの掛け違いで始まった谷口善造の行動は最後までボタンの掛け違いで終わることに気づくにはまだ数日を待たなければならなかった。夕方には死んだはずの鬼頭がクマザサから滑り落ちた溜まり雪が顔に当たり我に返ったからである。頑丈に出来ていた鬼頭の体は小一時間ぐらい気を失っていたが後ろ頭にコブが出来ただけのことにしか過ぎなかったからである。
 「つくづく、あの野郎は運が無いのぉ、これでホテルは俺のものになった」
 鬼頭は今後のことを考えると笑いが止まらないでいる自分にほくそ笑んでいた。

 -了-
※この掌編は特別企画として2006年12月31日に『追跡者』として書かれたものに加筆訂正されたものであることをお断りいたします。