2005年6月26日日曜日

めまい

 先日の面会の時、藤田のいったことが頭にこびりついて離れなかった。もうすべてを失ってしまっているらしい。
「南無さん、もう出てきてもなにもねぇよ。わしももうあんたにしてやれることもなくなった。だから、これが最後の面会だと思ってくれ。すまねぇが、大阪に帰るよ」
覚悟はしていたが言葉に表されると嫌な気分だった。検事はどうしてもオレをすんなり出す気がなかったようだ。引っ張りに引っ張られて先日第二回公判をようやく終えたばかりだった。オレのグループも根こそぎやられちまったというわけか。もうオレも未決で4ヶ月目に入った。頭もボケ始めてきていたが、別段構やしねぇだろう。どうせ出たってやることなんかねぇ。それに毎日塀越しで空を見るのにも飽きてきた。でも飽きた空を見るしかあんめぇ。

やがて廊下に歩く音が響いてきた。がちゃりとあたりを響かせて鉄扉があけられた。
「1024号!身の回りのものを持って出ろ」とオヤジ(刑務官)がオレに言った。保釈が通ったのだ。
廊下を歩きながらオヤジは言った。
「もう来るなよ、南無」と初めて笑顔を見せた。
「へぇぃ、戻らんようにしまっさ」
保安課で一通りの手続きを済ませてスーツに着替えゴム草履から革靴に履き替える。廊下をまっすぐに歩き最後の格子扉が開けられる。整然と歩いているつもりだったが革靴の重たさに一瞬足を取られてしまいよろけそうになってしまった。もうここは来ネェ、とオレは呟いていた。
表へ出ると妻と三人の男達。見上げると天空が真っ青だった。そしてそれは眩暈と共に襲い始め、またオレの足をふらつかせた。
 もう失うものは家族だけか、と空に向かって呟いてみた。

2005年3月13日日曜日

閉ざされた男

 朝の点呼は一瞬で終わるものなのだが、たまに手違いというものも起きる。朝の未決舎房は爽やかにキリリとしていなければならないのだ。起床から点呼までには、これはこれでいろんな雑用もあり時間が思うようにまわらない時もある。変な話しだが排便は要領よくやらねばならない。当たり前のことではあるが雑居房の居住人口が増えてくるとスピード、カラーは部屋長が思うようには統一出来ないようになってくるものだ。オレが次席になっていた頃だったが、アホが増えた時があって随分部屋長が苦労していた時期があった。
 ある朝の点呼ギリギリまで便所に座っていた若いヤクザ者がいた。廊下の向こうからこちらに少しずつ近づいてくる点呼の声がしているので正座して所定の位置(横二列)に着いている我々はお互い顔を見合わせてガラス張りの便所を見た。朝から腹が痛いと言っていたヤツはまだしゃがんでいた。頭も悪いがケツも重い野郎なのである。オレは末席の太郎(懲役太郎)に合図を送り便所のドアをノックさせた。当人はすぐ意味が分かったらしく、慌ててズボンをたくし上げノブを回した。しかし、どういうわけかなにかに噛んでしまったらしくドアノブはまわらないままに彼は中に閉じこめられてしまった。最初は皆冗談だと思っていて、太郎に言って外からノブを回させたが本当に壊れているらしく空回りをするだけでドアは閉まったままであった。そして点呼は隣の部屋の扉を開けた音がした。慌てて太郎も作業もあきらめ所定の位置に座った。ギリギリであった。
 房室の扉は大きい音を立ててガチャンとあいた。
「番号っ!」
25番から始まり31番迄連続で終わらなければならなく、それぞれそのまま自分の番号を言うしかなかったが、瞬時にそれは取りやめになった。オヤジさん(舎房長)はむっとした表情でぐるりと部屋の中を見渡し。
「29番っ!どこだ?」
「便所でありますっ!」と部屋長はまっすぐな姿勢でオヤジに答えた。みんなであらためて便所を眺めると、ガラス越しの中で泣きそうな顔をして29番は立っていた。そしてこの馬鹿野郎は「29番っ!」と大声で何度も中で叫んでいた。深夜でもなく声はかすかにしか聞こえなかった。またそれは大体が点呼と呼べる代物ではなかった。笑うわけにもいかず全員で忍び笑いを堪えていた。点呼で笑いは禁物なのであった。すぐさま警棒を持った看守が二人上がってきてドアのノブを回した。
「29番っ!貴様っ!なめとんのかっ!あけろっ!」どうやら看守は中で29番が故意でやったのかと思った様子だった。
「勘弁しくださいよぅー、壊れたんですよぅー、御免なさい」ともう泣き声になっていた。オヤジはもう一人にすぐさま工具箱を持ってこさせ、なんとか事なきを得てノブを外し29番は部屋に出ることができた。そして我々は全員正座をし直し、看守も元の位置に戻り、改めて緊張の趣で再び始めることになった。
「番号っ!」オヤジさんの声は一段と大きな声になった。両隣の連中も側耳を立てているはずなのだ。
25番っ!、・・・・・、28番っ!と進み、オヤジはギロリと29番を睨みつけた。神聖な点呼を台無しにした男である。もの悲しくも大きく長い音で29番の尻から屁の音が部屋中に響きわたった。
そして29番は神妙な顔つきで言った。
「ありゃ、中身も出たっ!」
オヤジさんは引きつった顔をしながらも、もう一度叫ぶように言った。
「番号っ!」
「25番っ!」・・・・、「31番っ!」と長かった我々の部屋の点呼が終わった。そして何事もないような顔で隣に移っていった。
 しばらくすると再び部屋の扉が開けられ。29番は着替えと共に廊下へ立たされた。
「きをつけっ!前へっ!」と看守はほとんど怒鳴っていた。
29番は風呂場への道を行進して行った。ケツをもぞもぞ振りながら。

-このショート・ショートを愛を込めてPaco Garciaに捧げる-

2005年3月12日土曜日

老犬

 当時オレは福井で破門になった野郎と駅前を根城にして五人で徒党を組んでいた。恐喝や詐欺行為を働くクズ集団である。日本人はオレと松本を出所したばかりの詐欺師のオッサンで、あとの三人は朝鮮人の食いっぱぐれた愚連隊である。駅前は中心街から少し離れていて金筋モンの目からも逃れることが出来、仁義も屁ったくれも無い我々にとっては、それなりの天国だった。つまり、やりたい放題である。しかし調子に乗りすぎて領域を越えてしまい、とんでもない金を結果的に沈めてしまった。そしてその金のことはオレとオッサンは話から外されていてまったく知らなかった。朝鮮人が民族の団結とばかりにオレ達日本人を外して仕事をかけたのだった。常に即物的にしか生きてない中でも手を出していけない領域はあったのである。
 まず奴ら三人の連絡がパタリととれなくなり消えてしまった。いつもの喫茶店にはオレとオッサンしかいなく、二人とも様子がおかしいことに気づいていた。それなりの嗅覚というものは悪党には自然に備わっていくものなのである。取り敢えず喫茶店を外し、ホテルのロビーへと場所を変えて情報収集をすることにした。結果は最悪であった。追っ手がかかるのは時間の問題だったのだ。懲役の回数と同じ八度目の結婚をしたばかりのオッサンは真っ青な顔をオレに見せた。
「南無さん、相手が悪すぎるよ。オレは伝手(ツテ)を頼って女と青森にでも蒸ける。アンタもどうだ?」とオレを誘った。
「どうするって言ったって、オレにはどこも行くとこなんかねぇよ。だってそうだろうが、オレ達の知らない事じゃないか」
 オレは不満であった。関係ないじゃねぇか、と。オッサンはそそくさとオレの前から去っていった。オッサンは伊達で太郎(懲役)をやっていたわけでないことはその後直ぐオレに分かった。
 次の日の夕方、行きつけの赤割屋で飲んでいると、競輪帰りの隣の常連がオレの顔を見て、あごで入り口を指した。入り口に数人立っていた。そして一人がやってきた。
「南無さんだな?来てくれるか」と言った。
「いやだ、それにおめぇなんか知らん!」とオレは立ち上がった。カウンターしかない店で人ひとりがやっと通れる隙間が壁板との間にしかないバタ小屋である。当時百キロを越えていた身体でオレは腕力には自信があった。どうせやられるんだ、順番に来いっ!ひとりを蹴り倒し足の下にし、そのまま椅子を振り上げて入り口に向けた。しかしそれまでであった。三人が一挙にカウンターに飛び上がり、なだれをうってオレに襲いかかった。正面から来た野郎にしたたかうちのめされ、おれの身体は崩れた。あとは倒れたオレの足を掴み表までずるずると引きずられて行った。

 そして、オヤジに出会った。
「失業中らしいな?ま、もっともおめえのようなクズはもう雇ってくれるものはこの街にはおらんだろうがな」とオレに問うた。
「金も財産もオレには無いっ!何を言われてもどうにもならないんだよっ!」といわば反抗的な態度でオレは答えた。
「どうやらいきさつにはおめぇが関わっていないことが分かっている。しかし、いまとなれば、唯一逃げなかったおめえに責任をとって貰うしかないのだよ。言い訳は通用しねぇ。だと言って、おめぇを煮て喰おう、焼いて喰おうというわけじゃねぇ。手を煩わせるな」
 顔は笑っていたが、オレは初めて死の恐怖を覚えた。そしてそのことがオレに敗北感も教えた。もっともいまだ嘗て何にに勝ったということもないのだが。
「で、どうしろというんだ?」
 恥ずかしいが声は震えていた。
「おめぇの仲間が嵌めた後始末をして貰いたい。調べたところ大きな会社にもいたことがあり、おめぇにはその能力があるようだ。今日は帰っていい。しばらく考えてからここへ来い。ついでに毎月生活出来る程度の金の面倒は見るつもりだから、事務員におめぇの預金口座番号を伝えておけ」
 それで終わった。そしてオレは狂犬のまま縛られたのであった。

 病院の廊下でオレはオヤジの腎臓透析が終わるのを待っている。今のところ週一回であるが、やがて回数は増えてくるだろう。オヤジの娘が忙しい時はオレが病院に連れて行くのだ。それ以外誰の言うことも聞かない。オヤジも76歳となりオレの手がないと階段を上がることが出来ない状態になった。
 そしてこのオレも年老いてしまった。今は二人で共に静かに死の影を見つめている。

2005年3月11日金曜日

夕暮れ

「参るよなぁ。本当に困ったよ。私の脳味噌ではなぁ。頼むよ南無さん」と石田はオレに泣きを入れてきた。石田は市内の中心地で和装の老舗をやっている。歳は40代半ばであった。女も三人居てそれぞれに盛り場で小綺麗な店を持たせていた。いわゆる旦那さんである。しかし商人らしく性格に狡さを持っていた。オレはその貧相な部分が嫌であった。こういう人間は隠し事が多く最後にタイ(体)を引くのでオレは彼の話にのりたくなかったのだが。
 話の趣旨はこうだった。高校時代からの友人に金を貸した。最初は二、三拾万程度であったが2年もしたら300万円になってしまい、金額的にかさんでしまったのでとりにくい状況になった。債務者は農家の長男で会社員の月給取り、家、田畑もそれなりにある。結婚はしていなく、もっぱらの金の使い道はフィリッピン・パブの女である、と。
 とりあえず彼の事務所へ行くことにした。今までの人間関係を考えると電話だけで断るのも気が引けたからである。まずはビジネス・ライクに切り出すやり方で話の内容を聞くことにした。
「取り分は?」とオレは聞いてみた。言いたいことは判っている・・・。
「どうだろう?サンブナナブ(三分七分)で。上げれますか?きちっとした借用書もあります」案の定、値踏みは安かった。ケチな駆け引きはしたくなかった。断るためにオレは五分五分と言った。
「え~っ!ヤクザみたいだなぁ。南無さんは堅気なんだからふっかけないでよ」とわざと大袈裟な驚きの声を上げた。しかし石田の目は定まっていなかった。何か隠している目だった。
「オレはどっちでもいいよ。別に今困っているわけではないからな。呼んだのはアンタだ」と突っぱねた。
「わかりました。言う通りにしましょう。取り敢えず今50万あるから着手金です。納めて下さい。方法は一切任せます。ただし私に迷惑はかけないで下さいね」最初から用意してあったらしく金は白い封筒に入っていた。そして借用書も目の前に置いた。出来過ぎであるとオレは思ったが言葉の文もある。引き受けるしかなかった。
「承知した。受けるよ。ついては仕事がやりやすいように相手の債務者とオレのレールは二、三日以内にそれなりに引いておいて下さい」こういう風に話は進むことになった。

 数日後債務者と会うことになった。その男は典型的なオボッコイ百姓にしか見えなかった。友人に迷惑はかけれないでしょう、と言ったら素直に応じた。何故あの狸はオレにこの男の事を任せたのか疑問は残ったが気にはとめないようにした。オレの知った金融屋にとりあえず債権を振ることもこの男は了解した。これでオレの分野は終わった。金融屋は自宅に1000万の根抵当権を組んだ。金利後払いで400万の貸し付けだった。男は石田に300万を返してくれと言ってオレに渡した。自分で返せ、と言ったが聞き入れなかった。石田がオレを使ったことでやはり多少の気分を害しているのだろうと仕方なく、その足でオレは石田に金を渡しに行くことになった。そして報酬の残金を受け取った。あとは金融屋と債務者だけの問題でオレは抜けれるはずでもあった。だが、オレの本能はブレーキをかけた。石田のところを出る際オレの疑問をぶつけてみた。
「なぜアイツは自分でアンタに金を返しに来なかったんだ?」と。
「いや、別段考えることもないだろう。無事終わったことだし、感謝するよ」石田の声は心なしか震えているように思え、目に落ち着きがなかった。
「オレに教えておくことはないのか?」ともう一度オレは石田に言った。石田はどぎまぎとした態度を見せ、立って社長室をぐるぐる回り始めた。オレは応接セットの椅子に座り直し石田に応えるように言った。
「いやね、南無さん私はね、ご覧の通りの人間で気が小さいんだ。高校時代もねアイツにきつく当たられて、それが、トラウマみたいで貸し続けたのです。だから、喧嘩腰で来られるとね・・・。恥ずかしい話しだが怖いのが苦手なだけですよ。ははは。それ以外ありません」と無理な笑顔を作っていた。これ以上聞いても言わないだろうとオレはそれ以上問い質すことはしなかった。素人との喧嘩に負けるはずがないからだ。でもそれが間違いのもとであった。

 3ヶ月後、その百姓は猟銃を持ってあの金融屋に乗り込んだ。その時オレは石田の顔を思い浮かべたのだった。奴もやられたのだ、と。
金融屋はオレの携帯を鳴らした。
「南無っ!たすけてくれっ!」金融屋の城石からだった。ただごとではない声の震えに緊迫感が伝わってきた。
「どうしたんだ?」とオレは平静を装った。こんな電話はよくあることだからだ。受話部分を強く耳に押しあて、運転中だったオレは車を道端に止めた。
「経川が鉄砲持って来やっがった。お前がなんとか説得してくれ。もう、辛抱たまらん」オレが電話に出たことによって城石は少しは落ち着いたようだった。
「原因は何だ?」聞かなくとも判る。不法金利か”騙し”がバレたかだろうと俺は思った。でも、なんで鉄砲持っていやがる。
「とにかく、”銭は払えない”の一本槍だよ。うひゃーっ!けぇーっ!」あとは悲鳴になった。しばらくすると、電話を取り上げたらしく”債務者”経川が出た。
「経川さん、南無です。何かあったのですか?」とわざと落ち着いた声でとぼけて言ってみた。
「南無かっ!あんた等でオラを騙しやがって。許さんから、ここへ来いっ!でないと、こいつら全部撃ち殺すからなっ!」興奮した口調だったが、前も石田と” ある”と踏んでオレは説得を試みることにした。まわりの事務具なんかを蹴り倒しているらしく大きな音が何回も響いて聞こえた。
「わかりました。でもそっちへは行けない。来客があったら”大騒動”になるだろう。こんな事でアンタも警察に捕まりたくないだろう。二人っきりならアンタの指定する所まで行きます。それでどうでしょうか?条件も聞きます」と返した。
「ふんっ!オラがおっとろしいのか?へなちょこめがっ!」と荒い呼吸が伝わってきた。自分で自分を興奮に高めた時の状態だろう。ふん、とうしろがっ!これからが地獄の一丁目だぜ、とも思った。鉄砲でテッポウするとはシャレにもならねぇ。それよか許せねぇ、と憎悪が頭をもたげてきた。
「時間と場所を言って下さい。約束は守りますから落ち着いて下さいよ、経川さん。お願いします。どれだけでも私が謝りますから」と声をわざわざひきつらせて高音にした。奴はこれで引っかかるはずだ。しばらく考えているらしく、聞き取れなかったが城石に怒鳴りながら何か言っているようだった。二、三分して再び経川は言った。
「ようし、わかった。今晩7時にオラの指定する所まで来い。一人で来るんだぞっ!わかってるんかぁっ!」受話器の声は割れていてオレは耳を離した。
「オラはいつでも引き金は引けるんだ。忘れるな」とも言った。彼は意気揚々と帰った。そしてオレは急いで金融屋のところへ駆け込んだ。

 城石の目はつり上がっていた。興奮いまださめやらずという所だろう。取り敢えず謝るしかないだろうと思い頭を低く下げた。
「とんでもない客をもってきたもんだよ。一体お前は”あとしまつ”どうするんだよ?ふぅ~っ!」と大きな溜息をついた。
「申し訳ないことしました。ケツモチはします」とオレは素直に装って城石に謝った。しばらく時間は流れた。城石は自分から喋ろうとしなかった。”ケツモチ”の内容をオレの口から聞きたいのだった。オレはわざと時間を長くしてみた。もっと苛ついたほうがオレにとってはいいのだ。
「提案ですが社長、喋っていいですか?」とオレは申し訳なさそうな顔で言った。
「言ってみろ」怒った顔はそのままだった。
「ご存じのようにオレは今晩、経川に会いに行かなければならない。わかりますね?」城石は一瞬戸惑いの表情を見せた。構わずオレは話しを続けた。
「オレはアイツを単なる百姓ぐらいにしか思っていなかったことは事実です。社長を騙したわけではありません。しかし責任はあります。と、言っても、ただ何も無しで行ってもあの野郎はまた暴れに来るだろうと思います。それどころかオレに鉄砲ぶっ放すかも知れません。オレもおっとろしんですよ。それで土産が欲しいわけですよ。でもね、社長には勘違いして貰いたくないのです。債権はきっちり上げるつもりです。ですからオレの指示に従って貰えませんか?」それだけ言うとオレは城石の返事を待った。
「わかった。ワシもあんな奴は二度も三度も会いとうない。お前の指示通りにしよう。任せるよ」と深い溜息をついた。これで言質はとった、とオレは内心笑みを浮かべた。待ってろ経川、トウシロがっ!どっちへ転ぼうが、この勝負はオレの勝ちだぜ、と。
 城石に簡単にオレの作戦を説明し、色々な書類に印鑑を押させた。金融会社の根抵当権設定の権利書、根抵当権抹消登記の委任状、借用証書、等々。抹消登記の委任状は城石のもう一つの別会社の横判を押させ無効に、公正証書に組み直した借用書は持参せず、と云う大まかなスタイルになった。どうせ鉄砲で脅した脅迫にもとづく抹消登記には効力なんかない。これで道具は揃った。嘘がばれなきゃ”無事”というもんだ。

 万が一も考えてオレは早めにシャワーを浴びて身を小綺麗にした。熱いシャワーはオレの闘志をかき立てた。しかし「万が一」が怖かったのは言うまでもない。こんな場面は誰でも区別無くいやなものだ。しかしオレには経川の素人としての計算が手に取るように判っていた。”降参”と云えば勝ち誇るだろうと。しかしオレは石田のようなわけにはいかないぞ、経川さんよ。念のため当初の”依頼主”の石田に電話をした。今日の出来事を簡単に話した。電話口でしきりに俺に謝っていた。鉄砲事件は勿論彼のほうが早く経験済みであった。狡さのお釣りは大きくなるぜ、とオレは心の中で石田から事後むしり取る算段をしていた。オレは思った、これを”事件”にしなきゃなにが事件かっ!たっぷりとみんなからしゃぶってやる・・・。とは言うもののオレが生きていればの話しだ、が。経川が暴力的ゆえオレの身が心配だった。道具を持つと人間は変わる、とヤクザモンに教えられていたからだ。恐怖は”金と云う懸賞金”で乗り越えるしかない。金のニオイの無い恐怖は願い下げ、逃げるが勝ちだ。
 6時半頃経川から電話が入った。場所はやはりヤツの郊外にある自宅ではなく市内の中心にあるマンションの八階だった。金貸し泣かして豪華生活か、けっ!なにが給料取りの百姓だ。
 インターホンを7時きっかりに鳴らした。カメラ付きの豪華版だ。中から小柄なフィリピン嬢が出てきた。ドアを空けると彼女は廊下まで出て辺りを見回した。
「オレは一人ですよ」とその女に言った。そのままオレは女に中を案内された。市内の夜景が一目で眺められる大きなリビングだった。会社員であることは事実だがこんな野郎はいないだろう。オメコにイカレている証拠だ。
 経川に促されて革張りのソファに座らされた。経川の横には銃底を下にして専用の猟銃台座に銃が置いてあった。トラップには精巧な女が彫られていてベラッチのオプションのようだった。ただの月給取りではなかった。腕前も相当とオレは看てとった。さしずめオレも害獣というわけだなと妙な感心もした。
「変なモン持ってきていないだろうな。鞄を前に出せ。それから立って手ぇ挙げて後ろ向け」と銃に手を延ばしながら言った。オレは素直に従った。そして、ボディ・チェックが終わるとそのまま経川の目の前で土下座して頭を下げた。
「まことに申し訳ありません。後日色々なことを聞きました。城石が無法の金を要求したことも・・・。すべてオレの責任です。この通り許して下さい。何でもアナタの言う通りにします」と涙声になるように言った。そして頭を絨毯にこすりつけるように下げ続けた。しばらくすると経川は嘲笑いながらオレに言った。
「おいっ!南無!まだ頭の下げ方、たらないんじゃないの。もっと擦りつけるようにしばらくしとれっ!ははははは」そして銃底の角を思いっきりオレの背中に振り下ろした。激痛が走りオレはその場で蹲るようにして倒れるしかなかった。あまりの痛さに目から涙が出て獣のような唸り声を上げた。
「勘弁して下さい!お願いです!」情けないが全くの涙声だった。
「馬鹿野郎!クズがぁっ!」経川は興奮しだした。オレは身の危険を感じて震えが全身にまわってきた。ガタガタと。そして震えながらオレは必死に言った。
「解決しに来たんですっ!話しを聞いて下さい」話を本筋に戻さなければヤバくて辛抱たまらん。
「オラが決めることだろうがっ!馬鹿がっ!」とオレの顔を片手で上げさせ睨みつけた。オレはまた絨毯に顔をすりつけた。そして、頃合いを見て顔を上げた。
「その通りです。書類も色々持ってきてるんです。聞いて下さい。お願いします」とオレは経川の顔を見た。
「じゃ、オラに見せろ」経川は冷静さを取り戻したようであった。ふぅー、助かった。これからが本当の実戦だよ、半端な知識が知恵に殺されるという。オレは痛みに堪えながらそう思った。あとは一か八かの口車の世界だ、口上はおめぇより上手いぜ、と。
 あとはすっかりオレのペースになって話は進んでいった。オレはアンタに一生ついて行きます、とオレは経川に何度も言った。アニキと呼ばせて下さいよ、とも。こうなれば何でも言えばいいのだ。書類はすべて信じた。根抵当権が登記抹消され、借用書が帰るとなるとアホは信じるものだ。そしてその肝心な借用書を返すと、もう御機嫌になって女にオレにお茶を出せとまで言うような張り切りぶりだ。予想通り勝ち誇っていやがる。こいつはやはり根っからの善人なのだ。恐怖はこいつにこそ降り注いでいるのだと思った。
「登記手続きはどうしましょうか?」とオレは経川に聞いてみた。ここが肝心な所だ。相手は暴力によってオレを支配したと思っているかどうかの判断にもなるのだ。
「南無が代書屋に持って行ってくれ。オレのハンコは認め印でいいのだよな」と言って立ち上がりベラッチを台座に置き、奥の部屋に消えた。しばらくすると印鑑をテーブルに転がし、女にウイスキーを二つ持ってくるように言った。”かかった”と思った。支配する暴力はオレのほうが知ってるよ、ふふふ、だと心の中でほくそ笑んだ。
「それでですね、アニキ、登記が完了するまで1週間ぐらいかかると思うのですけど、どうでしょうかね?」とオレは猫撫で声で問うてみた。
「そうだな、代書の先生に任せるしかないやろ」と軽く返事をした。確実な地獄行きの切符を持たされるとも知らずに、だ。
「じゃ、俺に任せて下さい。代書屋は堀端町の木下先生にお願いしてきます。ウイスキーのお代わり戴きますよ。アニキ」と手揉み同然に奴の御機嫌をとりだした。そして気になることをヘタな芝居を打ちながら聞いてみたりもした。会社のこと、兄弟のこと、年老いた母親がいること、フィリッピン嬢の存在をまわりに隠している事等々、脆く保守的な階級であることが判った。オレはそれを聞きながら追い込みの絵図を組み立てていた。そして、その夜は遅くまで経川とウイスキーを酌み交わした。体の痛みを忘れるために。
 残された日数は7日間。オレの嘘に気づいた時に経川はきっと暴走するだろう。この攻め合いに果たしてオレの勝ち目があるのか。ヤツの懐深く押し入るしかなかった。心の奥隅の澱みから何度もぶくぶくと恐怖に囚われたように妄念が湧き出てくる。その晩部屋に戻ったオレは朝まで眠ることが出来なかった。目を瞑るとオレの脳漿が飛び散るイメージが眼球の中で際限なく繰り返された。まだ俺の頭にウイスキーが残っているのか?そして明け方意識を失うように眠りに落ちた。

 電話の音が夢の中でリンリンと鳴っていた。はっと起きあがると午前10時をまわっていた。背中の痛みが激しく思わずオレは唸り声を上げた。左腕を上げると痛みがいっそう増した。そのままシャワーを浴び鏡で背中を見た。肩胛骨の下がどす黒く腫れていた。どうやら骨は大丈夫のようだった。これも道具だ、とオレはこれからの行動に思いを巡らせ、素肌に薄手の白いワイシャツを選んだ。
 さて、と。頭で描いた絵図をもう一度組み立てた。そして石田と城石に電話を入れアポをとった。たぶん今日一日で勝負の行方が見えてくるはずだ、と。
 石田は待っていた。
「この通りだよ」とオレはワイシャツを脱ぎ腫れ上がった背中を見せた。いかなる言葉の説明より早いからだ。
「無事でよかったです。南無さんに何かあったらと思うと心配です。・・・・・。ところで私は大丈夫ですかね?」石田にとってはオレのことよりも自分の身が心配なだけだ。
「うん、それをオレも気にしているんだ。なにしろ、興奮すると手に負えないくらい”暴発”するのでね。今のところはオレへの怒りは少し治まったようだが。まだ終わっているわけではないよ。ほんとの喧嘩はこれからだからね」とオレは石田の不安をもっとかき立てるようにいった。
「と、いうと?」石田は不安そうな顔で落ち着きが無くなってきているようだった。
「”キリトリ”が残っている。城石の元金と金利が未精算だ。いわばアンタの身代わりに金銭の損害が出たのだからな。従って今晩あたりからモメルかも知れない」オレは石田の恐怖を利用することした。そして更に続けた。
「つまり、2、3日身を隠しておいてくれないかな?オレは立場上逃げるわけにはいかないが、あんたはさ、ほれ、商工会議所の視察旅行とか、何とでも理屈はつくだろう。しばらく女のところでひっそりして貰いたいのだよ。オレがアイツとぶつかったとしてだな、とばっちりは必ずアンタのとこへ行くと思うんだよ。被害妄想とはいえ今もアンタを恨んでるからなぁ。アンタがちょこっと隠れているだけでオレは”仕事”がし易くなるんだよ。このままじゃ、アンタが足手まといでしょうがないよ。オレはスーパー・マンでないのでな。自分を守るので精一杯だ」
 勿論石田の反応はイエスだった。そして、城石も石田に見習って金沢の女のところへ早速飛んだ。これで、いいのだ。

 オレは午後2時頃自分の部屋に戻り電話をかけまくった。さて、発火だ、と。まずは経川の勤めている北陸合成化学の人事課へオミズの店長を名乗りキツイ口調で電話口に出た男を脅しまくった。フィリッピン女を休ませてばかりいて困っている、これじゃ営業妨害だ、経川をクビにしてウチの店で働いて貰う等々と大声でわめき散らした。次に経川の姉と弟の家に電話した。本人が出ようが出まいが関係なかった。とにかく出た者に金融業の商号を名乗り、借金は返さないは、外人女にみつぐは、猟銃で脅されるは、で警察に行くしかない、てなコトをわめき散らした。姉の家は当人が、弟の家はその妻らしき者が出ていづれも最後にオレに謝っていた。そして仕上げに経川の老いた母に電話した。これで保守的で脆い百姓一族は緊急に実家に集まるだろう。そして、彼は暴発する、と。
 その夜オレはあとの動きを見ようと部屋に鍵をかけてまんじりともせず待っていた。電話が鳴るのは早かった。午後9時過ぎだった。経川の低い声が向こう側から聞こえてきた。
「南無、オラは今から外へ出る。頭の中がくるくる回っていて、みんなの前に座っておれない」オレに対しての怒りは感じられなかった。どうやら、ざわついているまわりの音を考えると実家から電話をしているようだった。そしてオレの毒薬がまだ効いているのかも知れないと思った。
「アニキ、一体どうしたんですか?」とオレは早く経川の心の中を覗きたくウズウズしていた。経川は喋り出した。実家に姉夫婦や弟夫婦、叔父、叔母まで来ていて、泣き崩れる年老いた母の前で非難、糾弾を浴びたようだった。これは予定の出来事だった。
「城石の家に電話したけど大阪へ出張に行ったと奥さんが言っていたよ。石田も視察旅行かなんかでロシアへ行って居ないんだ。オラの頭ではわからんようになった。南無、オラはどうなるんかな?」経川は自分の置かれている立場を理解することに疲れたような口ぶりだった。予想とは違った展開になって行くようにオレには思われた。それならそれでも結構、どのみちヤツのほうへは水は流れないのだ。
「アニキ!落ち着いて下さいよ!オレがついてますよ・・・。あっ、それと明日、オレ警察に呼ばれてるんです・・・・。理由は言われなかったのでわかりませんけど・・・」向こうの電話口の息使いに溜息みたいな音が聞こえた。そしてオレは更に言うことを忘れなかった。
「それってアニキのことかなんか、かな。オレは絶対警察なんかに歌いませんから安心して下さいな」とわざわざ声を落として経川に言う事を忘れなかった。
「南無よ、オラはどうすりゃいいんかな?会社クビになって刑務所に入れられるんか?おふくろはどうなるんかな?」電話の向こうで泣いているようだった。怒りと悲しみが背中合わせになってしまっていた。オレは弱いが故に暴力的になる素人の典型的な姿をそこに見た。
「とにかく、例のアニキのマンションで会いましょうよ。オレも一緒に考えますから。明日の警察の調べも”口裏対策”しなければいけませんから詳しく教えて下さいよ」とオレは経川にたたみ込んだ。
「いや、今晩は女のとこへは行かん。一人で考えたいんだ。明日にしてくれ。朝オラの携帯に電話してくれるか?」経川は涙で鼻を詰まらせながら情けない声になっていた。
「アニキがそこまで言うんだったら、わかりました。明日7時頃に電話いれます」
 そして電話は切れてしまった。オレの予想とは外れてしまって、経川の暴力的な部分は消え去ってしまっていた。火種になるだろうと思われた城石や石田が居なくてよかったとも思った。とにかくオレは頭の中の絵を組み直す必要に迫られたようだった。念のためその日は部屋で寝ることはやめた。まだ銃の脅威の元にあることは確かなのだから。

 午前7時、梅雨の中休みなのか早朝から空は晴れ上がり温度計はどんどん上がり続けた。外に出ると太陽がまぶしかった。今日は蒸すな、とオレは上着を脱いで車の中に入り経川の携帯を鳴らした。電源が入っていないらしくサービス案内が流れ出した。その時オレは何ら気にしなかった。そして早朝のコーヒー・ショップで新聞を読みながら時間をつぶすことにした。店内は人でいっぱいで騒々しかった。世の中、可もなく不可も無く流れていくのか、と思いながら人々の朝の流れを眺めていた。読んでいた新聞を広げ直す時に背中の痛みがぶり返してきた。そして、その痛みでハッと我にかえった。まさか経川は・・・、と。オレは名状しがたい不安に囚われてしまっていた。何度も何度も妄想をうち消すように頭を振った。ついにオレは居ても立っても居られなくなり、コーヒーもそこそこに外に飛び出し、石田の携帯に電話を入れた。石田は不安そうな声で電話に出た。
「あのな、石田さんアンタのランド・ローバーを貸してくれないか?」と声早に話した。石田は戸惑っているらしく、なにかモゴモゴ言っていた。要するに自分の女のマンションを知られたくなかったようだった。オレだってそんなこと知りたくもねぇよ。
「部屋まで来ないよ。駐車場に下りてきてくれないか。すぐ着くよ」とヤツの返事も聞かず電話を切った。
 石田はパジャマ姿のまま間の抜けた顔でオレを待っていた。説明もそこそこに、一日だけ借りるよ、と言って、俺の車の鍵を石田の手のひらに残しランド・ローバーに乗り込んだ。とりあえず常願寺川の渓谷沿いを当てずっぽで、あっち、こっちの林道に入り込み経川の四輪駆動車を探し求めた。日中には気温が30度を越え車のエアコンの設定を下げた。山間部は何処も湿度でムッとしていた。午後になっても手がかりは無かった。電話は相変わらず繋がらなかった。オレは県道沿いまで下がって、サービス・エリアに車を止めた。自販機で冷えた缶コーヒーとウーロン茶を買いエアコンの効いた車内に戻った。林道は網の目のようになっていて一日中かけても無理かも知れないな、と思い、市内のヤツの女のマンションに向かうことにした。

 川沿いの県道を下がりながら、オレは河川敷に拡がるグミ林をぼーっとした目で眺めていた。若い連中が仲間内でバーベキュをやっているグループがいくつも目に入ってきた。のんきな奴らだぜ、と思いながら更に向こう岸に目を向けた。一瞬だがグミ林の陰に経川の四輪駆動車の赤い屋根が見えたような気がした。そうだ、ヤツは雉撃ちもするはずだ。山だけではなく川もあり得る。河川敷と言っても川幅なりに草や雑木が拡がり400メートル程度の幅で数キロ続いていた。グミ林がジャングルのようになっていて堤防沿いで見る視角とは変わり、太陽が煮えたぎっている空しか見えなかった。車を止めボンネットに上がりまわりを見渡してみた。2、300メートル通り過ぎたらしく、赤いものは見えなかった。オレはバックして少し戻った。低速ギアに切り替えて小さな流れを横切り道から外れてみた。
 しばらく草をなぎ倒しながら進むと10メートル先ぐらいに赤いランド・クルーザーがあった。間違いなく経川の車だった。中に経川が居るようだった。オレの体が少しづつ震えだした。気を取り直すように車の中でオレはもう一度ランド・クルーザーの中を見たがここからではよく見えなかった。人影は動かなかった。オレは車から降り、それに近づいた。震えは極限にまで高まり足までガタガタ、ガタガタとしていた。正面から見ると経川の首が折れてハンドルに頭がのっている様に見えた。そして頭後ろ半分が無かった。運転席側にまわってみると閉まった窓の内側には真っ黒なものが一面こびり付き数匹のハエが飛んでいた。ハンドルの下にはベラッチが斜めに立てかけてあるようにあった。猛烈な死臭が鼻に入り込み、頭がクラクラしだしてオレは車から離れた。
 オレは車に戻りしばらく考えた。死臭はここまで漂ってくるように思え窓が閉まっているかどうか確認した。ワイシャツの袖の匂いを嗅いだ。実際にはついているはずがないのに頭の中でヤツの吹っ飛んだ脳味噌の臭いが漂っているように感じた。吐き気を催し車外に出て何度も何度も吐き続けた。だらだらと頭や顔から汗が滴ってきて目の中に入り込んだ。これがヤツの答えなのか。えっ!経川よ!こんなにもおめぇはあっけないのかよ。料理する暇もないくらいに地獄へまっしぐらかよ、吐きながら涙にむせてオレはその場に座り込んだ。空を見上げると陽は少しずつ下がろうとしていた。経川っ!この毒は皿まで喰らってやるよとオレは心の中で叫んでいた。
 オレは知り合いの刑事に連絡を取った。警察が来るまで石田と城石には経川が死んだことを伝えた。二人とも巻き込まれていることの恐れをそれぞれの立場で愚痴っていた。こうなった以上、事情聴取を避けることが出来ないからだ。オレは二人に言った、お前達はしょせん民事上の人間でしかないから心配するな、と。
 辺りには夕暮れの気配が漂い始め草いきれのような湿気が死臭と共にオレを覆った。やがて夕陽を背にしながら警察車両がやってきた。長い夜になるだろうとオレは覚悟をした。

 翌日、オレに参考人としての最後の事情聴取が行われた。しょせん自殺に過ぎなかった。オレは知り合いの刑事に言った。猟銃の脅しが絡んでいるんだ。被疑者死亡だよ、と嘯いた。ウラをとると関係者の石田も城石も被害調書は出さないと言った。それで終わりである。事件にする程お役人は暇ではないのだ。そしてオレの仕事はまだ終わっていない。城石の債権は民事上有効であり、今もオレに任せられているのだ。
 オレはしばらく日をおいて城石の事務所に行った。仕事の仕上げに向かわなければならないからだ。
「ようやく終わったよ。通いじゃなくてよかったよ。ヒネの方からこっちへ出向いてくれたんでな」と城石は事のあらましをオレに話してくれた。どうやら石田と同じ扱いらしかった。
「ところで、ここに先日の書類がそのまま残っている」とオレはテーブルの上に預かっていた一式書類を広げた。話を続けた。「それでですね、経川に関しての他の書類も預からせて貰えませんか?キリトリの準備もありますのでいいですか?」と城石に話しを振った。
「なんなんだ?すべての書類はお前に見せたじゃないか。あれで全部だよ。それにこの事件は落着だ。あとはワシが時間をおいてやっていく」と城石はオレにむっとした顔を見せた。オレはいつも裏シャク(借用証書)を債務者の頭の混乱に乗じてとっているのを知っていた。だから、出せ!と言っているのだった。
「社長、ここんところを良く聞いて下さいよっ!いいですか?私の仕事はまだ終わっておりません。アンタはオレに任せると確かに言ったはずではないですか。違いますか?」根抵当権の極度額は1千万円。あとは原因証書の金額がいくらに書きこんであるかが大事なのは言うまでもない。死人に口なしとなった今、元金400万円で済むわけがないのだ。しばらく沈黙が続いた。
「わかったよ、まったくお前はハイエナだな。元金、金利は絶対負けれないぞ!」城石は立ち上がり金庫から一枚の借用書を取り出した。900万円と書き込まれていた。これで遺族へ攻め入る道具は揃った。

 数日後、経川の実家へ、夜訪問した。もう落ち着いてきた頃合いだからだ。焦心を隠せない老いた母に経川の弟が付き添った。仏壇の前に経川の骨壺が錦にくるまれてあった。オレは焼香を済ませ10万円の入った”御仏前”を老母に渡して頭を深く下げた。
 親友だったというふれこみで行ったオレは白々しくもこう言った。金貸しに交渉して”金利はまけて貰いました”と。話しはあっけなかった。弟がすべて責任を持って”処理”しますと云った。「ご迷惑をかけました」とも言った。五日後、弟に代書屋(司法書士)へ呼び出されて900万を受け取った。取り敢えず農協から借りたらしく、そいつらも来ていた。

 オレは500万を城石に渡し、”完了”を告げた。蒸し暑さは今夜も続いていてオレの体に死臭を漂わせていた。

享年46歳 合掌

-了-

2005年3月7日月曜日

赤提灯

 雨が一日中、鬱陶しく降り続いていた。いつもは通り過ぎてしまうその赤提灯であったが、夕暮れ時の小雨が煙る薄もやの中で浮き上がるように見えた。なにか垂れ下がってきた霧に覆われた水面に浮かびあがるように、その明かりがついたり消えたりしているようにオレには思えたのだ。
 通りから少しだけ奥まった草地にその店はあった。錆び付いた仮説プレハブに貧弱なひさしをつけただけの佇まいだ。居酒屋のしるしは提灯一個であった。オレは車を回り込ませて店の向かい側にある草で覆われた空地に車を止めた。まるでその明かりに惹かれるようにして車から降り立ったのだった。
 そんな時が誰にでもあるようにオレはふらっと暖簾をくぐって木の丸椅子に腰をかけていた。床が泥だらけであるところを見ると客層はそういう人種が多いのだろう。五、六人しか座れない丸椅子がカウンターに並んでいるだけで客は居なかった。
 四十過ぎにみえる女が背を向けて薄汚れた厨房でなにかを作っていた。
「なに、飲まれます?」振り向きもせずその女は言った。
「燗酒、・・・コップでくれないか」とオレはそのまま鷹揚のない声で応えた。
 しばらくして、コップ酒とキュウリとキャベツの浅漬けがカウンターに置かれた。酒は地物で熱過ぎず温過ぎずで、じわりと五臓六腑にしみわたっていった。
「干いわしを焼いてくれないか」とオレはその女に言った。そのとき初めてお互いの目があった。そして、女はあっ、という顔をオレに見せた。オレは不思議そうな顔をしてその女を見つめたが思い当たる顔のようには思えなかった。
「南無さん、でしょう?」と女は言った。
「そうだが、あんたが誰なのか、思い出されない。悪いな」とオレは女の顔をじっと見て言った。頭は過去をさかのぼっているのだが、この年になると大概が途中で諦めてしまう自分を見ることになる。
「伊井正一の女房の小夜子です。・・・・。思い出されましたか?」言葉に間合いを取りながら女はオレの目を確認するかのようにゆっくりとした速度で言った。
 オレは記憶の奥襞にこびりついている忘れさられた残滓のかけらを取り出し始めた。艶めかしく蠢く火照った白い裸身が暗闇の中から這い出てきて、ながいあいだ忘れていた匂いが甦るかのようにオレを包み込み始めた。
 そうか二十年前か、と。

 オレは手数料を払わない伊井に切れまくっていた。もっとも詐欺の片棒を担いだ報酬だが、仕事に貴賎は無いのだ。とにかく伊井はオレから逃げ回り、言い訳の電話しかよこさない自称企業舎弟の半端野郎だった。仕方なく奴の自宅に押し入ることにした。伊井はよくあるタイプで知能の足りない若衆をボディ・ガードとしていつもそばに置いていた。二尺鋼管をスーツの背中に差し込んで家に上がり込んだ。返事が無くそのまま二階にかけ上がった。奥の部屋から女のあえぎ声が聞こえていたがそれがなおオレの怒りに火を付けたようであった。オレはそのままドアを開け怒鳴り込んだ。
「200万キッチリ払って貰うぜ!アホンダラッ!」
 小夜子の目はほとんど白目を剥いていて男の背中に手を回し、全身を男に押しつけるように激しく腰を振っていた。高まる声をあげ続ける女の上には汗ばんだ般若の背中が登っていた。一瞬、振り上げた鋼管の行き先が無くただそこで呆然とオレは立ちつくすしかなかった。上に乗っている男は伊井ではなく棹師の和男だったからだ。
「わるいな、にいちゃん、も、そっと、そこでまっちくれぇ」と言って腰を振るのをやめなかった。
「下で待つ」とオレは和男に怒鳴るように言って階下のリビングに降りて終わるのを待つことにした。
 伊井はいなく女房は変わりに棹師のちんぼをくわえこんでいる真っ最中だった。しばらくして和男は裸のまま下りてきて、まだ濡れそぼっている棹をぶら下げながらオレに言った。
「これも仕事でな、南無よ、当分奴は金なんかねぇよ。悪いけど、今度電話で知らせるよ。まだ終わってないのでな」そう言いながらサイド・ボードのウイスキーの瓶を持って二階に上がっていった。

 伊井はもうオレから逃げられないと悟り、静かに話し始めた。
「カタをちゃんとつけるから、しばらくだけ、辛抱してくれ。色つけて払うから、今度の仕事は間違いないんだよ、なっ」また同じ言葉だ。
「あのな、おめぇは時間の問題なんだよ。お金も貰えないまま、オレまでパクられちゃかなわんがな。先によこせっ!馬鹿野郎!」
 サツの旦那連中の動きがあることはオレの耳に入っていた。伊井がパクられるとオレの身も安全とは言えなかった。せめて、金を掴んでパクられたかった。オレの家には1円もなかったのだ。子供の授業料も家賃も滞納したままだ。200万はデカかった。
「じゃーな、ぶち殺してやるから、そこに直れっ!」
 言い終わらない内にオレはまずそばにいつもいるポンタという知恵回りの悪い野郎を隠し持った鋼管でぶちのめし、伊井の顔を蹴り上げた。二人とも痛みでのたうち回っていた。ポンタは何度も立ち上がろうとしたがその度オレの鋼管でぶちのめされていた。さすがに丈夫な野郎だった。
「伊井っ!どこででも金を作ってこいっ!今からオレと一緒に来やがれっ!」といって伊井の体を掴んでその場に引きずり倒して蹴りを入れまくった。
「1週間かかるんだよ、1年になるまで・・・。頼むからやめてくれっ!」伊井の顔は血だらけで、オレに手を合わせ泣いた。1年?ってなにが1年かも考えもしなかった。煮え滾った脳みそは救いようがなく、暴力に走るのだ。
「オレは今、金がいるんだよっ!ボケがっ!甘いこと抜かすんじゃねぇ!」
 オレは許せなかった。このままだとまたオレだけが貧乏くじを引いてしまうのが目に見えていたからだ。金もなくて檻の中には入れねぇ、と。でもその時「棹師の和男」の言葉がひっかかった。ハッカ(一文無し)なのは間違いないようだ。あいつ等も金を取らなきゃならないはずだ。ハッカ野郎から金は取れない。オレは立ったまま二人を見下ろした。
「伊井っ、じゃぁな、てめぇ、聞くがな、一体いつまでオレに待てって言うんだよ」
オレは自分の気をできるだけ鎮めるようにしながら数回深呼吸をした。もうこれ以上痛めつけても意味が無いからだった。それに伊井にとってはこれで充分だろうとも思った。やり過ぎると道田一家のメンツをつぶしかねないからだ。棹師の和男の手前もあった。電話があったからだ。「南無、我慢しろ、おめぇが元々奴の口車にのったからなんだよ」と。オレはしばらくして呼吸を整え事務所の応接セットに腰を下ろした。鋼管は手から離さなかった。ポンタがもう起きあがろうと動いていたからだ。バケモノめっ!伊井はポケットからハンカチを取り出し、唇の血を拭いながらホッとした顔でオレに懇願した。
「ここまで来たからにはもう嘘は無いんだよ。腹はくくってるんだ。わかってくれよ。俺だって道田のアニキにみて貰っているハシクレだ。1週間だけ待ってくれ。約束は守る、なっ、取り敢えずここに十万だけある。これっぽっちで済まないが持っててくれ。あとは間違いなく南無さんの納得する形をつけるよ。このとおりだ」とオレの前で頭を下げた。信じてはいなかったが、身体で教えておけば奴らの中に食い込めるという計算も働いていた。なにか美味しいものにありついているのかも知れないとゲスな考えもあった。道田とは金の繋がりだと言うことはオレも知っていた。三千(債権)は持っていると言うことをオレは「棹師の和男」から聞いていたからだ。しょせんヤクザに縛られた詐欺師でしかないのだ。げんに和男は道田の身内の者であり伊井の監視をしている。和男にとって伊井の女房の小夜子は人質にした女にしか過ぎない。棹師とはしょせんそんなものだ。そんなことよりオレが恐れていたのは警察の動きだった。出来る限り持ちこたえて欲しかった。ひょっとすればオレへのカウント・ダウンも視野に入れておく必要があったからだ。形勢は最悪で、またオレはスッテンのまま檻の中に入る可能性があった。伊井がパクられたら、たぶんオレにも切符は出るだろう。そうなれば当分浮かび上がれないだろう、と。それにしても伊井は自分の置かれている状況が理解出来ているのかさえオレには疑問に思わざるを得なかった。この極楽野郎め。
「今度は生まれ変われるんだよ。うまく説明出来ないが、南無さんも安心して欲しいんだよ。とにかく俺もけちくさい世界からスッキリしたいんだ。頼むっ!」
「オレに油断させて蒸けるんじゃねぇだろうな?」
「はは、信じてよ。まだ俺には小さな子供もいるんだ。そいつの為にもそんなことはしないよ。なっ、大丈夫だよ」妙に自信を持たせる言いようであった。小夜子との間にはまだ学校前の男の子供がいるのをオレも知っていた。棹師をくわえ込んでいる女房でも伊井には家庭なのか、とも思って白けたが、おちるところがもう無いオレ達にとっては、最早どうでもいいことなのだ。堕ちると言うことはそういうことだからだ。
「わかったよ、とにかく今日はひとまず帰る。あっ、それからな、そのバケモノに言っておけ。オレが帰るまで立つなとな。ったくっ、気色悪い野郎だぜ」オレは立ち上がりざまバケモノを蹴り倒し伊井の事務所から出た。
「けっ!十万ぽっちかっ!運もナニもねぇ、オレって最低だな」口から自然に罵りの言葉が出てきた。
 間違いなくオレは身も心も最低なのだ。

 小夜子は干いわしを焼きながら懐かしそうにオレに話しかけてきた。雨で出足が鈍っているのか客はまだ無かった。
「もう二十年も過ぎたかな。南無さんも元気で何よりだね。わたしは見た通りよ。わたしも頂いていいかな?」
「あぁ、好きなもの飲めばいいだろう」
 小夜子は冷蔵庫からビールを取り出しコップとカウンターに置いた。オレは瓶をとりあげ小夜子のコップにそれをついだ。色香は胸元からのぞくその白い肌にまだ残っていた。
「あのね、こちらへ帰ってもう五年になるわ。結局のところ行くところが無くなっちゃってね。今はここの地主さんの世話を受けているっていうわけよ」
 髪のほつれには白いものが見えていたが近所の爺連中にはそれなりに通用するだろう。手首の切り傷の跡を見ると、それなりの地獄を歩まされたのだろう。オレも小夜子もその地獄の底で生き残っていたのである。

 伊井にも昔はまともな給料取りの時代があった。今は電話を数台並べてそれぞれの電話機に貼り付けてあるラベルの会社名で若い女が応対に出る名義屋稼業を行っていた。信販会社専門に喰う詐欺師である。五つに一つが「嘘」というヤツである。その一つで儲けるのだが何事にも終わりはあるものである。そしてその終わりがオレと共に近づきつつあった。たぶん伊井は最後の大きなヤマを踏むのかも知れないとオレは思っていた。道田から借りている金はまともな仕事で返すのは不可能なのだ。ちっぽけな詐欺師では金利で追いまくられるだけに過ぎない。オレにとっての1週間は長かった。途中何度か不安に駆られ伊井に電話をかけてみたりした。連絡はきちんと取れていた。ヤツがパクられていないだけでもオレの不安感は取り除かれていくという奇妙な繋がりに不思議さを覚えた。そして早朝6時に伊井からオレに電話がかかった。
「南無さん、今日のお昼過ぎにはなんとかなるだろう。今からその件でポンタと出かけるので連絡を待っていてくれ」と明るく弾んだ声で、オレの期待も高まった。とにかく今日が無事で終わればいいのだ、とオレはなんども頭の奥底で繰り返した。
 オレはいつものように昼時間をつぶすのが日課となっていた近所の食堂へ行きビールとラーメンを注文した。近所でも評判のワルで通ってしまっているオレが来ることを望んでいないのは分かっていたが、別段店で悪さをするわけではないのでオレは気にしていなかった。店主はいつも通り愛想笑いだけ見せチャーシュの屑をツマミとしてビールをテーブルに置いた。さていよいよだな、とオレは勝手に200万の割り振りに考えを巡らせてテレビをぼっと見ていた。そして突然、伊井の名前がオレの耳に飛び込んできて思わず箸を手から落としてしまった。店のテレビからその名が聞こえてきたのだ。オレはすぐさま立ち上がりテレビの前に走り寄って音声を上げた。オレの手は震え画面に釘付けになった。
「今日午前10時頃・・・・中島保夫さん32才の運転する車が・・・崖から転落し同乗者の伊井正一さん39才は車から投げ出され即死・・・」
 オレにとってはとても信じられないことであった。どうして岐阜県境の山道なんかで、・・・、と。オレはその場に蹲るしかなかった。
「クソっ!なんでなんだよっ!ぇえっ!」と声を上げた。オレの頭は真っ白になりぐるぐる果てしなく回り全ての思考が止まる思いになっていた。しばらくして、オレは椅子に座りながら考えた。伊井は本当に死んだのだろうか、もし死んだのだったらアイツが言っていた『ヤマ』ってなんだったのだろうか、それとも最後まで嘘っぱちのままの詐欺師だったのか。疑念が次から次へと湧き出てきて頭が混乱するばかりだった。200万が消えたことは間違いなく、脱力感に苛まれながらもオレは気持ちの立て直しをするしかなかった。まずは”事故”が本当かどうかから始めなくてはならないだろうとオレは思った。もし伊井が本当に死んでいるのであればオレの身がかなり安全になったと云うことにも繋がる。手っ取り早く確かめるしかなかった。オレは近くの公衆電話ボックスから二課知能犯の能波へ電話を入れた。能波は在席していて電話に出た。
「あのう、南無ですが、スンマセンが今テレビのニュースで伊井のこと、・・」
「馬鹿野郎っ!おめぇ!ぬけぬけと、よう電話しやがるのぅ、あーんっ?」
「いや、スンマセン、スンマセン、でもびっくりしたもんですから。能波さんだったらわかると思って電話しました。スンマセン」
「ふんっ!ハナクソ野郎がっ!これで終わったと思うなよっ!まったく、おめぇは喰えねぇ野郎だよ。電話した勇気に免じて教えてやるよ。うちの連中がガラの確認をした。ポンタと共にアノ世へ行ったよ。けっ!取り逃がしたんだよ、昨晩切符が出てな、今朝六時に踏み込んだらもう蒸けていたよ。それからな、おめぇにも近々出てきて貰うぞっ!わかったなっ!首を洗って待ってろ」ガチャンと電話は切れた。受話器を握っていた掌はじっとり汗をかいていた。オレは急いで家に向かった。こうなるとアイツとの絡みのメモ類なんか全部ヤバイことになる、と気が急いだ。とにかく焼却するかどこかに隠すしかないのだ。せこい考えの自分に情けない気持ちになりながら、とにかくあとはオレ次第で切り抜ければ、どうって事は無いのだ、と言い聞かせた。パクられてたまるかっ!

 夕方『棹師の和男』から電話が入った。
「南無さんよ、話しがある。今晩1時頃俺の女のやっている店『フランシーヌ』へ来てくれねぇか。伊井の関係書類全部持って来い。悪いようにしねぇよ」最後の言葉に妙なひっかかりがあったが、今更、奴らの組織とモメてみたってしょうがないのだ。サツとヤクザの挟み撃ちになればいかのオレでもどうにもならない、不気味だったが和男と会うしかなかった。
 5分前にフランシーヌに入った。
「連絡しますのでしばらくお待ち下さい」和男の女は既に聞いているらしくそつもなく奥のボックスへオレを案内した。ヘネシーをグラスに注いでから丁重にお辞儀をしてカウンターの方に戻っていった。カウンターには数人の客がいてそれぞれカウンター越しの女達と賑わっていて、ボックスだけが違う世界のように思われた。
 やがて、和男が若い衆を伴って真っ白なスーツ姿で現れた。若衆はカウンターに座りオレのことを睨みつけていたがオレは意に介する必要など無かった。和男はニヤリとした顔を見せてオレの前に座った。
「済まないな、呼び出して。遠慮無くやっちくれ」和男は水割りのブランデーを女に言って、終わると女に席を外すように言った。
「持ってきたか?」
「ああ、これで全部だよ。勝手に焼くなり捨てるなりしてくれ。どのみちオレにはもう不要だ」とオレは一式資料を袋ごとテーブルの上に差し出した。中身を一通り和男は改めていた。
「ありがとう、俺の気持ちだ、受け取れ」と言って和男は銀行の紙袋をテーブルの上に置いた。金であることはオレにも分かった。
「どうしてオレなんかに?」オレは和男の顔を見上げた。
「この金は俺が伊井の為に立て替えるのだ。伊井が死んだ今となっては、おめぇもこのままじゃ浮かび上がれめぇ。色も付けてある。うちの若衆のポンタにおめぇがヤキ入れたことも、奴は一緒に死んじまったしな。それもこれも不問だ。これで文句は無いだろう」和男は不気味な笑いを浮かべた。袋の中には 300万が入っていた。
「すまんな、遠慮無く貰っておく。助かるよ。ついでにすべて忘れたよ。それでいいか?」今後一切口出し無用、すべて喋るな、という意味ぐらいはオレにも分かる。分からないのはそこまでの値打ちが何であるのかということだけだった。オレの心がどんどんは惨めな気持ちに落ち込んでゆくのがわかった。そんなオレの気持ちと裏腹に和男は女を二人呼びつけボックスでオレと雑談をしながら上機嫌であった。オレは調子を合わせながらそれに興じていたが心は虚しかった。

 葬儀は道田一家の実質的な組葬として行われた。出席に戸惑いがあったが今となれば伊井から貰った金だという思いもあったので末席で行くことにした。たった、2、3年のつきあいだったが伊井は足早に逝ってしまった。オレよりはるか彼方に跳んでいったのだ。ヤツは何に生まれ変わるのだろうか、とも奇妙なことを考えたりした。道の向こう側の車の中には覆面の警察車両がいて、能波の姿も見えたが、知らんぷりで寺の門をくぐった。
受付には道田の若い者が数人で対応していた。オレの姿を見るとその内の一人が顔見知りで「よくも図々しく来やがったな」とオレを睨みつけたがその後、にやりと笑って「終わったことだけどな。ま、せっかく来たんだ、焼香してやってくれ」と言ってオレを素人衆の席に案内してくれた。喪主席にはやつれてしまった小夜子と五才になる遺児が座っていてその後ろには和男が神妙な顔で座っていた。オレには和男がまるで小夜子に取り憑いた死に神のように見えた。焼香を終え喪主席に挨拶をした時、和男と目があった。和男は一瞬だったが薄笑いを浮かべオレの目をじっと見た。酷薄そうな和男の視線がオレの背中に痺れるような悪寒を走らせた。そのときオレの疑念のうちのなにかが溶けるように頭を覆い始めた。そして、・・・・、和男が伊井を殺したのだ、とオレは瞬時にその妄念にとらわれてた。伊井の女房をみよがしに弄び、身体を縛り、伊井を追い込んでいったのだ。死んだ方がマシだぜ、と呟き続けたのだ。伊井の言った『1週間』とは自殺する期限だったのだ、と。ヤツは本当に生まれ変わりたかったのだ。ちくしょうめっ!なんて奴らだ。小夜子をむしゃぶり尽くす気なのだ。1年とは保険契約のことを指していたと理解するまでにオレはそんなに時間はかからなかった。保険金受取人の小夜子を離すわけがないのだ。これは遺族以外誰も悲しまない葬儀なのだ。

 門を出ると数人の警察官がオレを取り囲み、能波に拘束された。待機していた別車両に押し込められた。そのまま警察へ直行だった。
 取調室の中で能波はオレを立たせ腕時計を見ながら言った。
「只今、昭和・・年・・月・・日15時23分、容疑、公正証書原本不実記載・・市・・・番地、南無玄之介。司法警察員能波・・、・・・、以上っ!」読み上げは終わった。身柄拘束の令状は見せられなかった。
「手を出せぃっ!」と横の若い刑事がオレに手錠をかけて留置場へ連行した。司法警察員拘留48時間が始まったのである。屑はこのようにしていつでもいかなる時でも自由なんて無いのだった。伊井という獲物を失っていきりたつ能波と無言のオレの戦いは深夜まで及んだ。何回も椅子ごと、蹴り倒されたがその度オレは『スミマセン』としか言えなかった。元々は「別件逮捕」でしかないのはお互い承知の上なのだ。黙秘権しかないのだ。伊井のことなんぞ一行も書かせてはいけなかった。どうせ証拠は無い。死人に口無しなのだ。オレが耳をふさぎ口を閉ざせばオレは必ず助かる。
「おめぇ、『完黙』通すつもりかよっ、えぇっ!どうなんだよ」
「・・・・・・・・・」
「ウンとかスンとか言ってみろよっ!ハナクソ野郎がっ!」
「・・・・・・・・・」
 二日目は深夜2時頃まで続いた。三日目の朝、課長が出てきて、なにか美味しいそうな話しを振ったが、オレには沈黙しかなかった。嵌められるわけにはいかない。必ずここから出てやる。
「こらっ!南無っ!てめぇ、玄関パッキンやってやろうかぁ!なめやがって」能波は激怒していた。もうこうなれば何をされようが仕方ないのだ。地裁で10日の再拘が付き簡単な検事調べがあったきり、調べはもう無かった。蒸されたのである。オレは留置場で毎日を過ごしていた。漫画本も接見も禁止された。12日目、ようやく釈放され、警察署の玄関を出たところで能波によって再逮捕された。
「どや、南無、気分は?玄関パッキンって気分がいいなぁ。なんぼでも容疑はあるからな。よりどりみどりや」能波はけらけら笑っていた。
 取調室に戻るとまた留置場へそして取調室へ。
「・・・・・・・・・」
「こらっ!おめぇ、笑いやがったなっ!」とまた椅子ごと蹴り倒された。無論、笑ってなどいなかった。その都度頭を下げて椅子に座りなおした。小便はさせてもらえなく椅子の上で垂れ流すしかなかった。
「くせぇー野郎だな。こうなれば犬っころとかわらんのぅ、1日中そこで垂れてろ!ションベン野郎がっ!」オレは犬の方がマシなのではないかと思いながら自分の小便の匂いの中で己自身を嘲笑うしかなかった。そして翌日釈放された。玄関パッキンは無かった。これ以上の勾留は検事が嫌がったのだろうと思った。能波はにやりと笑いながらオレを課の出口で見送った。
「やはり、おめぇは食えねぇカス野郎だな。せいぜいヤクザもんと連んでろっ!ションベン野郎がっ」
 出てきたその晩、和男から電話が入った。
「蒸されたんだってな、ありがとな。当分おとなしくしてることだな」それだけだった。半月で300万はオイシイと思わなければならなかった。所詮は奴らのようになれない、屑の生き方なのだ。伊井の転落は自殺ではなく事故として扱われた。運転免許がないから自殺はあり得ないからだ。たとえ伊井が運転していたとしてもだ。伊井は小夜子に1億円を残しポンタと共に急ぎ旅立った。
 しばらくして小夜子は桜木町で小さな店を開いたと言うことを聞いたが、もうオレには関係ないことであった。半年もすればそんな店は無くなってしまうのだ。ケツの毛一本だって小夜子には残らないだろう。その後彼女の消息は聞かれなくなった。店も経営者は変わってしまっていた。そして2年も過ぎた頃か、和男は急性肝炎であっけなく死んでしまった。

 小夜子は語り続けた。
「あれからね、息子を連れて山代温泉に行って二人で生活してたんよ。でもね息子も17才の時に飛び出したきり、もう帰って来なくなっちまってね。それっきりさ」
「そうか、苦労したんだな」何らオレと変わるもんじゃねぇなと思った。
「何度か死のうとしたけど死なずに生きてるさ」小夜子は自分の手首の傷をさすりながら人のことのように言った。なにかを思い出したのか目は潤んでいた。
「もう一本飲むか?ついでにオレにも酒のおかわりをくれないか」オレはしんみりしている小夜子に言うべき言葉はそれぐらいしかなかった。しばらくの間お互い言葉もなく黙って飲んでいた。二十年振りであってもお互い語ることなんか無いものだ。
 その内、外から人の声が聞こえ常連らしい客が三人入ってきた。作業服に長靴スタイルの者達だった。外の雨足が強くなってきたようだった。ここいらが潮時だろうと思い小夜子に勘定を済ませ外に出た。
「南無さん、この傘さして行ってよ」小夜子がオレの後ろに立って言った。
「すまんな、借りるぜ。だけど、返しには来ない」とオレはぽつりと言った。
「あのね、南無さん、あなたが部屋に飛び込んできた時のこと、覚えてるでしょう?あの時が和男と初めてだったの」
「・・・・・・・」そんなこと今更聞いてみても、お互い流されながら生き残った事実だけで充分だった。
「わたしは今でもあなたの怒った顔を覚えているわ」
「そうか、・・・」小夜子の白く汗ばんだ痴態が瞬間頭をよぎり、それを打ち消すようにオレは首を左右に振った。
「次の日、伊井はわたしに土下座をして泣いて謝ったのよ。情けない男だよね」
「・・・・」もうオレはそれ以上聞きたくなかった。
「だから、わたしは今でも伊井の女房なのよ」
 オレは黙って傘をさして歩き出した。背中で小夜子は叫ぶようになにか言ったが、激しく降り続く雨の音でよく聞きとれなかった。振り向くこともせずにオレはひたすらじっと前を見つめながら歩いた。

 外はまた煙ったような風景が広がっていた。
 まるでこの世のものではないかのように。
 その中で浮かんだような赤提灯の店、ぽつんと。

-了-

2005年3月4日金曜日

虚業

-プロローグ-

 オレは久し振りに月初めの休息をこの温泉付きの3LDKマンションで過ごしていた。バスルームを温泉水専用に切り替え、お湯を垂れ流し続ける浴槽にゆっくりと浸かり疲れをときほぐしていた。横に置いたガラスのワゴンの上にハーパーの12年を注ぎ氷をマドラーで回し、その琥珀色の醸し出す濃淡を楽しんでいた。
 御多分に漏れず債務者が所有していた富山市内の分譲マンションを並み居る大勢の債権者を押しのけてオレは自分なりの流儀で占有していた。不動産登記法上の「信託の登記」という当時余り使われなかった方法によって所有権登記をしていて、個人的な事務所代わりにしていたのである。法はゲームの要素を持っている。事件屋としてのオレはフルにそれを利用していたのである。古臭い連中は相も変わらず「賃借権」の主張で乱暴な手法に頼っていた。オレは彼らを軽蔑していた。所詮はヤクザ者の知恵程度でしかないからである。
 つい10日前まで中堅クラスのスーパー・マーケットの倒産絡みで事件を起こし、威力業務妨害罪の容疑で糸魚川署の獄中にあったのだ。もっとも1日程度に過ぎない拘留で済んだのではあったが、あとが悪かった。告発したのは労組御用達の弁護士であり地元選出の元国会議員でもあったのだ。つまりのところ新潟県警のみならず富山県警にもみえない圧力が掛かりオヤジの事務所にガサが入ったのである。本来なら親父は烈火の如く怒るところであるが、さすがに身体で払ってきたオレには何も言わなかった。しばらく休んでいろ、とは言ったが。

 そして、自宅へお茶でも飲みに来ないか、とオヤジから突然電話が入った。そんな理由でオレを呼ぶことは滅多にないことであった。
「おめぇ、もう何年になる?」いきなりオヤジが切り出した。
「10年ぐらいですかね。どうしてそんな事をオレに聞くんです?」何か言いにくい事があるような雰囲気であった。
「いや、なっ、もうそろそろいいかと思ってな」
「なにがですか?」
「色々考えたのだが、例のガサ入れ以来、周りにもおめぇの事色々云う奴が居てな。これ以上おめぇを儂の傍に置く事が出来なくなった」オヤジの周りには地元の中小企業の経営者やヤクザのお偉方がなにかと拠っているのはオレも知っていた。誰かがオレの事に注文をつけたのだろうと思った。
「やり過ぎって事で、首っ、ですか?」
「ま、そんなところだ。したがって来月からは儂の事務所からは給料は出ない」
「ありがたいことですね。でも、そんなわけにはいきませんよ。まだまだここには問題が累積してるんです。文句を言う奴等はそんな事知らないから言えるんですよ。オレはオヤジが首だって言ったって、やりますよ」オレは顔を紅潮させながら異議を唱えた。
「ふふふ。ま、怒らずに儂の言う事を良く聞いてからにしろ」と、言ってオヤジの横に置いてあった旅行鞄をテーブルの上に載せた。オレは黙ってオヤジの言う事を待った。
「ここに取り敢えず、5千入っている。これでおめぇはきっちり営業許可を取って富山で事務所を開けばいい。足りなければ2億迄ならいいだろう。取りは折半だ」オヤジは黙ってオレを見つめながらお茶をすすっていた。
「あのぉ、オレは一体どうしたらいいんです?」情けないがオレの頭は混乱し始めて戸惑いが次から次へと襲ってきた。オレを厄介払いにするのか?と。
「南無よ、おめぇは、これでいいんだよ。おめぇは今日から儂と切れたんだ。ま、月に一度程度は来る事になるかもしれないがな。儂もこのような歳になると煩わしい事はもう沢山だ。わかったか?」オレの情けなそうな顔を見て取ったかオヤジはキッパリとした声で言い切った。返事はひとつしかないのだ。頭の中では見捨てられたような思いで一杯になりながら目には涙さえ出てきそうになった。確かにやり過ぎはあるがほとんどが悪党相手ばかりで遠慮なんかする必要がないと思われる事ばかりだ。第一オヤジの番犬としては最高の働きをしてる自負もあった。オレの変わりなんかそうザラにいるはずがないからだ。だが所詮それまでのことだった。
「わかりました。これで富山に帰りオヤジさんの云う通り事務所を開きます。ただ、言っておきますがね。オレはちゃんとオヤジを見ていますからね。誰が何といおうがオレはオレですから」
 オレはオヤジにきちんと蹲踞で挨拶をし、立ち上がった。オヤジはオレを見上げながら笑っていた。
「おめぇはこれで独立だよ。だからな、おめぇは儂の立派な息子になったんだよ。無茶だけするなよ」オレはあらためて座り直し、深く頭を下げた。オレは長い廊下を歩きながら涙を拭った。いい年こいて泣いてるんじゃネェ、と。
 門まで送ってくれた姐さんにも深く頭を下げた。

 このように狂犬は独立し、裏番犬として富山に向かってひっそりと、そして”脅威を満載し”進出したのである。

-予兆-

 オレはオヤジから預かった金で長い間留守をしていた富山に舞い戻った。取り敢えず事務所の形態を整え金融業の営業許可申請を行った。12年ぐらい前に監禁暴行事件を起こし、以前持っていた営業許可が取り消しになっていたからだ。刑の執行を終え5年以上経過しているので別段問題なく県知事許可は40日以内に下りた。もっとも知人に聞くと普通は20日ぐらいで下りる、という事ではあったが、問題児にしてはまあまあだと思った。まずはオモテ看板は手に入れたのである。しばらくマンションの部屋に閉じこもってあれやこれやと考えを巡らして数日ほど経っていた。
 オレに今必要な事は情報であった。10年ぐらいの間、主に県外で活動していたようなものだったからである。一時は殺人鬼のように新聞で連日叩かれていたので、忘れ去られている事は好都合のようにも思えた。裏と表は違うものなのだ。それで、夕方刷り上がったばかりの名刺をバッグに入れスーツに着替えて街中に出る事にした。
人で混み合った繁華街をゆっくりと歩いてみた。知らない顔ばかりと行き通っていると妙に心が安らいだりもした。そして自然に足が昔かよっていた居酒屋に向いていった。懐かしさがこみ上げてきたからであった。

 暖簾をくぐるとほぼ満席状態で空席見つけカウンターに腰を下ろした。顔を上げると店のおやじが声をかけてきた。
「ありゃー!南無さん、生きていたのかい?」と。
「御無沙汰していました。飲ませて貰っていいかな?」と頭を下げ返事した。
「一杯目は俺の奢りだよっ!元気で何よりだ」コップにもりもりと酒をついだ。久し振りのおやじの顔が妙に親近感を持たせた。
「死んだって噂もあったんだぜ、ははは」とおやじはオレに言って奥の席の方を顎でしゃくって見せた。
 奥の連中の視線は感じていたのだが故意にオレは見ないようにしていた。地回りが数人じっとオレを見ていたからだ。オレはあらためて彼らの席の方に顔を向けて軽く会釈をした。その中の一人が手でオレを呼び寄せ、隣の席が空けられた。オレはゆっくりと彼らの席に向かった。5人がほくそ笑んでオレの視線に絡まっていた。
「久し振りです」とオレは金筋やくざの杉木に頭を深く下げ彼の横の席に着いた。日の丸マークの戦闘服を着たイカレ野郎の半兵衛、ハカリ屋の売人健三、パクリ屋河本、詐欺師の榎元、そしてそれを仕切っている組幹部の杉木だった。過去にオレと一戦を交えた連中ばかりだった。
「南無、本当に久しいの、戻ってきたのか。ま、飲めや」と杉木はオレに酒をついだ。オレはコップを両手でもち酒を飲み干した。杉木以外はニヤニヤとして黙ってオレの様子を窺っていた。敵意を持った視線は下ろしていなかった。
「なんとか戻れました。静かに生活していくつもりでおりますので、宜しくお願いします」とオレはみんなの顔を見て挨拶をした。
「で、南無よ、これからどうするんでぇ」と杉木がズバリ切り込んできた。
「え、まぁ、出来ることといったら皆さんも御存知のようなことしかありません。なるべく御迷惑をかけないようにやっていきますのでお手柔らかにお願い致します」と言って杉木に新しい名刺を差し出した。杉木はじっと名刺を読んでから周りの者達にそれを回した。
「そうか、がんばれよ。そのうちおめぇの事務所にも顔出すから茶でも飲ませろよ」と杉木は口にもないことをオレに言ってじっと視線を絡ませてきた。おめぇは監視するぜ、って事だと言うことは分かりきっている。お好きなように、と思うしかなかった。しばらく杉木の気のない質問に答えながら雑談をしていたが頃合いを見計らって席を立つことにした。間合いというものがお互いにとって大切であるからだ。
「今日は御挨拶って事で、これで勘弁させて貰います」とオレは杉木に言って立ち上がり、頭を下げカウンター席に戻った。
 三杯目には酒がはらわたに染み入るように行き渡っていくのが分かった。取り囲まれている敵意の中で、ようやく戻ったという実感を取り戻していくのが妙に不思議であった。そしてこれからが戦いなのだ、と。
 しばらくの間オレはその居酒屋に週四回程度のペースで通い続けた。杉木達のグループと時たま、かち合うこともあったが、会釈程度で済ませていた。オレのことを気に入るか気に入らないかはどうでも良かった。別に奴等に飯を食わせて貰っているわけではないからだ。
 一ヶ月も経った頃合いから従来の顔見知りだった連中にもぱたっと顔を合わせるようになり、オレは名刺をせっせとばらまいていた。その中から数人程度がオレの事務所に顔を見せ世間話をして出入りするようになり、オレはそれでいいと思っていた。話には尾ひれがつくものであり、広がりは早いものなのだ。何人かのランナー志望者からは手数料欲しさに客の紹介をしてくれたり、他業者の情報や極道達の動きを教えてくれたりしてくれる者も居た。そしてオレはその者達を夕方には居酒屋に連れ出し楽しく優しくをモットーに飲むようにしていた。少しづつ意識的に目立つようにするのも手だからだ。しかし、まだ金額的にはオレの満足するものではなかった。単純金融はサラ金屋や街金屋のテリトリーにしか過ぎないからだ。根気強く少額貸し付けも、ブラックな者達への貸付にも文句言わず出し続けた。それなりにオレの名は今でも通っていたから不義理らしいことは起きなかった。何といっても返さなかったら「殺人鬼」に変容するという伝説を真に受けていたお調子者のランナー達もいたからである。

-嵌った男-

 オレは早朝から事務所に出てじっと考えていた。金が動くスピードが思ったより落ちている。このままだと廻りきるまでまだ時間がかかるだろう。出入りのランナー達の紹介での動きは一件50万以下でしかなく総額でも300万円程度の貸付金でしかなかったからだ。事務所経費も浮いては来ないのだ。事件ネタも今のところ入ってこない。ましてオレのような者には普通の人間は警戒心もあり余所に流れていってしまうのだ。しかし焦ってみてもドツボに嵌るだけだということは長年の習性で分かってはいた。貸し倒れは自滅の第一歩だからだ。しばらくは辛抱するしかないのだ。そのうち目の前に太ってネタ満載の奴が現れるはずだからだ。オレは海底に潜むウツボのようにただ待つしかない。
 午前8時過ぎ頃クロがやってきて事務所の掃除やオレのコーヒーなんかを湧かし始めた。黒田、通称クロは新聞の販売拡張員をやっている駅前周辺にたむろしていた昔の愚連隊上がりで背に観音の彫り物を入れていた。いつの間にか日中ここに居着くようになって競輪仲間のコマイ金額の客を数人紹介し小遣い稼ぎをしていた。何度か富山署の留置場で出会って以来なにかとオレと飲むようになった仲であった。そしてオレの性格をよく知っていて口は堅かった。タイ人女のヒモになっている遊び人でもある。
「クロ、オレって評判まだ悪いんか?」と聞いてみることにした。遊び人だけあってクロの情報網はかなり広いことはよくオレは知っていた。
「へっへっへっ、怒るから言えないですよ」と彼はオレにコーヒを入れながら笑っていた。なるほどまだ悪いらしいということはオレにも理解出来た。
「でもね、南無さん気をつけた方がいいよ。この間ね、駅前で飲んでいたら半兵衛の奴等が数人やって来てアンタのこと噂してたぜ、必ずヤッテやるってさ」とクロが真顔で言った。
「なに言ってんだよ。オレは右翼の連中なんかと諍い起こすわけねぇじゃないかよ。ったく、アイツ等ってわけ分からん連中だぜ」もっとも右翼以前の問題はあるだろうなと思った。杉木の目が光っていると言うことなのだ。いずれにしても”事”は起きるだろうともオレは思い溜息が出てくるのだった。
 船出はそんなに甘くなく、いろんな洗礼は覚悟しなくてはならなかった。

 ある日珍しく事務所の電話が鳴った。土建屋の二口だった。
「南無さん、久し振りです。ちょっと相談したいことがあるんですけど、お伺いしていいですか?」
「ああ、一日中暇だから事務所にいるよ。ところで、アンタどうしてこの電話番号知っているんだよ?」
「どうしてって、もう有名ですよ。ははは。昼過ぎにお伺い致します」二口の口調からは笑いと別に重たさも感じ取られた。
 遅い昼飯を店屋物でクロと食べているところに二口はやって来た。クロとは顔見知りらしくお互い軽い会釈をし、クロは食事もそこそこにお茶を出す準備をし始めた。
「いやね、南無さん、実はそこのクロちゃんに聞いてきたんですよ」と二口は挨拶もそこそこにオレに話を切り出し始めた。
 内容は単純な資金繰りの問題ではなかった。よくある話しだが資金調達の過程で罠に嵌っていたのである。火種満載で、まさしく単純金融屋の出る幕はなかった。そしてオレにとっては戦争の予感もした。
 二口によれば最初のことの起こりは単純なものでしかなかった。彼の会社へ20年以上勤めている「とうちゃん」の娘の尻拭きから始まっていた。アホな娘は桜木町のミニ・クラブに勤めていて御多分に漏れずチンピラ男に貢いだ。そして店へのバンスを増やし続け店から返済を迫られた。そしてそれをとうちゃんが社長である二口に相談を持ちかけ結果的に彼を窮地に陥らせたのである。
 店へのバンス150万とついでに彼の運転資金200万を顔見知りの金融屋に手形貸付で借り込んだのだった。借り込み先は杉木グループのパクリ屋河本であった。最初の2ヶ月は通常のジャンプで済んだ。しかし麻薬である。その時追加で150万を1ヶ月の短期で追加申し込みをしたのである。その時河本から保証担保として借入金の同額の手形を期日白紙で取り込まれてしまっていた。今は短期分であった150万、バンス分に相当する150万合わせて300万円は返済してしまっていて残りは200万でしかないということになる。しかし、500万の担保とした手形はそのままである。そしてさらに悪いことにその500万の内容は100万を5枚にして切られていた。これは所持人の思うがまま使いこなせることを意味している。手形師の常套手段であった。借りている200万がある限り預かり500万の担保手形を返して欲しいと言いにくいことにもなるからだ。そしてたぶん今となればその手形は使い込まれているはずなのだ。
「で、社長。アンタはこのオメコ事件をどうしたいのだ?」とオレは二口の顔をじっと見つめた。二口の顔は一種ぎくりとして青ざめ、そして赤くなった。
「ですから200万円を期日前に南無さんから借りて500万の手形を早く取り返したいのです」当然の論理であった。しかしこの男の言うことをそのまま受け取るような神経もオレはもちあわせてはいなかった。一体この出来事をどうとればいいのかとオレはしばらく二口の前で考え込んでいた。クロもいつの間にかオレの横に座り込んでオレの顔を見つめていた。二口にはたとえ200万を返しても500万を取り戻す力量なんかあるはずがない。決済期日に余裕日がある場合、河本はたぶん200万を期日回しの落ち込みにしろと言うだろう。そしてあらゆる準備をするはずだからだ。
「あのな、二口さん。ハッキリさせておきたいことがあるんや。聞いてくれるか?ええか、オレがアンタに200万貸すことはいっこうに構わんがな。だけどな、それで河本から担保手形が戻るという保証が、今あると思うか?返らんかったら、どないするんや?」オレはキツイ口調で彼に突っ込んだ。
「そんなことはないでしょう。借りた分返せば担保は戻るに決まってます。私の考えのどこが間違ってますか?」と二口はむっとした口調で言葉を返してきた。
「さようか」といってオレはバッグから現金200万円を取り出し二口の前に差し出した。一瞬二口は驚いた顔を見せたがオレにぺこりと頭を下げた。
「ありがとう御座います」と言って二口は鞄から200万の手形をオレの前に置いた。期日に書き込みがなかった。
「2ヶ月までならいいよ」とオレは二口に言って期日を書き込ませた。二口はもう笑顔になっていた。単純な野郎だ、とオレは思った。
「ではさっそく河本さんに連絡をして精算をしてきます。終わったら連絡しにまたここへ来ますので宜しくお願いします。本当にありがとう御座います」と彼はオレに深く頭を下げてそそくさと出ていった。

 クロはテーブルの上を片付けながらオレに言った。
「河本は手形全部返しますかね?」
「返さないだろう」とオレは答えた。
「どうするんです?」クロは手を休めてオレの顔をじっと見た。
「結果を見てみるしかないだろう。それにオレはもうこの話に噛んでしまっているじゃないか。行くところまで行くしかないだろうよ」アイツ等のことだから今の200万の出所はすぐキャッチするだろう。
 火をつけたのはオレになるのかな、とも思った。だがオレもこの街で生きていかなければならなかった。それにオレの腹はもう決まっていた。
 夕方近くなって二口から重苦しい声で電話が入ってきた。オレはとにかくすぐ来るようにと言って電話を切った。
「クロちゃん、どうやら二口はうまくいかなかったらしいよ。予想通りだな。わるいけどオレは今からさっと風呂に入るわ。二口が来たら教えてくれ」
 オレはバスルームに行き温泉の方の蛇口を捻った。薄茶色のお湯が勢いよく浴槽に注がれ始め薄い硫黄の臭いが浴室に漂い始めた。オレはお湯を止めずにざんぶりと身体を沈めた。さてと、どうしたものか。じっとしている訳にもいかないが、下手にオレ自身が河本に突っこむわけにもいかなかった。突っこむには理由というものがいるものだ。今のところはまだ二口と河本の間の問題にしか過ぎないからだ。二口自身がどう思うかにより流れは変わる。また、河本が二口の新たなスポンサーとしてオレが出てきたことについてどんな読みをするのかによってもコト(問題)の大小は変わるだろう。手形師という者は見境の無い天性の嘘つきでもあるから、彼自身のけちな小細工もどこかにあるはずである。小細工は河本自身にとっての両刃の剣になり、オレと対立した場合オレの恐ろしさを味わうことにもなるのだ。今のところはまだ全体が見えては居なかった。ただ、言えることは最初から仕掛けられているのではないかという疑念だけはオレの中にこびり付くように残った。たぶん二口は的(まと)になったのであるまいか、と。そして、それはオレの頭の奥底でほぼ確信に近いものに変わっていった。とにかく二口にカマシを入れてみるしかないだろう。
「二口が来ました。待たせてあります」とクロは浴室のドアを開いてオレに伝えた。
「どんな様子だ?」
「ま、南無さんが睨んだ通り挙動不審ってところかな」
 逆突っ込みをされたのかも知れないなとオレは思った。アホな野郎だ。

 応接室に入って行くと二口はまんじりともせず座っていた。
「南無さん、私は一体どうしたらいいんでしょうか?」二口の顔は明らかに青ざめて動揺していた。
「落ち着いて事情を簡単に説明してくれないか?」
「河本さんにはなかなか連絡が取れなくって、留守番電話に数回入れてようやく喋ることが出来ました。期日にまわるようになっているから落とせ、っていうんです。担保である以上500万の手形はその決済が済んでからの話だと言うんですよ」そういう話をしながら彼は鞄から先程の現金200万をオレに見せた。
「それどころか私が納得出来ないと言うと、電話を切ってしまい、それっきりです」ほとんど泣き出しそうな口調であった。
「仕方がないだろう。期日までまだ半月以上もあるのだから河本の言い分も分からないではない」とオレはわざと河本の肩を持つような素振りで二口を突き放した。今のところまだ二口の覚悟が見えないからだった。
「でも、200万が決済されてもそのままだったら・・・。というか500万がいきなりまわったら私は終わりです。今、会社にそれだけの余裕がありません」二口は頭を抱えた。今のところまだオレの存在は河本にはバレていないはずであった。時間の問題ではあるが。
「二口さん、ちょっと待ってくれないか。アンタは先程ここで200万を持って行く時、オレにキッパリと言ったんじゃなかったのかね。『間違いありません』と。そしてオレはアンタのその言葉を信じてお金を渡したんだよ。そうではないかね?アンタと河本の約束事に最初からオレが入っていた、というならアンタの理屈はオレに通るだろう。そうじゃないか?」とオレは切り出し始めた。こうなれば取った言質から二口に攻め込んでいけばいいのだ。オレの仕掛けはもう頭の中で動き始めた。
「言われる通りです」と二口は小さな声でぽつりと言った。
「声が小さくってよく聞こえネェよ!」オレはわざと声を荒げて言って彼の反応を見た。二口はびくんとして身体を震えさせた。そして、椅子から降りてオレに土下座の姿勢を取り始めた。
「私が甘かったのです。南無さんの言う通りになってしまいました。私が河本を信じたばかりに嵌ったのだと思います」二口は絨毯に顔を擦りつけるように俺に謝り始めた。もうほとんど泣き声だった。
「そうか、分かってくれたようだな。ではな、ちょっと二、三聞きたいことがあるんでな答えて貰おうか?こうなったらアンタが嘘をついてもはじまらねぇからな。それでな、断っておくが嫌なことを言うかも知れないからな。アンタがそこに持っている200万、オレに返して去るのも自由だから、今のうちだぞ。さあ、どうするね?」とオレはさらにたたみかけた。
「南無さん!この通りだ、私の頭ではどうしたらいいのか分からないのだよ。助けて下さい!見捨てないで下さい。たのんますっ!」二口の目にはもう涙がこぼれそうになっていた。
「では、アンタとこの従業員の娘、ほら桜木町に働いているって娘のことだよ。事の発端だからな大事なことだよ。聞くがなアンタはその娘とその後寝たのか?正直に答えてくれないか?」とオレは二口にとって予想もしていない問いからたたみ込んだ。
二口は黙ってうなだれてしまった。
「二口さん、黙りでは困ってしまうよ。そうじゃねぇか?ハッキリさせなきゃいかんよ。アンタにとっちゃオメコぐらいと思ってるんかもしれないがな。そうとは云えないこともあるので。オレはね、別に覗き趣味でこんな事聞いて居るんじゃないんだよ。さっさと返事ぐらいしろっ!」とオレは荒々しく二口の目の前のテーブルをこぶしでドスンと叩いた。二口は軽い悲鳴を上げ後ずさりをしながらオレの顔をあんぐりと見上げた。なるほど馬鹿面だった。
「すいません、しました」と小声でオレに言うのがやっとであった。店名と女の名前を喋り、ほとんど毎晩のように女のマンションに通っていることもオレに白状したのであった。なんて事はないオメコ一個にやられたようなものでしかなかった。オレはさっそく電話をとり田ノ下竜一に連絡を入れた。桜木町スカウト屋のボス格の男で女達からは通称「ダマシタ・リュウイチ」と呼ばれていた。いわば歩くペニスのような男であった。
「竜ちゃん、南無だよ。おはよう!」
「あちゃー、南無さん富山に居るんかい?」
「ああ、当分のあいだ富山に居着くことにしたんだよ。急な話で申し訳ないがトリッパーという店とそこの若い子でリエっての知ってるかい?」
「フェラーリがどうかしたのかい?」
「フェラーリじゃなくって、リエって子の事を教えて欲しいんだよ」
「だからフェラチオのリエ、略してフェラーリだよ。相当ヤバイ奴だよ。南無さん引っかかったのかい?」
「冗談言うなよ。勘弁してくれよ。オレは仕事上で情報が欲しいだけだ。教えろや」
「店はね、パクリ屋の河本の女がやっている。フェラはね最近土建屋のハゲをたらし込んでせっせと笛吹きまくっているらしいよ。フェラ本人がホストに吹聴してるから間違いないよ。ま、ハゲは早いうち倒産だな。そんなことより、今度行くから金貸してくれよな。今度の女、先行投資しなくっちゃ釣れねぇんだよ。頼むぜ」ハゲとはたぶん二口の事に違いなかった。
「わかったよ、いつでも来なよ」
「あっ、それとねフェラは粉をオメコに塗りたくっているという噂だよ。パケバイ(売)もやってるって言うから相当ヤバイからね」
「で、男は誰だ?」
「天誅青年塾の若いアホタレだよ」
「ありがとう、助かったよ」
 三文役者は全て繋がった。偽右翼の半兵衛、パクリ屋河本、ハカリ屋の健三、そして裏には杉本が居るのだ。二口はまんまと手のひらに乗せられ潰しに入られてしまっているのだった。こうなれば、単純に物事を考えるわけにはいかなかった。なぜなら奴等の絵図にオレが横やりを入れる事にもなるからだ。まして、オレのメリットというものは今のところ見あたらなかった。それにしてもまだ不自然さがあった。二口の資産からして500万のシノギでは分け前が小さいだろうと思ったからだ。そこでオレは竜一とのやりとりを全て伏せて二口に試してみる事にした。
「二口さんよ、オレは別にアンタを信じていないわけでもないのだけどね、手形帳って今持っているのかい?いやね、切った数字がアンタの言うようになっているのかちょっと心配になったんだよ。その鞄にあるのかい?出来たら見せてみろよ」とオレは二口にやんわりと言ってみた。
「はい、ここに手形帳の綴りと先月分もあります。最近はいつもハンコと共に持ち歩いています。お見せします」と言って鞄から耳だけになった前の分とまだ大半が残っている手形の綴りを前に差し出した。前の綴りから一枚だけ耳に何も書いてないものがあり、新しい綴りの中に目立たないように飛び飛びになって二枚同様なものがあった。分かってやってんのか、やられてしまったのか、どちらかでしかなかった。
「書き損じのものがあるのかね?」とオレは二口の顔をじっと見て問うてみた。
「先月一枚だけありますが新しいものにはありません。それがどうかしましたか?」二口は不安そうにオレの顔を見た。
オレは新しい綴りを二口の前に放り投げて言った。
「では聞くが二枚はどこに切ったんだよ。しらばっくれるんじゃねぇぞっ!こらっ!オレを騙そうってのかよっ!どあほうが!」とオレは立ち上がりいきなり二口を蹴り飛ばした。二口は壁までぶっ飛びそこに倒れた。クロもびっくりして席から立ち上がりオレの顔を見た。
「おめぇ、この二枚をどうしたんだよっ!オレを引っかけようとするなんざ、いい度胸してんじゃねぇかよっ!この色ボケ野郎がっ!目ん玉オッぴろげて手形の耳を確かめてみろっ!」仁王立ちになったオレの足下まで二口はずり寄り手形の耳を調べ始めた。そして、あっ、と小さな悲鳴を上げた。その手はガタガタ、ガタガタと震えていた。どうやら思い当たる節があるようだった。
「二口さんよ。昨晩もリエと寝たようだな。その時、寝物語でオレの名前を出しはしなかっただろうな?」とオレはしゃがみ込み彼の顔を覗き込むように低い声で言った。下を向いたまま何度か黙って頷き、涙をこぼし始めた。
「泣いてちゃ、おめぇ。どうにもならんぜ、どうするつもりなんだよ、えぇっ?白地で二枚抜かれたって事はパンクじゃねぇかよ。女にチンポしゃぶらさせて、腐れマンコに突っ込んでって、かぁ?全くおめでたい野郎だよ」オレはそれだけ言うと席に座りなおした。二口は座り込んだままオレの足下で泣きじゃくっていた。救えネェ野郎だぜ、とオレは黙って二口の姿を見下ろしているしかなかった。

 しばらくしてからクロが頃合いを見計らうように二口の脇を抱えオレの目の前の椅子に座らせた。
「南無さん、社長は完全に嵌ったようですね。悪気はなかったようだから、もう堪忍してやって下さいよ。なぁ、二口さんよ。アンタも南無さんのいう事の意味分かるんだろう?」とクロは二口の動揺を鎮め始めた。
「すみません。南無さんにまで迷惑かけて、私が馬鹿だったのです」と二口は目の涙跡を拭った。
「二口さん別にアンタはまだオレに迷惑はかけてネェよ。オレはまだ何もしていないじゃないか。オレが言いたい事はこれからのアンタは全てを投げ打つくらいの気持ちがないと、事が前に進まない、という事を教えただけだよ」とオレは落ち着いて元に戻った口調で二口の顔を見つめた。カマシは完全に入ったと云う事でもあった。
「警察って手はあるんでしょうか?」と二口はおもむろに口を開き始めた。
「無いな、今のところパクリ手形を行使していない。そして白紙手形の存在がまだ分からない。証拠もない。むしろアンタの方が現在河本の債務者でしかない。だから警察は金銭貸借として民事不介入の原則を守るだろう。まして、接点に女が居る。おそらく痴話喧嘩程度を持って来るな、ってところだろう」もう逃れる道は閉ざされているのだ。手形は所持している所持人の物であるという手形法上の原則がまかり通ってしまうからなのだ。ましてパクリ屋から善意の第三者の金融業者の手に渡れば抗弁は難しくなる。いずれにしても白紙手形はある日突然回るものなのだ。
「はぁー、このままむざむざと二口さんはやられるしか無いのかねぇー、南無さん、なんとか出来ないのかなぁ」とクロはオレの横で溜息をついた。
「今の段階では何も出来ないのだよ。まして、、言うのもなんだがオレ自体の商売が無いのだよ。パンクするのが分かっていて金なんか貸せれないだろう。慈善事業ではないのだからね。ただまだ日は残されている。二口さん、オレが言った事をゆっくりと考えるんだな」とオレはさらに二口を突き放して反応を見た。二口はじっと壁を見つめてなにか考えているようだった。そうだよ考えるために頭があるんだよ、とオレは心の中で呟いた。オレの頭にはもう絵図が出来ていた。あとは二口の決断ひとつなのだ。オレはそれを待つしかなかった。
 二口はようやく少し落ち着きを取り戻したようにオレの顔をじっと見つめた。そしておもむろに口を開き始めた。
「南無さん、私の置かれた立場が並大抵でないという事はもう私にも理解出来ました。南無さんみたいな人がいつも私の傍にいれば良かったのですが、今となれば、もうどうにもならないと言う事も分かります。全て自分が招いた種だと思います。何十年と生きてきて正直を言うと、こんな風になってしまうという事に戸惑いを感じました。今までは他人事のように思ってきた事が身にふりかかるとは思いませんでした。もう泣いていても始まりません。ですが、おめおめとこのまま倒産を迎えるわけにはいきません。私の覚悟はたった今決めました。これでも数人の従業員の生活や家庭もあります。せめて一矢報いなければ死ぬわけにいきません。南無さんに全て任せますから私を料理して下さい。南無さんにだったら私はどうなってもいいと思っています。この通りお願い致します」と二口は椅子から下りてオレの前に跪き床に頭を擦りつけた。
 覚悟した者の態度であるとオレは思った。オレはクロの顔を見た。クロもそう思っているようだった。これでようやくオレの出番が出てきたのであった。オレは自ら二口の前に胡座をかいて座った。そして彼の顔を覗き込むように言った。
「アンタは覚悟したのだな?」とオレは彼の顔を上げさせた。
「はい!南無さんの指示に従います。私の気持ちを汲み取ってくれるなら、何ら不服も申しません」
「失う物が大きくなっても構わないのだな?」
「はい、もう全てを失っているも同然です」と二口は肩を大きな呼吸と共に落とした。
 これで思惑通りに事を進めれると、オレは小さな声で心の中で呟いた。
「そうだな、時間の問題でしかないからな」オレは二口を立ち上がらせ彼の両肩に手をかけた。
そしてオレは二口にはっきり言った。
「引き受けよう。ただし、オレの指図に従って貰うぜ」
「従います」と二口はオレの顔を見つめ、涙を一筋流した。落ちた瞬間だった。

-策謀-

 オレはクロにコーヒーを湧かすように言ってから、しばらく三人で休憩を取った。時間はもう既に午後八時を回ろうとしていた。コーヒはそれぞれの席の前に静かに置かれた。二口もクロもオレの言葉を待った。
「まずは今回の事についてだが、二口さんは騙されて嵌ったという事になる。という事は、オレ達が彼らを騙しても何らやましい事はないという事にもなる」二人の顔を見ながらしばらく間を置いた。それからおもむろに話を続けた。
「今、奴等は目前にした勝利で油断をしているはずだ。ましてこのオレが金銭的に関わってくる事も女の口から聞いていて予想の範疇だと思っている。釣った獲物は大きいほど彼らにとってはいいはずだからだ。ついでに南無の金もやっちまおう、と彼らが思うように仕向ければ突破口は開かれるとオレは踏んでいる。リスクもあるが、恐れていては何事も出来ないことも自明だ。かけてみる価値はあると思う。これからオレ達がやる事は人間の欲にもっと火をつける芝居を仕組めばいいのだよ。だがな、クロちゃん、これは間違いなく戦争になるで。だからオレんとこのお茶くみは今後身の危険があるって事になるやも知れない。下りるなら今のうちだよ」オレは一気に喋った。二口にはまだ理解が出来ないだろうと思った。でくの坊にはでくの坊の使い道ってものがあるというもんだ。二口の鈍感そうな表情に較べてクロの目が輝いて来てヤンチャ坊主の表情が現れてくるのが見て取れた。
「クロちゃん、どうするんだ?」返事は分かっていたがオレは二口の心の動きを頭に入れながらわざとらしく聞いた。
「やるよ!俺も使ってくれよ。必ず役に立つように頑張るよ」とクロは興奮したように言い切った。二口はそのクロに向かって頭を下げた。これで決まりである。オレも一人の身体ではなにかと不便だからである。便利屋としてのクロは充分使い道があるからだ。
そしてオレは話を切り出し始めた。
「さてと、取り敢えず今晩からの行動についてだが、二口さんよ、動いて貰うぜ。いいかな?」
「はい、なんでも指示をして下さい」二口は緊張の面持ちで俺の話に返事をした。
「その結果は明日またここで打ち合わせをしよう。相手の出方も見ていかなければならないだろう。事が思うように運ぶという保証もないのでな。取り敢えずアンタはいつもの通りリエの店に行ってあとは部屋で今晩やりまくってこい。いつものようにだ。ついでだから二、三発位頑張れるだろう。ふふふ」とオレは二口にしらっとして言った。
「えっ、リエとまたやるんですか?」二口は驚いた顔をした。
「あたりまえだよ、オレ達がこんな事を考えているなんて奴等はまだ知らないんだよ。おめぇさんがガックリしていたんじゃ、奴等を嵌める事は土台が無理なんだよ。アホ旦那らしく、アホに務めていろよ。若い女を抱く最後だと思ってしっかり気合い入れてやってこい。あっ、それとな、店の払いはツケで沢山だからな。どうせ飛ばすんだ明晩行くオレのボトル用にハーパーの12年でもついでに入れてこいや。とにかく今晩はしっかりナニをオッ立ててやるんだな」
「わかりました。私はまだ良く理解出来ないんですが、訳がある、という事ですね。その他にはどうしたらいいのでしょう?」
「ここにある200万に200を足して400万の現金をアンタに今から渡す、バッグの中に金をチラチラさせてリエのオメコ料として10万ぐらい枕元に置いてこればいいだろう。カスには勿体ないけどな、これも戦術のひとつだ。やり終えたら風呂なんか入らずにまっすぐ家に帰るようにしろよ。泊まるとリエはまた枕探しをするからな。金は今度のゼネコンの工事の建設資材の購入を南無から調達して借りたとでも、なんとでも理由をつけるんだな。受注工事も順調で忙しくなりそうだ、とか、とにかく大スポンサーが付いたと言ってリエに吹聴しておく事が肝心だよ。分かるな?つまりオレを過大に吹聴しておけばいいのだよ。そして明晩オレ達はトリッパーで罠を仕掛けるんだ。今言える事はここまでだ。明日午前中にここへ来て報告しろ。分かったな」まずは二口の演技力が通るかも問題であった。リエを使ってスタートだ。
「クロちゃん、明日はやる事が結構あるので、朝8時までここに入ってくれ。その時大まかな仕組みを説明するよ。これからは仕事だと割り切るんだな」
「わかったよ。最後までつき合うよ」クロははやる心を抑えているようだった。焦ると必ず失敗する。これで、もうオレ達は後戻りをする事は出来ないのだ。肉体が緊張でこわばってきているのかオレはこぶしをぎゅっと握りしめた。
 舞台は二日もあれば作れる。それからが全て勝負になるだろうとオレは思っていた。結果がこっちに吉と出れば、言うまでもない事だが奴等にすれば最悪の凶になる。お互い潰し合いに入る事になるだろうとも思った。
 翌朝8時少し前に事務所に入ると、もうクロは出てきていて掃除は終わっていた。彼にはこのマンションの合い鍵を渡してあるからである。オレがソファに座るとコーヒーが運ばれクロはオレの前に座った。
「クロちゃん、これからオレが喋る事はここだけの話だと思ってくれ、わかるな?」
「うん、分かっているよ。そんな事で失敗しちゃ、元も子も無くなるかも知れないもんな」
「その通りだ。采配で分かり難い時はそのつどオレにそっと聞いてくれ。第三者が居る前では絶対聞いてはいけない。つまり戦術戦略は既に理解済みという風に他人の前で装うようにしろ。それとだな、仕事に入ったら、もうオレ以外には個人的な情を一切かけてはいけない。たとえ二口であってもだ。いいな」
「あたま良い奴になりきるしかないな。うーん」とクロは茶化すように返事をした。クロのいいところはそれ以上立ち入って聞いてこないところである。またそれがお互いの身を守る事にもなると彼は心得ていた。とかく知り過ぎは危ないものなのである。
「クロちゃんのやる事は沢山あるのでな、ここで取り敢えず50万円を預けておく。雑費類はその中で使え。ただし領収書は全部保管しておくんだ。分かったな?」オレは茶封筒に入れてある金をクロに渡した。
さらに話を続けた。
「二口に関しての仕掛けの粗筋をクロちゃんだけには知っておいて貰いたい。分かり難いところは質問をしてくれ。いいな?」
「そこまで信用してくれて嬉しいよ。目一杯理解出来るようにするよ。俺自身の勉強にもなるからね」とクロの目は輝いていた。
「オレはクロちゃん独特の便利屋的な能力を買っているんだよ。だからこの仕事はそれぞれの役割を分担することによって巧くいくと信じているよ」
 ここまで来るともう一蓮托生のように組んでいくしかない事はオレも判っていた。そしてオレは説明を始めた。今晩、明日晩と河本の女がやっている「トリッパー」を舞台にして芝居を打つこと。二口については新会社を早急に設立し現会社はタイミングを見計らって倒産させること。倒産内容については個人を破産させ、法人には破産を申し立てないこと等をクロにわかりやすい説明で話し出した。クロは俺の話を熱心に聞きいっていた。
「粗筋はこんな所だよ。さっそくになるが、今日の用件は三つだ。朝一で法務局に行き二口の会社敷地と建物の、そして彼の自宅の土地、建物の謄本を上げてきてくれないか。それと両方の公図も忘れずにとって来てくれ。二口の不動産の資産内容を知っておかなければならないからな。余剰含みがあればこの仕事は美味しくなる。それとだな役者向きのオッサンを一人、金沢方面から調達して欲しい。会社重役で通りそうな雰囲気のある野郎がいいな。口止め料込み日当10万円で雇ってこい。もっとも噛んだら最後、危険を感じるはずだから口も閉ざすだろうがな。ふふふ。そしてその野郎用の名刺も作っておいてくれ。ここに会社名、役職名そして名前のメモがある。実際に金沢に存在している会社なのでな、50枚を刷って49枚はクロちゃんが管理してあとで破棄だ。役者には1枚だけ渡すようにするんだ。役者は明日の夜に出番が来ると言う事を念頭に入れてくれ。法務局で資料を取ったらいったんまっすぐこっちへ戻ってきてくれ。その時二口を交えてクロちゃんにやって欲しい事が出てくるからな。以上だよ」クロは飛ぶようにして出て行った。

 9時半を過ぎた頃に二口から電話が入り、ここに向かうとの事であった。彼の弾んだ声で首尾は万端だったという事を察した。また悩みも少しは吹っ切れた事にもなるのだ。
 やがて息せき切ったように二口が入って来た。
「朝の打ち合わせを終え仕事の段取りをぱっと決めてきました。これで、日中は空きます」とオレの顔を見てにやりと笑った。
 オレは黙って二口の言葉を待った。
「南無さん、昨晩は言われた通りにうまくやれました。リエは完全に私の言う事を信じたようです。何といっても400万が効きました。残りはこの通りここにあります」といってオレに鞄の中身を見せた。
「その金の残りはアンタの新会社設立の資本金、設立費用として使うのだ。今から言う事を良く頭にたたき込むんだ」オレは二口に言うと早速質問を始めた。子供の年齢、職業そして二口の会社の信用のおける番頭格の名前、取引先元請け名等を聞き出した。息子は地場の中堅ゼネコンに務めていてまだ独身だった。オレは二口に今後の作業の説明をした。現会社の取締役から番頭を退任させる事は勿論のこと、息子と番頭を取締役とした新建設会社の設立登記を今日中に準備し代表取締役を番頭にする事、登記完了後直ちに番頭の土木施工管理技師の資格でもって建設業の営業許可を県へ申請する事等である。新会社所在地はオレの知り合いの大地主の敷地を安い賃料で頼むことにした。プレハブ作業小屋の1個も建てとけばいいのだ。また新会社の資本の積み立ては後々を考えて現取引銀行以外で行うことも指示した。隠密理に事を運ばないといけないからだ。オレは現会社を空にすることから始める事にした。何一つ残さないようにすることが肝要なのである。
 しばらくするとクロが資料を携え法務局から帰ってきた。オレは二口に指示したことをもう一度クロに伝えた。二口にとっては復唱になりクロにとっては午後から行う三つ目の仕事になるからだ。つまりのところ二口と行動を同じくさせ万が一のためにもクロに監視役になって貰うためである。オレはまだ二口を信じてはいなかった。これから遭遇するであろう己自身が生み出す幻想による恐怖と戦わなければならないからだ。オレは登記簿謄本を見ながら他の二人に座るように言った。
「二口さん、これによれば自宅の住宅ローンを一番抵当権にそして二番に会社敷地とのあいだに呉西信用金庫の極度額3千万の共同根抵当権が設定されているね?」通り一遍の事柄ではあるがお互いの確認事項としては大切なものだからである。とにかく二口の個人と会社の資産の合計を出さなければ全てが前に進まないからだ。
「はい、住宅ローンの残債はあと7百万程度、4年前に県信保の保証付きで信金から7年返済で借りている設備運転資金の残債は1千3百万ぐらいだったと思ってます。いずれにしても合わせて2千万です。それぞれの正確な数字は事務所に帰れば分かります」資産価値としては自宅、会社敷地合わせてで3千万以上の余力が有りと見れた。その他業務用トラック、建設重機の価値を合わせて1千5百万程度を加算してみた。つまり4千万程度まで負債を増やすことは可能であった。河本達の狙いは含み資産である空きに手形債権をぶっ込むことでしかない。つまるところ二口の新しいスポンサーであるオレが現れれば動向を見ながら奴等はあらゆる手段でもって手形債権をギリギリまで増やすことに集中するだろうとオレはこの先を読んだ。
 どのみち、早かれ遅かれ奴等とはぶつからざるを得ないのだ。そして何といってもオレは彼らと違う人種なのである。手形師、詐欺師の類はオヤジの命令でいつも狩っていたからだ。オレの嗅覚は長い間の経験によって匂いを嗅ぎ分ける事が出来るまでになっていた。
 二口が奴等に狩られる兎にすぎない者であるならば、奴等はオレの一体何になるというのか・・・。

-罠-

 クロと二口が新会社設立の準備をするため司法書士の事務所等へ行っている間、オレはひとまず二口の会社の敷地を見てまわることにした。なにしろ担保余力は今のところ3千万円を超えるからだ。最終的には奴等とその不動産の奪い合いになるだろう。オレはそこに5千万円の根抵当権を設定する腹づもりでいた。後順位設定登記を防ぐためと配当金見込み無しと云うことでの下位順位者の競売申立権を殺すためだ。ただしギリギリのタイミングを計らなければならなかった。奴等を罠に嵌めるために最後まで人参としての”余力”を空けておく必要があるからだ。涎を垂らしていろっ、とオレは河本の顔を思い浮かべてほくそ笑んだ。
 市内の中心街から車で10分程度の幹線道路に面して二口の会社はあった。300坪の敷地内の道路側に平屋で20坪程度の事務所と残りは資材置場になっていて空地にはコンマ7のパワーショベルが見て取れた。あとは現場に出払っている様子だった。地形は間口の広い長方形で形は良く分割売りも可能に見えた。あらためてクロの取ってきた法務局の附属公図を見てみると120坪と180坪の筆番で道路に対して並んで一体になっている不動産であった。どうやら、180坪側に事務所が建っているように見えた。このまま倒産すれば競売は単純に二つに分けられる恐れがあった。そういう単純な競売は認めてはならないのだ。オレは万が一も考えなければならなかった。多少の金はかかるだろうが両筆にまたがる建物を建築する腹を固めた。とにかく完璧に近い形で仕事を仕掛けたかった。奴等の具の根も出ないように全て奪い取ってやるのだ。事務所の帰りに4千万円の現金を引き下ろすため銀行に立ち寄った。午前中に頼んでおいたので用意はしてあった。この金が何度か武器の役割を果たしていくことを考えると可笑しさがこみ上げてくるのだった。
 その夜オレ達三人はかねての手筈通りトリッパーのある桜木町に向かった。筋書き、役割は全てクロと二口に伝えてあった。クロにはセメントタイルをトランク底に敷き詰め下部を嵩上げをした4千万円の現金の入ったトランクを持たせ一億円とし、駐車場で40分程度待ってから店へ来るようにと言った。二口とオレは桜木町の中心通りをぶらぶらしながらトリッパーの店内に入った。あらかじめ二口は女に接待があると伝えていたので河本の女であるママとリエがオレ達のボックスにやってきた。二口は白紙手形を抜かれても気づきもしないアホ旦那、オレは偉そうな顔をした、いけ好かない金融屋の顔で芝居をゆるりと始めた。
「あのな、社長、来月予定の例の話だけどなオレに任せな。アンタも大きな工事を逃したくないだろう」とオレは背もたれにふんぞり返りながら話を切り出していった。
「そうなんです。今度の仕事に社運をかけるつもりでいます。短期間になるかと思いますが面倒を見てやって下さい。正直を言って今でも資金が欲しいくらいなんですが、まぁ、つき合ってまだ間もないですかすからね、南無さんの云われる通り来月末まで自力で頑張ってみます」二口はにこやかにオレの話に合わせていった。倒産するには準備期間が何といっても必要だからだ。今月末よりも来月末の方が大きくオレ金を倒せると奴等に思わせないといけないのだ。そういう仕組みで二口が今月を乗り切り、オレの金が出るまで河本に面倒を見させる形を取らなければならなかった。
「ママさん、ここは可愛い子ばかり揃えているね、もっと女の子こっちへ呼んでよ。もう少ししたらオレの相棒もここに呼んであるんでな。サービス次第じゃこの店を今後愛用してもいいんだ」とオレはママの方に話しを振りながら三文芝居を続けた。
 しばらくするとクロが重いトランクを両手で持ちながら店内に入ってきた。
「無事に返済完了です。しかし重すぎるで」シナリオ通りの一字一句であった。
 これで役者が揃ったのである。クロは席に着くと現金の確認をオレに求め、女達の目が注がれている中で上部を空け女達の目の輝きと溜息を誘った。オレとクロはお互い顔を見合わせにやりと笑った。見せ金は想像以上の効果を与えたには違いなかった。女共は全員で猫に変容していたからだ。その夜はこのような虚業が織りなすクサイ芝居で幕を閉じた。後日噂は事実以上にあっという間に世間に拡がっていった。1億円の現ナマを持ち歩く男、南無として。

 翌朝も8時頃からクロと2時間余りのブリーフィングを行った。仕掛けを無駄なく進行させるためにはクロ自身の理解力が求められ、時にはオレの分身の役割も果たさなければならない。何よりもクロ自身の不退転の気持ちを奮い立たさなければコトが壊れてしまうからだ。クロはまるでオレの暗示に掛かったように急変していった。
 新会社設立は5日程度、建設業の営業許可は1ヶ月程度かかるとクロは言った。同時並行でいろんな作業があったのでクロの存在は心強かった。
 オレとクロはその夜もトリッパーに金沢からの大根役者と共に億以上の大口取引を装った接待を派手に行った。たった一枚しかない実在の人物を騙った名刺は役者からオレ用に挨拶代わりに差し出され、しばらく女達の目に触れるようにテーブルの上に置かれた。そしてオレのポケットに収まった。証拠となるものは一切残さないという鉄則は守らなければならないからだ。万が一があったとしても、これで酒の席における女達の曖昧な記憶しか残らなくなる。店の払いは全てそのつど現金で支払い、週二日程度のペースでオレは一人で、または新しく出来つつあったオレのシンパシー達と、トリッパーに通った。日中は謀議を企てながら夜は拡声器の如くである。
 二口は神妙にオレの指示に従ってはいたが不安感もいだいていた。何しろやることなす事が全て彼にとっては未知の体験であったから不安感が募るのは無理もないことであった。リエとの関係もズルズルと続けるように言ったが欲望もそのうち萎えてしまうのは当たり前であり、余り通ってはいない様子であった。もう一段階高みへ二口を引きずり出す必要があった。
「分からないことが有ればなんでもオレに聞いてくれればいいのだよ。不安を抱かれちゃオレもアンタを支えている意味もないからね。そのつどなんでも質問は受け付けるよ」とオレは二口に話題を差し向けた。
「イヤネ、私は本当の素人ですのでね、口を挟むというのではないのですけどね。時々心配になるのですよ。南無さんの話してくれた粗筋は理解してるんですが、河本さん等のことを考えるとね、ただで済まないような気がするのですよ。だってあの人等の裏にはヤクザがついているって噂もあるし、南無さんだって危険な目に遭うんじゃないかってね、心配するんですよ」予想以上に二口は奴等に恐怖感を持っていたのであった。最初は河本にしてやられた怒りで突き進んだものであったが、ここに至るとこれからやろうとしているコトの重大性に恐怖をいだき始めたのである。全て未体験ゾーンに他ならないからだ。
「二口さんの気持ちはよく分かった。ましてオレの身の安全まで心配してくれていることには感謝するよ。オレ自身のことについては心配は無い。彼らと過去にやり合った経験があるからね。しかしアンタは全くの素人だ。不安に思うのは無理もない。オレは余りそんなことは言いたくなかったのだが、もしもの為にもアンタや家族の安全を特別に考えよう。時期が近づいたら策をアンタに授けるからオレを信じて欲しい」二口はほっとした顔を見せ始めた。身の危険を心配していたのだった。
「南無さん、正直言って恐ろしかったのです。南無さんにそう言って貰えると安心です。本当に迷惑ばっかりかけすいません」二口はオレの言質によって、気を取り直したようであった。
 オレは久し振りに普通の感覚を取りもどしつつある自分を感じた。何といってもここではオレは孤島にしか過ぎないからであった。河本等の方が圧倒的な戦力を持っているからである。それに較べてオレの武器は屁理屈とひ弱な戦力しか持っていないのが現実であった。身ひとつさえ守れるかどうか怪しいもんである。このオレに対しても暴力の行使があるやも知れないとこの時初めて思った。オレはともかくとしてもクロに対する報復までもあり得るからだ。暴力の発生は出来るだけ押さえるに越したことはないが止む得ぬ場合は事前に察知しておくことも重要な事柄のひとつには入るのだ。なぜなら警察介入を招き全てをお互い露呈してしまうからなのである。先制攻撃のみが闇から闇へと事件の派生を押さえることが出来た。しかしそうなるとオレ個人だけの問題では止まらなくなる畏れも出てくることにもなり、堂々巡りの思考の中でオレは悩み始めた。
 そこまでやる値打ちがある事なのか、と。

-思案-

 オレは取り敢えず雑用で外を飛び回っているクロに連絡を取り半日富山を空ける旨伝えた。そして車を高速へと向かわせた。
 足はオヤジの家に向かったのである。前もって電話を入れてから訪れようかとも思っていたが、大仰に取られることを恐れた。オヤジは出かけているらしく、姐さんに挨拶を済ませ部屋で待たせて貰うことにした。どんな説明が一番オヤジが理解しやすいのか色々と考えを頭で巡らせてみた。刑事事件を起こすとまたオヤジに事が波及するかも知れないからだ。どうせ避けられない道ならば今のうち知らせておくべきだという考えがあったからである。たぶんオヤジはオレを止めるだろうとも思った。
 あれやこれやと考えているうちにオヤジの声が廊下に響いてきた。オレは正座に座りなおし入ってくるのを待った。
「お変わり無い御様子で安心しました」とオレは頭を下げた。
「おう、儂の方は大丈夫だよ。おめぇの方は変わりないか。富山ではここと違って苦労しているんじゃねぇか?」オヤジは笑顔でオレを迎えた。
「はい、なんとかスタートさせました。これからって言う感じです。今日はひとつ相談があって参りました」とオレは話を手短に始めた。
 小銭の貸付が少しづつ始まったこと、スタッフの男を一人置いたこと、そして最後に二口の件をオレなりになるべく私心を混ぜぬように説明した。その間お互いの視線は外れることはなかった。最後まで口を挟まずオヤジは耳を傾けた。やがてオヤジの目は静かになった。オヤジが口を開くまでしばらくの時間があった。その間オレは手入れの行き届いた庭をそしらぬ顔で眺めていた。今述べたオレの置かれている状況をどう捉えているのかはオヤジの目が動いていないことによって表れていた。そしてなにゆえ今回のことをオレがわざわざ報告に出向いたかも察しがついているだろうとも思った。事の進展如何ではオヤジにもリスクがかかる可能性は歪めないのだ。オレはたぶん反対されるだろうと思っていた。ある意味では今日持ち込んだ問題は単純な事柄ではなかった。オレは黙ってオヤジの言葉を待つことにした。
「そうか、仕方がない事だろうな。おめぇがそう思ったのならやるしかないだろう。早かれ遅かれそういう厄介な問題は出てくるものだな。おめぇらしい仕事じゃないか、止めはしねぇよ。但しこれが事件になれば、ヘタ打ちを起こす事になる。今、警察介入されるとおめぇの身が危うくなるじゃねぇか。儂は今おめぇを失うわけにはいかん」 オヤジはしばらくなにかを考えているようだった。長い無言の時間が過ぎていった。オヤジが反対しなかった事は意外に感じられた。もっともオレは反対されても決行するつもりであった。事件となれば元も子もない事は事実だった。しかし、これを超えたところにしかオレの住処もない事も確かな事だと言えるのだ。今更バック・ギヤを入れる気はオレにはなかった。オヤジもそれくらいのことは見越しているはずだった。オレは黙ってオヤジの顔を見た。
「儂に考えがある。しばらく時間を呉れないか。その時に儂からおめぇに連絡する。いままで通り仕事を続けていろ。今言える事はそれだけだ。もうお昼だ、ここで飯を食っていけ」と言ってオヤジは立ち上がりオレを食堂に案内した。オレは別段意見は申し述べる事はしなかった。反対しなかったからである。
 オレは食事の間、事務所開設以来これまで起きた事を面白おかしくオヤジに語った。リエと二口のくだんの事になるとオヤジは声を高くして笑った。
「男ってのはいくつになっても落とし穴ってのはあるもんだなぁ。もっとも世の中それでおめぇみたいな事件屋が生きれるって訳だよ。ふふふ。ところで、おめぇはその社長を助けたいのか?それとも行きがけの駄賃に皆やっちまうつもりなのか?どうなんだよ南無」オヤジは笑いながらオレに問うたが目は笑っているとは言えなかった。
「オレを裏切らない限り助けるつもりでいます。目先の欲に走るつもりはありませんよ。オレにだってプライドってものはありますよ。もっとも手数料はたっぷり頂くつもりですけどね」
「そうかそれを聞いて安心したよ。しっかり奴を守ってやる事だな。だぼハゼみたいに見境が無くなっちまったら河本等と何ら変わる事はないからな。大義は大切なものなのだよ」オレは敢えてそんな事を言うオヤジが奇妙に思えたのだった。一体オヤジはこの問題に対してどのような注文をオレにつけるつもりなのか想像してもオレには分からなかった。オレはこれで遠慮無く河本等と一戦を交える事が出来るという事の意味の方が重要だった。オヤジの奇妙さはただ単純な戦争には終わらないだろうとの思いをオレの中に残した。
 富山に戻る車中でオレを手離し富山へ戻したオヤジの思惑も考えて見た。ゴタゴタは予想してたはずなのだ。おそらくオレを敢えてその渦中に放り込んだとしか思えなかった。狸オヤジめ、しかしオレは単純な鉄砲玉ではない事をオヤジに教えていく必要もあった。頭は使うためにあるのだ。オレは午後三時頃に富山へ着いた。その足で知り合いの不動産屋に立ち寄り、二口の所有する不動産周辺の売買事例等を教えて貰った。大体思惑通りの価値がある事も分かった。事務所への帰り二口の会社の前を通ると社長の車と共に派手なドイツ車が一台止まっていた。手筈通り河本に来月用の短期繋ぎ資金の借り入れ話をしているのだろうと思った。河本にとっては更なるパクリのチャンスが訪れたようなものである。オレはそれを想像するだけで笑いがこみ上げてくるのであった。ガッチリ噛ませて貰うぜ、と。

 先日のオヤジとの話を終えてオレの気持ちはすっきりとしていた。こうなれば、ある程度の摩擦には目をこぼすと言うことにもなるからだ。問題は如何に表上の事件を起こさないようにするかでしかなかった。もう新聞に有ること無いこと書き立てられることにはウンザリであり、それ以上にオレの風評が落ちることに恐れをいだいていた。もっとも落ちるところがないほど落ちてしまってはいたが商業上の信用は落としたくなかった。信用とは金銭的な約束事を守ることである。頂くものは堂々と頂くというスタイルが大切なのである。
 毎日が謀議の積み重ねであった。準備はどれだけしても構わないからである。二口の新会社の登記は完了していて秘かに事業を新会社が肩代わりをしていった。またゼネコン会社との下請け協力会に新会社がすり替わっていく手筈も順調に進んでいった。手形のパクリさえなければ二口の会社は普通に営業が出来たのであり、今となればそれが叶わないことに二口は何度も己のふがいなさを嘆いていた。スケベと愚者には生き残る権利はあたえられないのである。
 互いが空いている時間、クロとは通常の貸付業務を含めて綿密な打ち合わせを、二口とは河本のやりとりのテクニックを伝授した。河本はオレの仕掛けた罠とも知らずに二口の言う出鱈目を信じつつあった。奴に手形のパクリを黙認しながら金を出させるという巧妙な仕組みの罠に河本は近づきつつあった。月末まであと僅かしか日は残されていなかった。その日までにからくりの方向を定めないといけないからである。あとは下り坂のレールを走るブレーキのすっ飛んだトロッコのようなものだ。もう誰にも止められない。そしてオレ達も覚悟を決めることにもなるのだ。

 河本は関西方面から進出してきている韓国系の「京都証行」の番頭格といつも連んでいた。クロに言わせればおよそ2億程度の金が河本に流れているということであった。問題は中身の不良債権の割合だった。これは重要なことでもある。不良債権の度合いが大きいほど河本は出資元にその穴埋めをするためのパクリ行為を増やしていかなければならないからだ。生きている手形をぶち込み決済された時点で不良債権を埋めていくと云う行為によってしか金は回らない。不渡りが重なると資金は絞られ彼ら手形師の稼業は成り立たなくなる。オレは「京都証行」に詳しい金属スクラップ業者の鄭に電話で探りを入れてみた。鄭はオレとは幼なじみで一時は駅前周辺で愚連隊として徒党を組んでいたこともあった。時々オレと酒は飲むことはあったが今は親のあとを継ぎ真面目になっていた。
「京都証行に出入りしている河本の引っ張っている金額が知りたいのだが、調べてくれよ」とオレはズバリ頼んだ。鄭はもってまわった言い方が嫌いだからだ。
「南無よ、お前、派手に大判振る舞いをしているらしいな。俺の耳にも入ってきているぞ。ただってわけにいかないなぁ、とは言っても俺とお前の仲だ。ソウル一週間で調べてやるよ。どうやら重そうな情報だからな」と鄭は狡く笑った。ただで無い分こちらも気が楽というものだ。
「後日、お二人様旅行クーポンで届けさせるよ。あいかわらずキツイな。ふふふ」
 問い合わせて3分もしないうちに鄭から電話が返ってきた。2億5千万が出ていて、不良債権は7千万近くになっていた。番頭は河本の腕を認めたとしても、あと余力は回収条件と言うことで5千万程度だと鄭に話したと言うことだった。これはオレにとっては貴重な情報だった。敵の限界点がわかったと言うことだからである。この戦いはお互いの資金のつぶし合いになるということを意味していた。もし河本が敗れればいかの「京都証行」も河本に対して黙っていないからだ。オレが勝てば確実に河本は破滅することになる。とことん嵌めるしかないのだ。問題は裏に控えている杉木の存在であった。カタギとヤクザでは話にならないことはいかのオレでも承知していることであった。杉木は河本を守ることでシノギを得ていたことは誰でも知っていることだからだ。更にもう一人厄介者がいた。右翼を騙る愚連隊半兵衛グループである。今度の二口のパクリ事件には半兵衛が直接関わっている臭いが濃厚だからであった。ガチンコになれば奴等が素早く出てくることは充分考えられた。過去にも半兵衛等とは揉めたことがあってオレへの復讐心を持っているはずだからであった。どう考えても多勢に無勢と言うところだった。いっそのことオレ一人で半兵衛だけでも闇討ちにするか、とオレは天を見上げて呟いた。

-蠢動-

 第1回不渡りは翌月5月の25日と定められた。河本が欲に釣られて見事に嵌ったのである。公然と河本がパクった5百万の手形のジャンプ書き換えを二口が認めること、その他、短期繋ぎ資金2千万円の手形貸付の条件としてそれに見合った同額の手形を別に保証担保として差し入れること。2千万の返済は南無から10月末までに借り入れし河本に間違いなく返済すること。そのときに預かり保証となっている手形を全て二口に返却する事等である。河本の預かり保証手形つまり、パクリ手形の額は正規借り入れ手形を差し引くと合計2千5百万となった。そして女を使って抜き取った白紙手形が2枚である。パクリ屋としては最高の舞台が設定されたわけである。そして河本は二口の会社名義の不動産担保を設定出来るならあと1千万を追加で融資しても良いと二口の耳に囁いていった。この話には河本の裏があるのは判っていた。不動産担保をオレが調べるであろうギリギリの時期まで設定をしないで設定登記の委任状、証書の書類を先に預かりオレの融資金が実行される直前に登記申請をしてしまうのである。二口の口さえ塞いでおけば簡単にオレを嵌めることが出来るからである。つまり河本の計略はまずはオレの2千万を出させ真性貸付金を返済させる。そして5百万を直ちに回しオレが防戦にはいるかどうかを見る、そして全ての手形を回しその担保としての不動産に充当させ倒産させるという手口だろうと思った。全てが逆になることの危険性を河本は勿論気づいてはいなかった。何と言ってもオレは今後二口に見返りの無い融資などするつもりが無いからである。つまるところ河本は全額不渡りになる手形に現金2千万円を払ったことになる。
「あと1千万を貸してもらえるのですけど、どうしますかね?」二口は当然オレに聞いてきた。
「お言葉に甘えようじゃないか。なにかと今後は現金がいると思うからね。今後の準備の流れを見ながら借りる時期を決めよう」とオレは二口に嘯いた。河本から既に借りた2千万はオレへの返済金として貸し出していた400万を返済させ、取り敢えずの企画料として別に300万を頂いた。そしてクロに100万を分け前として与えた。オレにすれば危険手当のつもりであった。そのせいとは言わないがクロは益々やる気を出し始めた。完了時には二口からさらにたっぷり頂くつもりであった。残りの金は倒産前に従来の取引先である資材屋、外注下請け関係先等の支払いの準備金、そして会社敷地に新たな建築物を建てるための費用、個人破産するための弁護士費用等にするように指示した。そして表面上何事もなく事態は推移して数日がたった。
 オヤジの朝の電話でオレは起こされた。連日の緊張感からか深夜の考え事が多くなり寝不足がたたっていたからだ。
「なんだ、寝てたのか」時計を見るともう午前8時をまわっていた。
「ええ、ここんところ色々悩みが多いので、明け方にならないと寝付けないんですよ」とオレは言葉を返した。
「そうか、おめぇでも悩むことがあるのかい?」とイヤミで返った。
「何時頃伺えばいいんでしょうか?」
午前10時ということであった。オレはひとまずシャワーを浴び、朝飯の準備をした。途中クロから電話が入り倒産後占有予定にする新事務所建物の見積もりが上がるという連絡が入った。二口の会社にあった仮設プレハブ用の軽量鉄骨を再利用しても水回りを入れて350万ぐらいかかりそうだと言った。設備の内、バスユニットをシャワーだけにして300万で納めるように指示した。8畳の和室、12畳相当のLDKで延べ12坪の建物を造り名義はオレの名にして、最悪の場合は土地に設定してある信用金庫の上位担保権の債権譲渡を二口の新会社が受ければ完璧になるだろう。これを行えば河本に渡すものはハナクソひとつも残らなくなる。お互い駆け引きと読みの勝負だった。

 10時に10分前にオヤジの自宅の前に着いた。見慣れぬ大阪ナンバーの車が止まっていて運転手を見るとヤクザ者の風体だった。そしてオレは瞬時にしてオヤジの作為を見て取ったのである。予想はしていたというもののオレは自然と顎に力が入り歯を食いしばった。こりゃ、大事になるな、とオレは覚悟を決めた。
 部屋に通されるとやはり、村埜が同席していた。
「南無さん、久し振りやの」と村埜はオレににこやかな視線を投げかけた。ほぼ1年振りであった。村埜はオヤジの地盤を受け継ぎ大阪本部での若頭を務めていた。村埜組は現在40人ほどの構成であると聞いていたが、当人はほとんど地元にはいないと言うことであった。
「お久しぶりです。ほとんどこちらにいらっしゃらないと云うことで失礼致しておりました」とオレは村埜に頭を下げおやじの前に座った。
 おやじはオレの座ったことを確認して話を切り出した。一体どこまで事を大きくするのか、事の次第では受け入れられない場合もあるからだ。オレは全神経を集中した。
「察しのいいおめぇのことだから村埜がここにいる意味は分かるだろう」オレは頭を少し下げそれに答える仕草を示した。
「これはお前にとっても悪い話ではない。ただ、おめぇ自身が納得しないことを儂がさせるわけにはいかない。そこでだ、村埜の話とおめぇの話とをここで摺り合わせて欲しい。儂が望むことは双方がいい結果を生むことだ。まずは村埜の話しを聞いてやって欲しい」オヤジは古狸らしい言い回しで二人を前にして言った。まずは村埜がどう言うのか聞いてみるしかなかった。
「南無さん、いいかい、俺も本音で喋るつもりだからアンタも本音で言って欲しいんだ」村埜はオレに向かい、座りなおした。
「わかりました。オヤジさんも意味無くこの場を取り持ったことではないと云うことは私も判っておりますので。どうぞ、おっしゃって下さいな」
「実はな、最近、若衆が急激に増えだしてな。それはそれでありがたいことなんだが、そうとは言っておれない状況に陥りそうなんだ。恥ずかしい話だが近年とみに若い連中の乱行が激しくてな、カタギの衆に迷惑ばかりかける事件を起こしよる。現在4人に1人が檻の中というお粗末さなのだよ。これもあれも、みんなが凌げないというところからきているんだよ。南無さんも知っている通り俺のシマウチ(島内)はこの街から糸魚川までなんだけど、どんなに合わせてみても人口が富山市の半分程度の規模でしかない。おまけに田舎もいいとこだ。これも知っていると思うが富山にいるのは古参の年寄りが二人だけしかいないんだよ。もうこのパイでは俺達は凌げないんだ。でな、なんとしてでも富山が欲しいのだ。だからアンタを手伝うからアンタは俺達を手伝って欲しいのだよ。この通りだ、頼む!」と村埜は最後に大きな声で俺に頭を下げた。オレは慌てて頭を上げるように言ってオレの方が頭を下げる始末になった。
「村埜さん、つまり言い方が悪いけど、口実が欲しいのですね?」とオレもズバリを言わざるを得なかった。オヤジは黙ってオレ達のやりとりを聞いていた。
「そうなんだ、南無さん、少しだけ俺達の入り込む隙間を作って欲しいのだよ。その代わり、ほとんどのことは迅速に執り行うことが出来ると思う。南無さんに迷惑はかけない、考えてくれないか?」
「おっしゃった意味はよく分かりました。しかしお分かりだと思いますが私はカタギなんですよ。少し考えさせて頂けませんか」とオレは訣を敢えてその場で出さなかった。なぜなら村埜の流れは余りにも乱暴そうに思えたからであった。お互いヘタを打つと警察から一網打尽にされる恐れが充分あった。ことカタギの争いで止まらなくなるからだ。そうなればオレの仕掛けが表沙汰になるばかりか警察の介入の口実を与えてしまうことになる。そんな目に遭うくらいならオレが半兵衛や杉木達のふくろ叩きになった方がマシだった。汚いやり方だが、巧くすれば民事を刑事事件にすり替えることだって可能だ。そのためには骨の二、三本折られても止む得ないと最近思うようになったからである。そして、オヤジは気づいているだろうがオレの村埜に対する牽制や駆け引きもあった。大義というものがある。この戦いはオレの戦いであって村埜の戦いではないからであった。村埜とオレはお互いの顔を見つめて押し黙った。
 村埜とオレの攻めぎ合いの中心はこのいわば「連合」のイニシアチブを誰がとるかに掛かっていた。とるものによって表面上の体裁が変わるからだ。村埜の性格であればオレを出汁(ダシ)に使い一挙に暴力の嵐をまき散らしながら富山になだれ込んでくるだろう。確かにそうであればオレの身の安全は間違いなく保証されるだろう。それではオレが都合が悪かった。村埜の一員とみなされ世間はオレに対し一斉に警戒するだろう。今オレの所へ出入りしている様々なランナーのタマゴ達はそのような危険領域に距離を置くに違いなかった。これでは商売はあがったりである。そしてオレはなんとしてもあとで言い訳がつくようにしたかった。警察や他の組織に対する逃げ場を設けたかったのだ。そうしなければ、遅かれ早かれとオレがやられるからだ。オヤジもその辺のところは一番分かっているはずなのだ。匙加減というものが必ずあり、オレに指揮権が来るのであればいくつかの案を胸に温めていた。村埜がどの辺りで譲歩してくれるのかはオレには何とも言えなかった。なぜなら俺に命令する権利が無いからだった。
 オヤジは押し黙った二人を見つめながら訣を採りに入った。
「まず、儂の考えも言わせてくれ。たぶんこのまま南無が突っ走れば、地元の連中も動き出すだろう。今の南無に戦争をする力は無い。これは南無も承知していることだ。もし万が一のことが有れば南無個人だけの問題にとどまらず儂や村埜の問題にもなる。世間では南無を見捨てた、とな。で、あれば、それはなんとしても食い止めなければならない。とはいえ、ヘタを打てば村埜達が警察の餌食になるかも知れない。ある程度の犠牲は止む得ないと村埜は思っているようだが、これも儂は余り勧めれたことではない。村埜の望みは富山に不動の楔を打ちたいと願っている。とすれば結果的に二人の顔が立てばいいのではないかな。二人とも完全な形で進出を成し遂げれば良い。体裁なんか考えているようでは必ず失敗する。南無、おめぇには使う頭もあるだろうよ。出し惜しみするんじゃねぇっ!」とオヤジはオレを見抜くように一喝した。 まさしくオレの陰険さが見抜かれていたと同時に指揮権をオレに渡すと言うことを暗に示したのであった。一瞬、村埜の顔をオレは一別したが異議を唱えるような表情は見て取れなかった。つまり、村埜はオレの考えを聞きたかったのである。
 オレは顔を真っ赤にして一挙に言い切った。。
「では、言わせて頂きます。ありがたく村埜さんの厚意を受けさせて貰います。但しあくまで影で、お願い致します。なぜなら私が今回の仕事で描いた罠は完全に違法であるからです。お互いの身の安全のためにも、これだけは絶対譲れません。対警察を考え、事が起きるまで目立たなくしていたいのです。またこの事によって村埜さんの身内から逮捕者が出るような事を私は望んでいません。実力行使は本当にやむを得ない状況がふりかかった時に考えればいいことです。その時は私も何ら異議を村埜さんに言うつもりはありません。そのかわりにと言ったらなんですが、事後の村埜さん等の拠点は、考えが既にあるので私が合法的に提供します。そしてさらに、もう一つ、村埜の親分さんが忙しいことは私も承知しています。私には慶伊さんを寄越して下さい。そして二人で話し合って事を進めていきます。そうすれば、たぶんお互い実をとれるチャンスがあると思います。いかがでしょうか?」オレは村埜とオヤジの顔を相互に見た。
 村埜の反応は早かった。
「よっしゃ、俺はそれで不満はない、南無さんに乗るよ。早速、明日慶伊を寄越すから教えてやってくれ。俺は一切慶伊と南無さんに任せるよ。どのみち、かしら(若頭)である慶伊をアンタにと思っていたんだ。お互い何度か組んだことがあるんだから、きっと巧くいくと俺もそう思う」村埜は満面笑みでオレの手を握った。基本的な合意は出来たのである。
「では宜しくお願い致します」とオレは村埜に正座をして頭を下げた。オヤジはそれ以上何も言わなかった。これで深く静かに侵略は開始されるだろう。何と言っても慶伊はオレをよく知る男だったからだ。
 オレはこのようにして秘かに武力を手にいれ富山へ戻った。

-手形戦争-

 オレの商売はクロの顔の広さのおかげでなんとか上り調子になってきた。顧客数も順調に伸び始め証書貸し50万以下の客数も50人以上に、その他商手割引も10数件となり事務所運営固定費やオヤジへのバックマージンも負担にはならなくなってきた。それでもまだオヤジから預かった金が使い切れているとは言えなかった。まだ蓄えはあるというもののオレ自身への安定的な収入の確保まで手が回らなかったからである。商いには一定の時間が掛かるのは致し方無しとオレは割り切るしかなかった。焦るよりもいいからだ。
 いつも事務所はそれなりに人の出入りがありオレとクロは話をする機会がないことが多かった。そんな中でぽっかりと時間が空いたタイミングを狙ってクロと今後のことも含めて話し合うことにした。
「クロちゃん、ここも、もう3ヶ月に入る。アンタのおかげで客数も伸びてきた。感謝しているよ。それでさ、オレはただの金融屋でないことはもう承知していると思うけど、ここでもう一度クロちゃんとオレの間でお互いの意思の確認をしておきたいのだよ。いいかい?」
「南無さん、あらたまって変だなぁ。俺は大体のところは知っているつもりなんだよ。スポンサーが誰であるかも知ってたんだ。でも、そんなことは関係ないよ。俺は南無さんとこうやって働いていると生きているって感じるんだ。もう忘れていた感覚だったよ」クロはもう新聞拡張販売員の仕事はしていなかった。またそんな時間はとれないからだ。先月から生活出来る程度の固定給を支払っていた。
「そうか、ありがとう。それを聞いてオレも安心だよ。ただ二口の件についてはそれなりのリスクも覚悟しなければいけないので一言、言っておきたかったんだよ」
 オレは今までのクロとのつき合いの中でそれなりの彼の性格を見てきたつもりではあったが、未知の経験と遭遇すると根幹的に揺らぎがでることが多いからだった。またその揺らぎがお互いに致命的な結果で現れる場合も多い。
「南無さんのいわんとすることは俺は薄々判っているつもりなんだよ。なにか、こう、嵐の前の静けさって言うか、・・・感じているよ」クロの顔は静かだった。そこまでオレを信頼するのか、とオレはその時感じた。
「では言う。二口の件についてはもう賽は投げられた。後戻りは出来ない。そして最悪の場合は事件になるかも知れない。でも、オレはそれをなんとしてでも、くぐり抜ける自信がある。だから最後まで投げずについて来て欲しい」
「俺の腹は決まっているんだ。だから警察にもヤクザにも口は割らない。アンタと一緒だったら、たとえ地獄の三丁目でも」クロの顔は真剣だった。
「そうか、では、地獄の三丁目とやらを見てみることにしようか」とオレはクロに笑顔で答え、クロも笑った。オレの気持ちのどこかにあったわだかまりがクロの言葉によって氷解していくのが感じられた。

「夜の方がいいと思うのですが」と慶伊は電話でオレに言った。目立たないと言うことを考慮に入れてだろうとオレは思った。
「オレの事務所であれば夜8時頃、出入りもなくなり一人だ。今の内であればまだ安全だろう」とオレは答えた。
8時前にドア・チャイムが鳴った。慶伊一人だった。
「御無沙汰しております」慶伊はオレに頭を下げた。慶伊の身体が一回り大きくなったように感じた。
「そうだな、久し振りにアンタと組むことになる。夜は長い、ゆっくりと話をするよ」慶伊は酒を飲まないので俺はコーヒーを彼に出した。
「今までのあらましを説明するよ。質問が有ればその都度言って欲しい」
 オレは二口のヤマについての説明を始まりから今まで、事細かに慶伊に語り始めた。特にどの辺りが法に抵触してくるかも重要だったので包み隠さず話した。慶伊は黙って聞いて、オレの話を進めるかのように一切の質問はしなかった。オレの考え方やヤマの仕掛けを何度かの共働きの仕事で見ていたからだと思った。大体の話を終えたところでオレは慶伊に問うた。
「親分からはどう言われているのだい?」オレは慶伊が正直に答えるはずがないとは思っていたが、お互い言質はとっておきたかった。
「簡単なことです。南無さんに従え、って事と、南無さんの身体のガードです」と慶伊はしらっとした感じで言い抜けた。オレは腹の中で彼が”従う”という言葉を口に出したことがかえって慶伊の隠し事を感じさせた。
「では、オレから質問がある。杉木一派からオレを守ることについては有り難いと思っているよ。でもオレは表面上は彼個人と一戦交えようとは思っていないのだよ。この街においては、どこかで彼の人脈の末端がオレの人脈と複雑に絡まっているからなんだよ。オレも商人の端くれなんでな。つまり、オレの言いたいことは杉木だけを巧く捌く事が出来ないかって言う事なんだよ?」オレはズバリ聞くしかなかった。なぜなら相当の覚悟を以て慶伊は富山に出てくるはずだからだ。
「意味は分かりました。南無さんの意向に従います。ウチの親分と杉木のところの親分は渡世上対等の兄弟です。つまり杉木と私はいわば同格という事になります。その件については私が責任を持って通るようにしましょう。但し杉木だけです。それ以外の者には容赦するつもりはありません」オレの口はこれ以上挟め無さそうだなと感じた。こういうケースには犠牲はやむを得ないのだ。
「注文をつけたようで悪かったな」オレは独特のイヤミで慶伊に言った。
「いいえ、指揮官は南無さんですから、遠慮は要りませんよ」と慶伊はにやりと笑った。
「それから、事が起きるまではオレとあんたが人目に触れる事を避けておきたい。お互い繋ぎ役を作っておきたいのだが、どうだろう」
「今私の補佐をしているノブオを寄越します。そちらは?」
「クロってのがいる。十分信用は出来る奴だ。後日お互いの面通しはやっておこう」
「いつ頃が天王山になる予定ですか?」
「今月の25日前後だと思う」
「南無さんだから言っておきますが、明日から女を使いながら我々は、一人、二人と富山へばらばらな形で進出を始めます。なるべくこちらで顔の知られない者達を選んでありますから気づく者もいないと思います。それから、私の女を一人巧く河本の店トリッパーに勤めさせることにします。そしてあの店を頂きます」
 お水の女を表にしてまずは夜の街を足がかりにするは、彼らの常套手段だ。それにしても慶伊は相変わらず大胆なことをやるとオレはその時に思った。そして一瞬河本の運命をも思わずにはいられなかった。
 オレと慶伊はお互いの顔を見つめ合った。
「なにかそっちに言いたいことが特別にあるか?」
「ありません。私の運命は南無さんに預けたようなものです。出来るだけ頑張る所存でおりますので、今後ともお引き立てを宜しくお願い致します」
 慶伊は椅子から床に正座して深く頭を垂れた。オレは慶伊の心の奥底に秘められている決意に底知れない恐怖を感じた。
「では今晩はこれで失礼をします。色々な下調べのため明日繋ぎを出しますから宜しくお願い致します」
 そういって慶伊は立ち上がり様々な思いをオレに残して帰っていった。やがて富山の裏は変わっていくだろう。
 そして、もう、オレはポンコツだなと口の中で呟いてみた。

 二口とオレは月半ば頃になるとトリッパーへ出向きあとの仕上げを目論んで賑やかに事の確定へ向かった。あと1千万円を河本から出させるためである。つまりオレは二口に4千万程度であれば受けてやるよ、と派手に女達の前で声高に芝居を打ったのである。フェラーリも店のママもこの言葉を見逃さなかった。オレは心の中でほくそ笑んで彼女らの顔を見つめていた。しばらくすると新人の美しい女がママによって紹介されオレ達の席についた。慶伊の女だった。女は目で一度だけオレに特別の挨拶をした。俺はニヤリと目で理解した。来月にはこの店はこの女のものとなっているだろうとオレは確信した。そしてオレは目の前にいるママやフェラーリの辿る運命を考えると心が傷んだ。男をその肉体で操り、また男によって蹂躙される儚さを感ぜずにはおれなかった。
 二日後河本から追加として1千万が融資され不動産担保登記の委任状一式も河本の手に渡った。オレも二口も胸が高まった。このまま今登記をされるともう終わりである。だがオレの金を奪うためにはオレの融資直前のギリギリまで登記をしないだろうとオレは踏んでいた。なんと言っても彼らにとってはグリコのオマケはおいしいからだ。ただ同然でオレの金3千万円がオマケについてくる誘惑は河本にとって何事にも代えることの出来ない誘惑であった。25日の幻の融資日まで待てば、河本にとって3千万円が返済され、なおかつ二口の会社所有地に担保として化ける5、6千万がただで手に入る。そして奴の不良債権も一掃されるかも知れない。オレが与えた幻想に河本は酔いしれているはずだった。
 弁護士はオヤジに紹介して貰い融通が利いていた。個人の破産はするけど会社は破産させず単なる不渡り倒産にする。こういう方針は全て河本からの融資金の使途をうやむやにするための策であり、あとのからくりを管財人に見破られないためであった。あとはこちら側の実行だけが残された。
 オレは手持ちの残りの金で二口の新会社へ1千3百万融資をし二口の会社が不動産担保で信金から借りている根抵当権の解除を行い新会社を根抵当権者として一番順位で登記設定をさせた。二口には河本からの金でそれをすることは出来たのであるがオレが二口との縁が消えることを恐れて強引に説得をした。金利は顧問料だと思え、と。これでオレの貸付金は実際にあることになる。ここらは後々のことを考えて重要であった。オレの方は既に不動産権利書に代わり保証書の手段を以て極度額8千万の根抵当権設定登記を二番として行う準備はしてしまっていた。既に法務局から保証書に対する葉書が二口の方に来ていた。それにハンコを押せば即、根抵当権設定登記はされる。河本の方が気づく時にはもう遅いのだ。
 ノブオとクロは秘かに外で落ち合い、主に土地勘と人間関係についてのやりとりをしていたようであった。クロもクロで口は堅くノブオも口は堅かった。つまりお互いが近いようで遠かったのである。
 ある日クロは昼飯を食いながらオレに苦言を呈してきた。
「南無さん、村埜組って不気味だよね。こちらのヤクザ者とは全然違うので調子が狂っちまうよ。もっともオレはノブオって奴しか顔は分からないが。一切無駄口は叩かない野郎だぜ。冗談言っても笑わない奴って気色悪いよ」
 それだけ村埜組内に於いても箝口令は引かれ隠密理に事が行われているのだと思った。慶伊の絵はもう既に出来ているということも意味していた。はかりごとは慎重に、そして大胆にということになるのだ。
「心配するな、それだけ奴等が真剣だと思えばいいだろう」
「やはり半兵衛達は動くかな」
「番犬は番犬らしく動くさ。そろそろお前も気を張っておいた方がいい」
 たぶん仕掛けに気づいた時には真っ先に半兵衛達がオレ達に暴力的な攻撃をしてくるだろう。少なくともオレは覚悟は出来ていた。その反面慶伊達が暴走しないかと恐れている自分に矛盾を感じていた。どのみち物事はコントロール不能となって大きく流れていく。オレが望むと望まないにかかわらずだ。オレ達を守るという大義名分は何よりも渡世に拘る村埜にとって都合がいいはずだった。逆に言えば大義のためにはオレ達が犠牲になりうることも考慮の内に入れておかなければならなかった。変な話だがオレはその時、オヤジの顔がふと浮かんできたのだった。ペテンと力の世界を一番教えたのはオヤジである。今さらながらにオレは初めて自分の立場に気づき、はっと我にかえった。オレはオレでこのうねりのなかを潰されずに泳ぎ抜かなければ同時にオレも潰されていくかも知れない、と。最後になれば村埜は自分のことしか考えないだろう。オレ達は所詮踏み台だとしか思っていないはずだからだ。生き抜いた者が勝者となるサバイバルがこれから始まるのである。

-襲撃-

 二口の会社敷地には新しい建物が部分完成した。あとは外壁を貼り付けて終了なのだが、仮設として見せかけておく必要があった。万が一にも河本に言い逃れをしておく必要があったからである。またオレにはもう一つ悩みが出てきたのである。うかつであったが不渡り発生日25日が月曜になっていた。つまり23、24と土日にかかり法務局は業務を行っていない。河本もオレも一方より早く登記をしなければならなかった。オレの融資日が25日である事は河本達は心得ていた。融資直前にオレが二口の資産の登記簿謄本をチェックするはずだと河本は思っているはずである。とすればオレのチェック前に根抵当権設定は出来ないことになる。登記作業に入っていれば事件中として登記簿謄本を取ることが出来ない。オレが22日金曜日に登記簿謄本をあげれば25日月曜午前に登記をすることになる。オレはそれを逆算して21日木曜日に登記出来るよう司法書士に全ての書類まわした。オレの河本に対する読みが正しければオレの勝ちになるはずだ。オレは万が一を考えて二口夫婦を木曜の夜から一週間程度、信州の別所温泉へ行かせる段取りにしておいた。事は迅速に進んでいくかのように思えた。
 金曜日の朝もオレとクロは忙しかった。早朝から事務所でスキームの進行をオレは何度もクロと話し合った。また、河本がこちらの謀議に最も早く気づくとすれば今日の午後になるかも知れない、ということも含めて警戒を怠らないようにともオレはクロに言った。しかし心の中では月曜日に事が起きて欲しいとも思っていた。営業は通常通りに行われていてクロの発案による月曜から始めた金利ダウンの「特別週間」は好評であり午前9時過ぎから一般客の応対で事務所内はあわただしく動いていた。貸出額も急激に伸び手元資金はほとんど尽きた。つまりオレの食い扶持分は優に確保されたのである。結局一段落をしたのは夜の8時近くなってからであった。この時オレはまだ河本が金曜の午前に登記申請する事は知らなかった。そして何も不審な電話もなく事務所は静かであった。クロとは夜の9時頃事務所で別れた。
 しばらくしてオレも帰宅の準備に取りかかり事務所を整理してエレベータに乗り階下に向かった。エントランス・ホールの後ろのドアから駐車場へ月明かりの中をオレの車まで歩いた。見慣れない車が入口付近に駐車していて中に潜んでいる幾人かの人影を認めた。心臓がドクンと鼓動しオレの身体が危険を知らせていた。オレの車までの距離はまだ20メートルばかりあった。そしてなんといってもオレは素手であった。運転席のシート下に隠してある鋼管をとるためにオレは車に向かって全速で走った。影達も同時に車外に跳びだし、走り始めた。オレの手がドア・ノブにかかった瞬間第一撃を背中に喰らいオレはよろけながらも振り返りざまにその相手の腹をめがけて全体重をのせ蹴りを入れた。ぐわっ、と押し潰れたような声を上げ相手は後方にのけぞり倒れ、からからと金属バットの転がる音が周りじゅうに響き渡った。他に4人が見受けられた。オレは構わずドアを開け鋼管を握りしめた。オレの立ち上がりざまを狙ってナイフが顔を撫で上げ目尻を切り裂いた。還り刃は防ぐようにして出したオレの左腕を鋭く通過していった。まるで風のような早さであった。と同時にオレの右腕から振り下ろされた鋼管は相手の頭頂部をまともに捉え鈍い音を発してそいつを跪けさせオレは体勢を立て直した。全て押し殺した息づかいの中、無言で闘いは行われた。しかし、生温かい出血で覆われているオレの右目はもはや物が見えなく、左腕からも血が垂れだしていた。そして暗闇の中から新手がまた現れてきて黒い山が動くように一斉にオレに向かって殺到してきた。混乱のなか、男達の押し殺した低い怒号と激しく肉体がぶつかり合う音の中でオレは駐車場の片隅まで身体が吹き飛ばされた。低い悲鳴めいた呻き声と泣き声を耳で感じながらオレの身体は立ち上がろうとして何度ももがき男達の足の間で転がり続けていた。眼球に流れ込んだ血が滲みてきて涙と混じり合い左目も霞んできているなか、畜生めっ!とオレは呻くように叫び暗闇の中で天にこぶしを振り上げた。このようなやられ方か、とオレの頭は怒りの余り破裂しそうにまでなり、血だらけの見えない目で鋼管を探した。やれるだけやったる、オレは口の中で罵り声を上げた。

 やがて辺りから人間の気配は消えていた。耳を澄ましてみたが音もなくなっていた。そして一人の人影がオレに近づいてきた。
「南無さん、しっかりして下さい。立ち上がれますか?」聞いた声のような気がしたがオレの頭はまだ状況を掴みきれず混乱していた。ノブオはオレの身体を抱くようにして立ち上がらせようとした。オレはノブオの手を払い、跪き立ち上がろうとしたが背中の痛みに呻くしかなかった。四つん這いに体を支えながら見上げても片眼ではこの暗さの中で人間は人影としか見え無かった。
「ノブオです。大丈夫ですか」と彼は再びオレに声をかけ顔の間近までにじり寄ってきた。
「ああ、なんとかな、・・・。助かったようだ」
 オレは力が急激に抜けたようにその場に座り込んでノブオを見上げた。ノブオ達は秘かに遠巻きにして監視をしていたのだと気づくまでにそう時間はかからなかった。
「あっ、はつられましたね。これから若い者を付けて医者に連れて行きます。しばらく我慢して下さい」ノブオはオレを抱きかかえ立ち上がらせた。襲撃者の5人の姿はもう見て取れなかった。
「ちょっと待ってくれ、クロが心配だ。あっちにもシキを立てていたのか?」オレの頭はようやく元に戻ってきたようだった。
「いいえ、・・・・」とノブオは一瞬だけではあったが言い澱んだ。オレが不思議そうな視線を投げかけるとそれを打ち消すようにノブオはオレに向かって言った。
「まさか今日とは思わなかったので・・・。すぐに行かせます」ノブオは電話で誰かに指示を飛ばしていた。
「その前にクロの電話を鳴らしてくれないか?」
 ノブオは自分の携帯電話からクロを呼び出した。
「出ないですね。でも心配はしないで下さい。もう動き出しましたから」
 ダラダラ、ダラダラとオレの右目から出血が止まらなく顔中が血だらけとなっていった。ノブオは様々な指示を電話で話し終えると全員を駐車場から撤退させて行ったそして皆その場から消えた。
 オレはノブオの若い者に車に乗せられ高速を猛スピードで運ばれていった。ハンカチで出血部を押さえながらクロのことを思っていた。たぶんクロも襲撃を受けているに違いない。出来れば無事であって欲しいと思ってはみたがオレへの襲撃班を考えると暗澹な気持ちにならざるを得なかった。
 承知の上で慶伊はクロを生け贄としたのかもしれないな、オレは車窓から外の暗闇を見つめながらこれから長くなる夜を思って呟いた。

 森田外科は連絡がしてあったらしく電気がついていた。オヤジの息子との同級生で、オレも過去に縫って貰ったことがある医者である。切られ傷でも秘密が守られるので御用達でもあった。看護婦兼用の夫人と先生だけで処置は30分もかからず終わった。右目尻は危機一髪の位置で切り口が止まっていて3針で済み、左腕は浅く絆創膏程度で終わった。しばらくするとノブオから直接オレに電話が入りクロの無事を知らせてきた。しばらくここで待っているようにと言って一方的に電話が切れた。たいした怪我でなければと祈るしかなかった。
 この時オレへの襲撃をきっかけとして村埜組の全勢力が怒濤の如く富山へ殺到し始めていた。トリッパーのある盛り場桜木町、駅前周辺はもとより半兵衛の主催する「天誅青年塾」事務所、その関係者の十数人の自宅等にも押し寄せ、ことごとくが拉致され富山から連れ去られて行った。天誅青年塾はこのようにして一瞬の内に消滅してしまったのである。そして河本は間隙をぬって網から外へ抜け出していたことをオレはこのあとすぐに知ることとなった。
 しばらくするとクロが運ばれてきた。歩ける様子ではあったが右掌が潰されていた。腫れ上がった顔でオレを見てニヤリと笑い処置室に消えて行った。オレはクロの処置が終わると同時に村埜の若い者に富山の事務所まで連れて行くように言った。若い者は困った顔をしばらくしていたが譲る気のないオレの気迫に押されてか、電話をかける為ドアの向こうに消えた。誰かの了解を求めているようでしばらく姿を見せなかった。つまりオレ達も軟禁状態と同じなのだった。
 やがて若い者は電話を持ってオレ達のいる待合室にやって来た。
「替わって下さい。若頭(かしら)です」
ぶっきらぼうにオレに電話を渡し外へ出て行った。
「慶伊よ、オレ達にも自由が無いのかよ!」
 開口一番オレは慶伊に怒鳴るように言った。
「いや、そうじゃありません。そんなに怒らないで下さいよ。安全を確かめてから戻って頂こうとしているだけです」
 慶伊の声は相も変わらず冷静だった。オレの方こそ助けられたことの礼を言うべきだったと気づき自分を恥じた。
「で、そっちの様子はどうなってるんだ?」
「ほぼ巧くいってます。杉木とは話が通ってますので動きません。ただ河本を取り逃がしました。女は全員確保してはあるのですが」
「そうか、しかしもうヤツは何も出来めぇ」
「万が一ということもあります。全力で今探していますので、しばらくそちらで辛抱出来ませんか?」
「河本が見つからないのであれば、なおのことオレを富山に戻るようにさせてくれ。お前達の邪魔をするつもりはないよ。頼むよ」
 オレは慶伊に懇願するように言った。この時何か予感めいたものが働いたのである。それが何なのかそのとき分からなかった。しばらく慶伊は黙りこくって返事をしなかった。
「頼むよ。そうでなかったらオレは歩いてでも富山に戻る!」
 まるでだだっ子のようだったが、オレにはその時ハッキリと河本の顔が浮かんだのだった。あいつが呼んでいる、と。
「・・・では、若い者に電話を替わって下さい」と慶伊はあきらめたようにオレに言った。
 オレは帰りの車中の中でクロの置かれていた状況を聞いていた。どうやら天誅青年塾の事務所の中でヤキが入っていた最中、村埜組がなだれ込んで来たということだった。半兵衛等は為す術もなく一斉に連れ去られていったらしい。愚連隊と金筋モンでは端から勝負にならないことは明らかであった。

-漆黒-

 富山インターを下りたところでオレの携帯電話がけたたましく鳴り反射的に受話ボタンを押した。
 河本だった。
「南無、いまどこだ?」
 低い声であった。
「ヨンイチ(R41)だ」
「そうか、近いな。お前と差しで話がしたい。会うことが出来るのか?」
 河本の声は落ち着いていた。
「できるよ。どこへ行けばいい?」
 河本はオレに場所を言うと電話を切った。オレはそのまま若い者に行き先を変更させた。
「南無さん、まさか河本じゃないだろうね?」とクロは小さな声でオレの耳元に囁くように言った。
「そうだ、オレと差しで話がしたいと言った」
 オレは暗闇の前方をじっと見ながら気のないように呟いた。河本の感情は読み取ることが出来なかった。
 この二人の争いは結果的には大きなうねりとなって終末を迎えるだろう。そして互いが余りにも大きな犠牲を払っていくことにもなるのだ。まさしく、これは戦争なのだと、オレはその時自分に言い聞かせた。
 二口事件での河本側の損失はたぶん7千万近くになるはずだった。既に存在している不良債権7千万と合わせれば厖大な損失のケツが河本に回るだろう。またそれだけにとどまらず、その他の生きている手形貸付金での資金繰り操作が一挙に悪化し大半の手形は潰れて行くのだ。貧すれば鈍するの例えではないが河本は無間地獄への坂道をまっしぐらに落ちて行こうとしていたのである。
 河本に教えられたようにオレは神通川の袂から下る道を車で進めさせた。河川敷の中に作られている広場の手前で車を降りあとは徒歩で歩き出した。薄明かりの中、川岸の傍らに河本の車を認め近づいた。ドアが開き河本がオレに声をかけた。
「少し歩こうか」
 二人で川岸を歩きながら話をし始めた。
「まだ痛むのか?」と河本はオレの右半分に処置されたサポートを見て言った。
「まぁな」縫われた傷は鎮痛剤のせいで痛みは感じられなかったが、そうオレは答えた。その後お互いに無言であった。オレはタバコに火を付け大きく息を吸った。河本は何か言い出しかねているようにも見えた。オレは足を止め河本の顔を覗き込むように見た。
「南無よ、お前は最初からこうなることを予測していたのか?」
 河本はあてのない視線を彷徨わせながらオレに問うた。オレはしばらく考えて。
「漠然とだよ。ただ、ここまで大事になるとは思わなかった」と正直に答えた。
「そうか、・・・・・それでお前は一体いくらの金を持って富山に出てきたのだ?」
「5千(万)」オレは素っ気なく答えた。
「えっ!お前はそれっぽっちの金でオレに挑んだのか?」
「そうだ」
 しばらく河本はオレの顔をまじまじと見て首を横に数回振った。
「・・・そうか、見事に俺が嵌ったという訳だな。ったく、・・・情けないな、ふふふ」
 河本の顔が歪んで見えた。そして更に問うた。
「ところで、どうしてもお前に聞きたいことがある。お前は俺が憎いと思っていたのか?」
 予想外の問いだった。この場に及んで何を今更言い出すのかと思ったが、よく考えれば奴が今言った言葉はそのままオレ自身の問いでもあるはずなのだ。オレはしばらくオレの心の中の片隅に置き忘れているものを探すような不思議な気持ちになった。
「いや、・・・・。ただ、オレの生きる道を残しておいてくれれば、とは思った。だが、お前はそうしてくれなかった」
 お前さえオレを無視していてくれればこうはならなかったのだ、と。
「そうだな、俺はお前を見くびっていたようだな」
 河本は自分の足元を見るようにして小さな声でぽつりと言った。
「だがな、仕掛けたのはお前が先だって事を忘れるなよ。お前が全て先に手を出したんだよ」
 河本をなじるオレの心の中に言い訳が潜んでいることは明らかであった。なんと言っても罠をかけたのはオレの方に違いないからだ。
「まさしくな、・・・。お前のことなんか放っておけば良かったぜ。お前の仕掛けに俺が乗っちまったという訳か・・・。今更もう遅いがな」
 そして河本はまるで自分自身に言い聞かせるかのように呟いた。
「俺の過信と言うことだな」
 土手の道路には次々と慶伊達の車が集まり始めていた。オレ達は黙ってそれを眺めていた。

 しばらくして河本はおもむろに口を開いた。
「最後の頼みを聞いてくれるか?」
「言ってみろ」
「女房を解放してやってくれ。高田の実家へ帰すつもりだ。出来れば電話であいつの無事を確かめたい」
「それ以外に何か言いたいことがあるか?」
「別に無い。俺のことは、覚悟をしている。好きにしていい」
「わかった。そこのベンチで座っていろ。話してくる」
 オレは土手に向かって歩きながら慶伊に電話をした。オレは河本の身柄の自由も付け加えることを忘れなかった。
「南無さん、女の事はわかりました。しかし、元凶の首は刎ねよ、と親分の命令ですから、いくら南無さんの頼みだとは云え、認める訳にいきません。南無さん、わかって下さい。またそうしなければオレ達はこの稼業で生きていく事が出来ません。河本の身柄は貰います」
 慶伊の堅い意志が伝わってきた。見せしめのためにも河本を殺すつもりでいるのだ。
「そうか、・・・。親分がそう言ったのだな?」無言であった。
 オレは電話を切り、村埜組に電話を入れ大至急親分と話がしたい旨伝え、その場でしばらく待った。土手の上から慶伊がオレの姿をじっと見ていた。1分も経たないうちに村埜から電話が入った。
「いやー、南無さん、大変な目にあったそうだね。ケジメはきっちりつけるで、ははは。なんもアンタは心配する事はないよ」
 勝利を確信した張りのある声だった。オレは村埜に感謝の言葉を述べると共に河本の件を必死に村埜に懇願した。勝敗が決まった以上、河本を助けてやって欲しい、またそうした方が村埜の器量の大きさが世間に伝わるだろう、とも付け加えた。勿論、河本に関しての全責任はオレが持つと言った。答えはあっさりしたものであった。
「承知した。俺は約束を守る男だ。今後のためにもアンタの言葉は受け止めておく」と電話は切れた。
 オレは慶伊の携帯が鳴るのを確かめるようにして河本の方に身を帰して戻り始めた。これで村埜の器量の大きさが富山中に伝わり、強いては恐怖心も取り除かれるだろうと思った。
「どうだった?」河本はベンチから立ち上がり哀願するように言った。オレはベンチに座り河本に落ち着くように言った。
「女房の件は心配するな、今電話がかかるだろう。それと、お前にも自由が約束された。電話が終わったら、女房のところに行ってやれ」
 河本は一瞬ぽかんとした顔でオレを見つめた。その後、自嘲気味の哀しい顔に変容した。
「気をつかってもらったな。ありがとうよ」
 心なしか河本の顔が泣いているようにも思えた。しばらくオレ達は無言のままお互いの顔を見つめ合った。涙が河本の目に見えたような気がしたが、それはオレの錯覚であったかも知れなかった。やがてオレの携帯が鳴った。
「南無だ」
「私は村埜の若い者で板東と申します。今から河本の女と替わりますのでお待ち下さい」と告げた。
「南無さん?」女の声は震えていた。
「そうだ、河本はオレの隣にいる。話し合いは終わり、お前達二人の身の安全は保証されている。今すぐ会えるだろう。河本がお前の身を案じている。電話を替わる」
 オレは河本に電話を渡した。泣き叫ぶような女の声がオレの耳にも届いてきた。女の緊張が一挙に解き放たれた瞬間だった。オレは立ち上がりベンチから遠巻きにして河本を眺めていた。
 やがて電話は終わった。
「ありがとう。女房も落ち着いたようだ。実家の高田で待つように言ったから、これで俺も安心だよ」
「行ってやらないのか?」河本の云っている意味がオレには解りかねた。
「俺にはまだやらなければならない事がある。京都証行の問題がある。で、今から話し合ってくる」
「解決なんかつかないだろうよ」とオレはぶっきらぼうに言った。
「仕方が無い。今更逃げも隠れも出来ないだろうしな。で話の次第じゃ京都まで行く事になるかも知れない。ついでと言ったらお前に悪いのだがこの封筒を預かっていてくれないか。富山へ戻ったら俺に返してくれ」
河本はオレにセロテープで封をした茶封筒を内ポケットから取り出した。
「わかった」とオレは受け取りスーツの内ポケットに収めた。オレは電話で慶伊に河本が帰るから封鎖を解くようにと言った。
河本の車はゆっくりと堤防に上がり、やがて尾灯が小さくなっていった。
これで終わったという安堵感からか慶伊への礼もそこそこに、全て明日の打ち合わせに繰り越す事にした。そして事務所へ戻りそのまま眠りに落ちた。
翌、早朝にオレは河本の死を知った。

-エピローグ-

 午前6時前に事務所のチャイムのけたたましい音でオレは起こされた。ドアを開けると同時にオレを押しのけるように10数名の男達が一斉に入り込んできた。立ったままオレは男達にぐるりを囲まれた。そのうちの一人がオレに向かって言った。
「生活保安課の小佐田だ、南無だな?」
「そうだ」
「これがガサ令状だ。白菊クレジット、コト河本保夫の利息制限法違反容疑について少し事情を聞かせて貰うぞ。一緒に来てくれ」
「わかりました。顔を洗ってきます。しばらくそこで待ってて下さい」
 机や書棚金庫類も全て開放させされ捜索が始まった。どうせ何も出てこないのだ。この時もオレはまだ河本が死んだ事は知らなかった。ただ昨晩の騒動は警察の知ることとなったことは明白であり、オレにとっても予測の範囲で覚悟はしていた。当然、クロも一緒の状況であり、村埜組には「一斉」が行われているだろうと思った。洗面所で鏡を見るとオレの顔は悲惨な様相になっていた。切られたところは別としても顔中青痣だらけで所々腫れ上がっていた。オレは取り敢えず鎮痛剤を飲み、立ち会い人署名を済ませ小佐田と所轄へ向かった。
 調べ室で小佐田は開口一番オレに向かって言った。
「さてと、南無、ゆっくりと話そうじゃないか。おめえは単なる参考人でしかない。だから俺もその辺は融通が利くつもりだ。少しは協力って事を考えてくれ、・・・な?」
「ええ、ただ突然なので事情がわかりません。わかるように御説明下さい」
 所詮警察はどうでもいいような「別件」で色々アラ探しをしているに過ぎないのだ。
「最初から期待を裏切るような科白を吐くんじゃねぇよ!大体だな、おめぇのその顔はなんだってんだよっ!ふざけた事言うんじゃねぇ!」小佐田は指でオレの顔の腫れている部分を突いた。
「あ、これですか、通りがかりに、つまらん連中にやられたんですよ。真っ暗でさっぱり誰かもわかりません。オレも少し酔ってたんでね、なにか絡んだのかもしれません。全く物騒な話です」オレはこれで最後まで押し通してしまうつもりだった。
「けっ!よくもそんな事が言えるぜ。おめぇと河本の間にはどんな問題があったのだ?」
「ここ最近会った事もないのでね、奴が何をしていたかなんて知っている訳もありませんよ」オレも小佐田に対応するかのようにぶっきらぼうに答えた。これもお互い想定した範囲の内であり、期待も協力もあったものではないのだ。儀式というものは所詮はこのようなものでしかない。
「今日午前、北陸高速道で河本は死んだよ」
 小佐田は突然言うとニヤリとしながらオレの顔を窺った。
「・・・・・」
 オレは思わずあっと声を上げそうになったがぐっと堪えた。事故なのか、それとも・・・・。オレの気持ちはたちまち現実に引き戻され始めた。考えてみればあり得る事であった。立場が逆であれば似たような事は自分の身にもふりかかる事かも知れないのだ。
「どうやら死んだ事は知らなかったようだな」
小佐田はボールペンで机をとんとんとやりながらオレの返事を待った。
「そうですか、それはお気の毒な事をしましたね。それとこれと関係ないように思えますがね。私自身は何ら河本と仕事上の事には関わりもありませんしね。まして利息制限法っていってもね。全く身に覚えもありません」
 オレは暗澹とした気持ちに落ち込み始め、なにか目の前にいる小佐田の存在に無性にハラが立ち始めた。出来るならすぐにもこの場を離れたかった。死ぬまでの事は無いじゃねえか、と。残されたオレは一体どうなるんだよ、河本。あとは村埜組の事も聞かれたが全ては上の空であった。もう小佐田とのやりとりもオレにとってはどうでもいい事にしか過ぎなかった。
「この調子じゃ、おめぇは喋る気が全くないらしいな。ま、いいや、どのみちオメェにはまたここに来て貰うつもりだがな。その時は最後まで行って貰うぜ。ふん!全くの外道が」小佐田はオレを見て取ったか次第にやる気をなくしてきたような顔を見せ始めた。そして小佐田はあっさりと引き下がった。まさしく今度はここに来るような事が有れば帰る事は出来ないだろうな、と思った。
 警察署の玄関を出たところでクロが待っていた。どうやらヤツもオレと似たような結果らしかった。
 二人で駅前まで無言でぶらぶら歩いて朝の定食屋へ入った。昨晩から何も喰っていなかったので取り敢えずの朝飯をとる事にした。二人の絆創膏や包帯だらけの風体に出勤前のサラリーマン達の視線が集中したが構わず黙々と飯を食った。タフでないとこれからを乗り切る事は出来ないからだ。
 食堂の暖簾を出ると既に陽が高く昇っていてオレとクロをまぶしく迎えた。たった八時間の内に河本は暗闇の中で激突し弾け跳んだ。そしてオレは今、駅前大通りの歩道で佇み、眩しい日差しを見上げているのだ。
 オレはスーツの内ポケットをまさぐり河本が預けていった茶封筒を開封した。河本がオレに預けていったものは女房を受取人とした「生命保険証券」であった。オレは河本の女房の顔を思うと憂鬱な思いで一杯になった。最後まで世話を焼かせやがって、因果な稼業だな、とオレは一人で自分を呪うように呟いた。
 オレとクロは頭を項垂れながら似つかわしくもない日差しの中をトボトボと歩き出した。

享年41歳 合掌