2004年11月20日土曜日

お迎え

 中野の御老体は部屋ではナカジイと呼ばれていた。年を偽っていたかも知れないが自称69歳の懲役太郎である。たぶんいつになっても69歳なのだろう。歯がほとんど見あたらなく、口のまわりは皺だらけになっていて痩せてみすぼらしい姿であった。身の上話はほとんど口から出てこなかった。家庭を持った事がある、と一度だけオレに遠目で言った。若い時はそれなりのサッシ職人であったらしい。その腕で泥棒行脚をして暮らしていた。年老いてからはそれも叶わず無銭飲食の常習となってここに入ってきているのだった。そして単純窃盗の累犯は早めに判決がおり拘置所から刑務所に移監される。たとえ蕎麦とおにぎりで720円であってもだ。
 オレは完黙に近い不埒な振る舞いをしている為、弁護士以外の接見が禁止されている身分だった。検事に逆らっているオレが読む事の出来る本はつまらないものばかりであった。備え付けのアレである。その中でナカジイは仏典を見つけて、なにかと言えばお釈迦様の事を教えてくれ、と言った。オレは人に教えれるほど深く読んでいるわけでもないから教えれないと言った。が、ナカジイは老眼の為読めなかった。仕方なくオレは彼に2、30分程度なら勉強がてら、つき合っても良いと言った。部屋長はそんなジジイの言う事なんか放っておけ、と言ったが退屈しのぎだからと、了解を取った。また了解を取らないと部屋の他の連中と揉め、喧嘩になる場合があるからだ。まして、仏典ともなると大きな顰蹙をかう事は目に見えていた。ケダモノにお経かいっ!けっ!て言う者もいたがオレは無視した。土地柄、「アレ本」は真宗聖典である。幼い頃お寺で育っていたオレにとってはなじみ深いものであった。しかしながら、蓮如上人の御文は勘弁してくれと言った。オレにとっては子供の頃を思い起こし過ぎるからだ。また獣が読んで、どうなるものか、と言う気持ちもあった。それで「観無量寿経」となった。物語性がある故オレの頭でも語り易いと踏んだからだ。3日ぐらい過ぎた時にナカジイはオレに問うた。
「下品下生でも極楽に往けるんか?」と。オレはたぶん質問として出るだろうと思い、往けると書いてある、と答えた。
「ただし、罪が深いほど念仏を唱えないと極楽からのお迎えも来ない」とオレは勝手に付け加えた。来るわけがない、とオレは心に思っていたからだ。お経も読めないジジイが今更何を言いだしやがる、とも。
 翌週ナカジイに720円の判決が下った。常習で改悛の情が見られないと云う事で2年8月の刑であった。
 移室のときナカジイはオレに「いい事聞かせて貰ったよ。これでオラも安心だ。な む あ み だ ぶ つ」と頭を下げた。
部屋のみんなは笑い転げていたが「元気で長生きするんだぞ」とオレはひと言声をかけてやった。そして移監されて行った。
 その秋、ナカジイは金沢刑務所の霊安室に入った。
享年 74歳

2004年11月15日月曜日

背負う闇

 朝の六時過ぎでは窓から見える通りもまだ車が少なかった。まさしくひさしぶりであった。三階の取調室で容疑がわからずオレの頭はしきりに回転していた。
「南無、ひさしぶりだの」飯田は相変わらずの不遜な物言いでオレの前に立っていた。
「と、言われてもですね、もう七年です。さっさとやって下さいな」オレの言うことなど聞く耳もなく黙って飯田は部屋から出て行った。

 犬が激しく吠える声でオレは目覚めた。小さな庭に面している寝室の長戸の向こうに人の気配がした。障子を開けると人相の悪そうな男達が立っていた。長戸を明けさせられ犬走りに靴を脱ぎながら男達は入ってきた。
「南無だな、県警だよ。悪いが着替えてくれないか?」責任者らしい男がオレに言った。
「任意ですかね?」
「どちらでもいいよ。あっ、それからこれがガサ状だ」商業登記法違反云々という文字が一瞬だけ垣間見れた。
「洗面道具持って行ったほうがいいですかね?」オレは泊まりになるか聞いてみた。
「あぁ、そうしろ」相手はぶっきらぼうに応えた。
 オレは布団をたたみ、押入に入れ、洗面所へ向かった。歯を磨き顔を洗いながら、思い当たる節を考えてみた。でもそんなにたいした事は無かった。
やがて、二階から妻が高二の長女と不安そうな表情を見せて階下へ降りてきた。
「どうしたの?」と妻はオレに聞いた。
「判らぬ。ちょっと行ってくるよ」
 中に入った連中の一人によって玄関の鍵が開けられると外に更に数人が立っていて、一斉に家になだれ込んだ。
「あっ、奥さんですね。県警の森田と云います。今から令状に基づいて捜索をさせていただきます。立ち会って下さい」
「・・・・」妻は黙って彼と一緒に居間の方へ行きなにか説明を受けているようだった。
「さぁ、行こうか」と年配の刑事がオレの手を取った。オレは長女の顔に視線を一瞬投げかけた。怒りと蔑みの目でオレをじっと見て唇を噛みしめていた。前の時は小学生だった。今はもう意味は分かる。玄関で靴を履き、オレは長女に振り返りざま言った。
「お母さんを頼む」
 返事はなく目から涙があふれていた。

 しばらくすると何人かが別の取調室に入れられていく音が耳に入ってきた。午前中、オレへの取り調べは何も行われなく、拘束の宣言もなく部屋で放置のままであった。時々若い刑事が入れ替わり立ち替わりやって来てオレの顔を見るとニヤリとしてドアを閉めて行った。先程の年配の刑事がやってきて出前の親子どんぶりを部屋の机の上に置いていった。
「なんなんですかね?」とオレはその刑事に聞いてみた。
「たいしたことではないのだよ。そこで飯でも食ってろ、気にするな」
 当時、妻は二カ所でパートをやり、オレは友人の小売り販売の手伝いをしながら生計をやっと立てていた。時々は昔の連中から呼び出され片手間仕事もしたが、法に触れることは一切やっていなかった。嫌な奴からの依頼仕事はキッパリと断ってもいて逆に恨まれたこともあったが貧乏ながら平和な暮らしだった。
 夕方の五時半頃、暴力犯(マル暴)の飯田が取調室に戻ってきた。中学時代からの一級先輩でねちっこく蛇みたいな野郎だった。
「南無よ、ちょっと協力してくれねぇかな。どうも、うまくいかねぇ。腹までくだってきて、神経やられたぜ」腹をしきりにさすりながら陰険な顔つきでオレを見た。
「協力も、何も、容疑がなにかも聞かされておりません。商業登記法違反のガサ状だけしか見てません。ですから、見当もつきませんよ」
「ふふふ、そんなことはどうでもいいんだよ。なぁ、南無よ、こそこそいろんな事やってるらしいじゃねぇか。ええっ?今後も見ぬふりしてやるから、ちょぴっと歌えや、なっ?」
「係長さん、あなた、暴力犯でしょう。私なんか、関係あるんですかね?あなたから言われるようなことなんか何もやってませんよ」
 とどのつまり、飯田の話はこうだった。高級車を乗り回し毎晩のように夜の桜木町を徘徊しているくらい南無は金回りがいい、と。オレには錆びつき、トランクに穴の空いたポンコツ車しかなかったのだ。どこでそのような話を吹き込まれているのかは想像ができた。高森の仕事依頼を断ったからだ。ひとでなし犯罪の加担はオレに曲がりなりにもある「ルール」から外れることになる。そういう連中はオレを平気で裏切る、そしてサツにこのように売り飛ばすのだ。いざとなったら、オレの家の郵便箱に馬鹿チャカでもガンコロでも入れてサツに通報する最低の愚連隊共なのだ。飯田は奴等から情報と金で貢がれていることはオレも知っていた。温泉、ゴルフ接待、海外旅行なんか序の口であった。どこにでもいる腐ったお役人の一人だった。
「これだけ被害調書がある。全部で四件だ。どうするんだよ、南無。ベントウとれたからって言ってもなぁ、また入れられていいんかよっ、なぁ、・・・、二人の娘がまた泣くぞ。ふふふ・・・」飯田は被害調書の束を手に取り頭上でひらひらさせた。
 どうせ公判請求まで保っていけない容疑に決まっている。被害者なんか全部犯罪者か詐欺師共だ。相変わらず品性の無い先輩だぜ、とオレは黙っていた。
「てっとりばやく言うがな、32丁だよ。えっ、なんか聞いてるんだろう?」
 テッポウなんて意外だった。そんな事柄でオレを引っ張ったのか、と思うと愕然とした。ヤクザでもないオレがそんなことに関わるわけもないことだからだ。
「いわれた意味が分かりません。チャカなんかオレとどう関係あるんですか?まったく聞いたことも見たこともありませんよ。もし飯田さんが本気で言ってるんなら、アンタの頭はイカレだよ。煮るなり焼くなり、どうでもしてくれよ」オレは足を出したのである。この糞ったれの悪徳警官めがっ!おめぇこそ檻の中に入ってろっ!と。
「けっ!あほんだらっ!いっちょ前に開き直るんじゃねぇよ!俺はおめの損得考えて言ってやってんだぜ」飯田の頬は引きつっていた。
「言いたい事がわからないから言ってるんですよ。アンタのやってる事はデタラメじゃないですか。私がどうしてガサなんか食うんですか?その32丁が出てくるとでも本気で思ってるんですか?私こそアホらしくてアンタについて行けませんよ」
 飯田は座りなおして調書を広げた。
「まぁ、聞けよ。これによるとだな、昔おめえが持っていた株式会社弥生物産を山川の外道に売ってるな。聞いたところ株主総会も取締役会も”正規”に開かれずに株式の譲渡を行っている。こりゃぁ、公正証書原本不実記載って言ってな立派な違法行為だぜ。な、他の役員からの被害届が俺の方に来てな、おめぇに出向いて貰ったわけだよ。なっ、わかるだろう」
 取締役の内、カタギはオレしかいない幽霊会社の事だった。それをオレは山川組の若頭村埜にうまいこと言って実費プラスアルファで売り飛ばしたのであった。時は「暴力団新法」成立直前の頃であった。インチキ会社だろうが真性会社だろうが法は平等なのである。つまるところ、こんな事は日本中、日常茶飯事で行われている事に過ぎない。これで起訴をしたら全国数十万人経営者を起訴しなければならないからだ。父ちゃん母ちゃんで出来てる同族会社の取締役会なんか開かれるはずも無い。飯田は愚かなことだが自分の飼い犬である高森の口車にのり、ひたすらチャカを狙って一斉取り締まりを各所轄を動員して行ったのである。もっとも飼い犬は飯田の方であった。
「ああ、それだったらアンタが今すぐ調書に書いて下さいな。速攻で加害者としてハンコだろうが指印だろうが押しまっさ。さっさと送検すればよろしいがな。被害者が元ヤクザと現役ヤクザで加害者がカタギってきっと笑い話になるぜ」
「おめぇ、俺を怒らせようとしたって無理だぜ。それが手始めで、後はお楽しみって奴だよ。順番に”送る”って手もあるんだ。蒸し殺されるなんてあんまり気持ちがいい事ではないだろうが?おめぇなんか嬲り殺しったって、どうってことなんかないんだよ。だからな、教えろって言ってんだよ」
 飯田はなにかテッポウに対してのネタらしきものを持っているような素振りだったが、オレの家に金属探知器を持ってガサ入れする事自体が高森の詐欺師にだまされている証拠としてしか見えなかった。早朝に調べ室が満員になったと云う事はオレ以外の人種はほとんどヤクザもんを引っ張っていると想像が出来た。そして、その目論見はもうハズレという答えが出ているのだ。つまり飯田には確証がないのだ。ヤマカン手入れが笑うぜっ、とオレは秘かにほくそ笑んだ。
「飯田さん、早くして下さいよ。今できないんだったら、明日から通いにして下さいな。それに、どうせ並びの部屋(調べ室)なんて全部ヤクザもんでしょう。オレと一緒にしないで下さいよ。弥生物産の役員なんてしょせん名義借りですからね、高森がどんな事アンタに吹き込んだか知りませんけどね。送検すればいい事じゃないですか」糞ッタレのおめぇなんかケッ!だよ。万一送検したところで”猶予処分”にしかできない事はわかっていた。次々と三下ヤッコを引っ張り恫喝を加え「犬」として消耗品のようにこき使うやり方で飯田の成績は成り立っているのだ。ここで芋引くと一生奴から離れられなくなってしまう。たとえ20日間”蒸され”ても犬になるよりマシなのは自明の事であった。奴があきらめるまでのらりくらり、と。
「あのな、南無よ。俺はなおめぇみたいなきれい事を並べる小狡い奴が一番嫌いなんだよ。泊まってって貰うぜ」と吐き捨てるように云って飯田は席を立った。腹を押さえて出ていったところを見ると本当に神経性下痢症状に見舞われているようだった。耳を澄ませてると隣の部屋で大声を上げてやり合っている村埜の声が聞こえてきた。やはり山川組の幹部が一斉に連行された模様だと思った。
 しばらくして家に迎えに来ていた年配のデカ長がやってきた。
「南無、もう帰っていいぞ。今回はお前の踏んだ通り、空振りだ。今から村埜に言ってくるから一緒に帰れ」
「係長が泊まれって言ったんですけど」
「ははは、大将は便所から出れないよ。なにしろ、80人動員してチャリンともしなかったんでな。大将は下痢しながら、頭抱え込んでるよ。南無よ、すまんかったな。奥さんにはもう伝えてあるよ、早く帰ってやれよ」デカ長は今回の事には批判的なようであった。時計は7時半を指していた。まもなく山川組の村埜が顔を真っ赤にしながら俺の調べ室に入って来た。
「いやぁ!南無さん。すまなかったな。こんな事に巻き込んで、謝るよ。下に迎えが来てるんでな家まで送るわ。本当に申し訳ない事したよ」村埜は俺に頭を下げた。デカ長が入って来てオレが持ってきた洗面道具を返した。
「なんだよ、南無さん泊まる準備してたんかよ。飯田の糞なんかほっとけばいいんだよっ!けっ!」
 正面玄関に寄せられたベンツにオレは村埜と乗り込んだ。
「内通者がいるらしいな?」オレは運転者に聞こえないように小声で村埜の耳に呟いた。
「ああ、もう誰かもわかっている。無関係のアンタにまで迷惑かけちまって、悪かったよ。この始末はきっちり付けるよ・・・」村埜の顔は怒りで炎のように燃え上がっていた。
 家に戻るとテーブルの上に冷たくなった食事の用意がしてあった。二階からは誰も下りては来なかった。

2004年11月7日日曜日

喰らう男

 汽車で上がり、野暮用が終わったオレは心斎橋筋の一角でいつも立ち寄る小料理屋のカウンターに座っていた。同郷の女将がオレに良くしてくれるからである。大きな水槽が正面壁面に置かれ、なじみのある魚たちが泳いでいて、客の注文に応じて捌いてくれる品のいい店であった。客層も良く、それなりに繁盛している店で奥にあるコアガリは既に満席のようであった。ここでじっくり飲み、あとはホテルで寝ればそれで満足のはずであった。
内ポケットで携帯電話が振るえた。村埜だった。
「南無さん!おめぇんとこのオヤジさんに聞いたよ。大阪来てんだって?」
「来てるっ、て、言ったって、明日そっちへ戻りますよ」
「いや、な、ワシもここに居てんや。どっちにいるんや?」
「ミナミに居ます」
「というと、あそこかぁ?」
元々この店は村埜に連れてこられたのが縁なのである。
「組用が終わったし、ワシもそっち行くわなぁ。むしゃくしゃしてるさかい、アンタと飲もうという訳や」オレの返事も何も聞かないうち電話が切れた。
 村埜の組本部はキタにあった。彼はその枝の組で若頭を務めていた。若衆が50人ほど居てオレの地元ではそれなりに強大であった。オレにとってはそれなりにお目こぼしもあった。助けられたことも数度ばかり有り村埜には義理もあった。気がいい奴ではあったが、跳ぶのも早かった。
しばらくして村埜は女将に挨拶をしながらオレの横に座った。
「栄田のジイサンとこ行ってたらしいな。元気にしてかい?」
「ええ、お元気でお過ごしのようでした」
栄田とはオヤジの昔の兄弟分であった。短期間の治療入院をして、その退院祝いに少しばかりの心付けと海のものを手みやげに「祝いの口上」を代理としてのべに行ってきたのだった。二人とも今は引退していて、温泉巡りとかを楽しみにつるむ、いわば刺青のはいった老人会のメンバーである。
「今回は長いのですか?」とオレは村埜の顔を見た。相当苛ついている顔であった。
「うーん、わからん。ワシも早う帰りたいんやけどな。阿保でうるさい奴ばかりいてな、なかなか前へ進みよらん」
何かもめ事があったらしく本部で話し合いが行われている、と云うことだろうとオレは思った。会議は踊る、となっているようだ。もっともオレにとってはそのようなことは何ら関係のない世界である。オレは村埜にビールをついだ。ゴクリと大きな音を立てながら一気にそれを飲み干し溜息をついた。どうやらオレは奴の愚痴を聞く夜となったようである。
「ワシもデリケートやさかいに、ホンマ、疲れる。ワシんとこのあほんだらが一人ヘタ打ちしよってな、ここに呼び出され、カシラ(若頭)としてワシがよってたかっていじめられてるって訳だ。ちゃんと謝ってんのにのぅ、腹立つわ」
エンコ(指)落として、つかない話しは責任者にもエンコ落としが行われることもあるようだが、村埜はそのタイプではなかった。反抗的な村埜の態度に古参連中の横やりが入り、若いモンの指は相手に受け取って貰えなかったらしい。内輪もめとはどの世界でもあるようではある。
「なんやら、きょうはビールもまずう感じるわ。あの連中の顔思い出したら気持ち悪うなってきた。ったく、イジメやないかっ。ワシの答えはもうその場で出したる、がな。連中!腰抜かしよった」村埜は本当に気分が悪くなってきたらしく顔も青ざめていた。
「村埜さん、だいじょうぶなんか?顔色が悪いぜ」オレも気になり声をかけた。その言葉も終わらない内に村埜は席を立ち上がった。
「おぅ、うーむっ!うぇーっ!もう、あかんっ!」とカウンターにそのまま反吐を噴水のように吹き上げた。女将もそれに気づき大慌てで仲居を呼び、彼女自身が駆け寄り村埜の肩に手をかけた。濡れたタオルで女将は村埜の額や口の周りを優しく拭いて、吐瀉物を仲居と共に拭き除こうとした。
「ちょっと!待ったれっ、ちょっとだけ待つんやっ!」と村埜は声を荒げて女将に言って彼女の身体を押しのけた。
「かんにんやで、あっち向いてんか、すぐ終わるさかいに」
村埜はカウンター一面にひろがった自分の吐瀉物の中に手を突っ込み汚物の中をまさぐり始めた。ちょっとだけや、と呟くように言って手を動かし、やがて反吐にまみれた一切れの人間の指を取り出した。村埜は薄笑いを浮かべながらその指を眺め、やがてそれは再び彼の口の中に消えた。
村埜は自分の若衆の指を受け取らない相手に対し突っ返されたその指を喰らい席を蹴ってきたのである。

2004年11月6日土曜日

鳳凰

 早朝オヤジから電話が入った。
「今から出れるか?和泉が死んだ。おめぇが確認してこい」
かすれて低く沈んだ声が受話器から聞こえた。時間を見ると5時10分だった。
 夜が白々と明けてきていた。オレは既に起きていたので急いで熱いシャワーを浴びてスーツに着替えた。コーヒー・カップを空にしてから車を走らせ向かった。少し飛ばしたせいか30分程で霊園に着いてしまった。私服、制服、数人と医師らしきものが一人、大きな桜の木の下で作業をしていた。それ以外この時間に霊園に来る者は居ない。
 顔見知りの刑事が車を降りたオレに向かってゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「ハタさん、ご苦労様です」
オレはこの元マル暴上がりの刑事に挨拶をした。宿直担当なのだ。
「南無よ、確認だけしてくれ」とオレを桜の木の下まで案内した。
妙に顔が歪んでいて別人のように見えたが、和泉に間違いはなかった。首のロープはもう外されていてその跡だけが内出血で赤くなっていた。二日前に話しをしたのが最後であった。オレはまわりをぐるりと見渡してみた。無数の墓石群が奥の方に見えた。反対側を見下ろすと鉛色の日本海がすぐ近くにまで拡がっていた。吊れるような木は霊園入り口にあるこの木だけしかなかった。
「原因について思い当たることがあるか?」と横畑はオレの顔を覗き込むように聞いた。あいかわらず嫌な顔だ。
「いや、突然で驚いています」
オレは白と言ったがオレがハジイタのか、という想念にしがみつかれた。
しばらくすると横畑はオレに顔を貸せといって警察車両の中に引きずり込んだ。
「もう一度聞く、原因は何だ?」
顔は完全に不機嫌さを見せていた。
「私には思い当たる節はありません。それにそんなに深くつき合ってたわけでもないですからね。特に私生活と仕事とは別ですから。仕事上のことはある程度知ってますが、その中では原因はありません」とオレは冷静に答えたつもりで言い放った。
「そうか、わしらもクズの自殺に面倒な”ウラ”なんかとりたくないからな、まったく迷惑な野郎だぜ。ところで、知恵はあるか?」
今度はニヤニヤしながらオレに話しを振った。横畑は面倒なことが嫌いだった。オレもそう願いたい。
「和泉は糖尿病持ちで血圧も高く、相当調子が悪く悩んでいたようです。栗田先生のところへ月に2回通院していましたからね。先生にウラをとれば分かることです。」と答えを出した。
「そうかっ、おめぇはさすがだな。病気を苦に自殺、だな。ふふふ」
調書がもう仕上がっているようであった。しばらくオレの顔を見ながら何か考えているらしく俺の目を離すことはしなかった。そして、おもむろにポケットに手を突っ込むと白い紙片をオレに渡した。
「こんなものがあると面倒なのでな、おめぇにやるよ。ついでにいっておくがなぁ、今、柴田はウチの玉になってるよ。余罪が多くてな。保護しているようなもんだけどな。懲役のほうが安全だってな。まっ、おめぇんとこには関係ないか」と言って顎をしゃくっって見せた。くずが屑に殺されたと、今更言われなくても判っていた。オレはその足でオヤジの自宅へ向かった。紙片は読まなかった。

 二日前オヤジが和泉と話しをしてこいと言った。和泉がやってる博打銭専門の金融にどうやら穴が空いたようであった。パチンコ、麻雀、競輪、競馬、カルタまで何でも有りの堅気向けの貸し付けをやっていた。
 和泉は帳面をオレに見せ一通りの説明をしたあと、オレに土下座をした。U首のシャツから胸割りの霊鳥が見えていた。
「和泉さん、相手が違うだろう。オヤジに謝るべきだろう。勘違いするな。オレはアンタを責めないよ」
 オレは和泉の体を上げさせようとしたが後ずさりして頭を上げようとしなかった。
「南無よ、オレは嵌められたんだよ。この、シャク(借用書)の半分が柴田の仕組んだ人間達だった。そんなもん見抜けなく、なまくら起こした俺のせいなんだよ。全部俺のミスなんだよ」と顔を真っ赤にして俺に訴えるのだった。
 柴田はもう既に詐欺で横畑に捕まっていた。常習だから懲役に行くだろう。住民票や印鑑証明の”飛ばし”専門のケチクサイ詐欺師だった。確かに和泉のミスに違いなかった。オレの腹は決まっていた。印証があればその数だけ、債務者本人と違ってもオレは全額上げる気でいた。多少は揉めるだろうがそのためにオヤジはオレに任せたのだろう。しかし、オレにはまだ聞くことがあった。
「和泉さん、柴田から何を貰ったんだ?バックか(謝礼)?酒か?それとも女って云うんじゃネェだろうな?」
若い女が居ることは薄々オレも知っていた。和泉はもう60を過ぎたはずだから”孫”のようなもんだ。あとで判ったが17歳のイカレポンチであった。
「女を紹介された。スマン」和泉はうなだれた。
「そうか、オヤジより女の目方が重かったのか・・・。オレはオヤジを説得するから心配するな。とにかく、女は帰せ」
 オレは決がでるまで”謹慎”するように言ってその場を去った。
 表に出ると道路の向かい側にその女が立っていた。どうやらオレを待っているようだった。
確かに化粧をしているが顔はガキだった。
「あの人どうかしたの?泣いてばかりいるよ」とオレを問いつめるかのような言いぐさだった。
「和泉はおめぇのなになんだ?」
「あはは、男に決まってるじゃ!」
「和泉は謹慎になった。明日まで待ってやる、家へ帰れ」
「アンタに云われる筋合いじゃないよっ!私はね、和泉の女なんだからね。アンタこそ、もう、ここへ来るなっ!」
「そうかい、そうかい、一人前のオメコをしてるってわけだな。明日居たらオレの女になるんだな」
オレはこれからのことを考えると憂鬱になってしまっていた。

 オヤジは待っていた。
「間違いなく和泉でした」とオレは一言だけ言ってその後黙ってオヤジの言葉を待った。
オヤジの顔からは何も読み取ることは出来なかったが、その場はこの世のものとは思えないほど静謐さに包まれていた。オレはその雰囲気にたまらなくなり、スーツのポケットから横畑に貰った紙片を取り出し二つ折りにしてテーブルの上に差し出した。
「なにか?」オヤジはその紙片を取り上げてオレの顔を見た。
「まだ見ていません」と答えた。
オヤジはその中身を読み始めたようだった。何度も何度も頷いていた。顔は笑っていたが涙が頬に落ちてくるのが見えた。オレは顔を見ないように庭を眺めていた。
紙べらは鉛筆書きであった。漢字が使えなく、無教養でへたな字そのものでこう書いてあった。

  おやじさんゆるしてください。さきにてんごくでまってます。

 そしてオヤジはオレに言った。
「オレ達の行くところは天国じゃねぇよ、なぁ、南無。アイツは最後までトンチキな奴だったなぁ」と。

 葬儀は極楽に行くため和泉の宗門である浄土宗で行われ、オレ達が仕切り息子夫婦が喪主となった。親戚中のハナツマミモンだったので、あとはほとんどオレ達で占められた。寺の前で若い女が焼香をさせろと暴れていてオヤジのテカに止められていた。顔を見るとイカレポンチだった。和泉は最後にあたって、女を追い出すため殴ったらしく、目のまわりはパンダのようになって腫れていた。喪服ではなかったが焼香順最後で許してやった。その後どうしているのか知らない。
1ヶ月後息子から電話が入り、生命保険が下りたので迷惑かけているお金を払います、と言ったがオレの集金は既に終わっていた。
いらない、とオレは返事をした。
享年 61歳

2004年11月2日火曜日

裏切り

 追撃は執拗を極め、オレ達の立ち寄り先と思われそうな所は全て”封鎖”状態だった。二人とも家やアパートにも近づく事が出来ず、富山を離れ、ここ金沢のおんぼろホテルで潜伏するしかなかった。
もう既に5日経ってしまっていて移動しないと発見されるのも時間の問題だった。完全にシマうちから脱出しない限り安全は保証されないからだ。金はさいわいあったが、元々はこの金が原因だった。融手を持ちかけてその内の一枚をキムはオレとルーに内緒で抜いてしまっていたのだ。そして街金へかってに沈めてしまった。
 依頼者の道理を越えてしまった我々に言い訳が通るはずもなかった。そして肝心のキムはオレとルーを巧く騙し、ハシタ金を押しつけて東京へ遁走してしまった。こうなると打つ手はもう無い。糞ガネはやがて尽きる。
 ルーは部屋の中を熊のようにぐるぐると回っているか、酒を飲んでいるか、それ以外は床でごろりと寝ていた。この狭い檻の中で互いの体臭にまみれながら苛立っていた。
「南無、どうしたらいい?」
今日だけで数回オレに向かって吐いていてオレを苛つかせていた。
「今考えているところだよ。おめぇは何回オレに聞いてるんだよ。黙っていろっ!」
「考えるだって!もう何日経っていると思うんでぇ?おめぇ、よくそんなこといえるなぁ、あほんだらっ!」
 ルーはキムに騙された事とこれから先の予想される事で極限まで感情が高ぶってしまっていた。澱みきった部屋の重い空気に浸かりながら、負け犬となってしまったことの感情が憎悪に変質するのだ。騙しの仕事につるみ、騙されるという最低の結果は二人にとってはいかんともし難い状況に追い込んでしまっていた。ルーだけではなくオレも頭の奥底から敵意が充ち満ちてくるのが感じられた。
「ルーよ、オレと仲間割れでもするっていうのかよっ!それともオレを棄ててキムの後でも追いかけるんかっ!ふんっ。オレはどっちでもいいぜ」とオレはルーの目の前に顔を押しつけるように言った。ルーとオレは獣のように睨み合ったままつかみ合い寸前の状態だった。
 元はと云えば”依頼筋”についての窓口を全てキムに任せた事がオレ達の失敗だった。あんな野郎を信じたばっかりにドツボに嵌ってしまったのだった。今更ここに至ってはキムだけのせいにする事が通るわけもない。手形のパクリは居直ってこそスレスレでくぐり抜ける事が可能だが、逃亡すると最悪の状態が待ち受けている。依頼者からはヤクザ達が、もう一方の融手先からは警察が、と、オレ達を追い始めていた。キムの抜いた額面は予想を超えて大きかったからだ。オレはなんとしてでもキムを富山へ戻し、オレ達二人の安全の確保をしたかった。なぜなら、パクリの実行はキムだけの芸で行ったからだ。当の本人がいない限りこの事実は証明出来ない。しかしそういう考えはあまりにも現実的ではなかった。火事場に飛び込んで来る者なんかいるわけがないからだ。オレ達は棄てられたのだ。
置いてきぼりを食ったオレ達はお互いがお互いから離れたくなる心理状態にまで追い込まれていた。この後どうなるかはお互いが知っていた。どちらから口火を切るかでしかなかった。そしてそれを言葉にする事はある意味では”裏切り”を意味する事にもなるからだ。オレは心の中でこちらから言わないと決めていた。朝鮮人特有の短気さでルーの方から切り出してくるのは眼に見えていたからだ。日本人であるオレはねばり強く、狡猾なのだ。そして明け方近くになってルーはオレに言葉を発してしまった。
「南無っ、もう、俺はこれ以上辛抱出来ない。このままだとおめぇを殺したくなってくるんだよっ!だから女の所へ行く。おめぇの顔を見てるだけで頭がおかしくなりそうだ。さいわい女の事はキムもお前も知らないはずだ。・・・・・。それとも、おめぇに”いい案”でもあるって言うのかよ。ああんっ?」つり上がった細い目でオレの目の前のテーブルを蹴り倒した。
「無い!お前がそうしたいのなら、それでもいい。後はお互い運次第だな。オレは糸魚川の従兄弟の所へ転がり込む。では、ここで別れよう」
 そうやってオレ達は金沢で別れた。オレはその日のうちに汽車で糸魚川に向かい従兄弟のアパートにしけ込んだ。従兄弟は心配してくれたが不満をオレにのべる事はなかった。そしてオレがパクられるまで三日とはかからなかった。ルーは女の所へしけ込んだその晩、数名に襲撃され袋だたきになっていたところを女の110番でパトカーが駆けつけ逮捕されたのである。そしてオレの居所を喋らざるを得なかったのだ。オレの安全とキムへの恨みとで。その後しばらくしてキムも逮捕され四年の刑を受けた。ルーとオレは猶予刑を貰った。
逆であったらオレも喋ったかもしれないが、オレの世界ではルーのオレに対しての裏切りである事は変わらない。今だに彼はそれを恥じている。そしてルーとオレは今もつきあいがある。彼は現在富山刑務所で服役をしている。
 身元引受人はオレだ。