2006年11月30日木曜日

アマルコルド

   なぁ、遠くまで来たもんだ

   もう思い出す事も懐かしさも失せた

   車が行きかう交差点の中で、尻尾のさがった老犬二匹

   やつらにはおれ達の立ちつくす姿なんか見えないのさ

   おまえが先に轢かれるか

   おれが先か、なんてことも、眼中にないのさ

   首輪?

   お互いとっくの昔に無くしちまったじゃないか

   もう、オレ達は死んだも同然なのさ




 いつになく冬空の厚い雲の隙間から陽が差し込んでいた。
 つかの間の光だ。

 所定の駐車場へ車を置き、長靴を引きずるようにして面会棟に歩みを向けた。午後のせいか面会人が少なく老夫婦が二人、体を寄せ合って待会室で体を丸めていた。おれは受付係に頭をぺこりと下げ面会申込書を貰い名前を書く。関係の記入欄に「引受人」と書き入れる。それから備え付けのボックスキーを貰いロッカーに所持品の入ったバッグを入れ鍵を閉める。
 そのうち老婆はよろよろと立ち上がり受付に差し入れについて何か問うていた。受付係の言葉も耳の遠くなった老婆にとっては当を得ないようだ。おれは立ち上がり、傍らで老婆の肩に手を置いた。こうやるんだ、と『差入れ願箋』の書き方を教えてやる。もう曲がってしまっている背を更に丸めオレに感謝の意を表した。
 15分ほど待たされ、呼ばれる。
『5番の方、3号面会室にお入り下さい』ドアを開 け面会室が並ぶ通路を歩き3号に入る。
やがて看守に伴われてリュウが満面笑みで入って来た。
『よう!元気か?』とおれ。
『おまえこそ、心配してたんだ』とリュウ。お互い通音穴があいた円形の「話口」に顔をくっつけるようにして話が始まった。仕切の強化アクリル板がおれの吐く息でどんどん白く曇ってゆく。やつのいるところとおれのいるところの温度差のせいだ。おれは時々アクリル板の曇りをとるように袖口で拭きながら話を進めた。懲罰を喰らっていた事は奴の手紙には書いてあった。胸の名札を見ると白地に名前のみしか書いてなかった。四等囚、つまり最下等囚であることを表している。本来なら二等囚であるはずだった。四等囚に仮釈は無い。中で何が起きていたのかは知るよしもなかったが我々の世界では「満期務め」を表す事でもある。
『懲罰は?』とおれの方から聞いてみた。
『10ヶ月だよ。去年のほとんど懲罰房だった。すまん』とリュウは申し訳無さそうにおれに言った。
『いや、そんな事はいいんだ。満期だと4月の14日か15日になるな』とオレは刑期の逆算をして言うと、満面笑みを浮かべた。
『おれには通知が来るだろうから、午前八時半には迎えに来ている。しばらくおれの所で気兼ねせずに遊んでいろ。慌てるとろくな事がないからな』とおれ。
『すまん』とリュウ。
『よくして貰っているのか?』とおれ。
『ああ、おまえの名前を言うと大概可愛がって貰えるんでな、感謝しているよ』とリュウが冗談顔でおれに言った。おれの知っている限り十数人の知人がいるはずだった。「工場」か「房」でおれの名前を出せば奴もなんとかなるって事だ。
『それはよかったな。可愛がって貰うんだぞ』とオレ。
『ああ、みんなおまえに宜しくって言ってたよ。房にも居るんだ南無さんには世話になった、・・・・の○○が、と。』とリュウはつい口を滑らせる。
『話止めーぃ!房中の人間の事は言ってはならん!中止っ!』と看守。
『オヤジさん!スイマセン!もう少しだけお願いします。もうすぐ終わりますから』とおれの方で頭を下げ頼み込む。あとは出てからの準備の話等で面会時間の30分は終わってしまった。互いに立ちオレは手をアクリル板にのせ『辛抱せよ、もうすぐだからな。旨い物も酒も女も待ってるぞ』とありきたりの科白を言った。ヤツはニンマリとして手を振って去っていった。

ムショで還暦を迎えるおまえなんかには、もうおれしか居ないんだよ。