2006年12月10日日曜日

善なる人々-悠治編-

 十二月の中頃になろうというのに今日の気温は穏やかであった。村杉悠治はさほど広くない庭越しに黄金色に染まった葉を少しずつ落とし始めた銀杏の木をしばらくの間眺めていた。ある程度まで成長しないとその性が判別しにくい雌雄異体であるその独自な樹木は悠治にとっても不思議な木であり道沿いにあるこの木が気に入ってこの土地を買ったようなものだった。これからも何百年も生きていこうとしているその木は天空に向かって伸びてゆくのだ。そしてその木は今まさに葉に陽の光を通し黄金色の渦巻きを作り始めていた。それは悠治をして体もろとも空の彼方まで跳ね上げてゆくような気分にさせるのだった。
 悠治の家は会社から車で十五分程度の距離にある閑静な住宅地の一角にあった。三年前の結婚を契機にかねてから買っていた土地に家を新築したのである。妻とまだ幼い子の三人で平和でのどかな生活であった。
 「悠治さん、南面を大きく取っておいて本当によかったわ。冬の僅かの日差しも取り入れることが出来るんですもの。それにこんなにゆっくりと出来るのも久しぶりよね」
 男は黙ってそれに頷いた。景子はソファで寛いでいる夫の足下に座り、長く伸びたその腕を夫の体にもたれかけてきた。ようやくヨチヨチ歩きを始めたばかりの息子の景治が絨毯の上をおぼつかない仕草で往復し時々笑い声を上げていた。視線を下げると景子のまだ初々しさの残る白いうなじが艶めかしく写っていて、そのまま肩から背にかけての柔らかな曲線に繋がっていた。つい先ほどまで景治が寝ていた横で二人は絡み合っていたのだ。今も目を閉じると景子が何度も突き上げるように持ち上げてきた白い尻とその下から分かれた長く伸びきった腿が浮かびあがっていた。男は少し前屈みになると景子の胸元の白さを浮きだたせているVネックのセーターに手を差し入れた。やがて景子の乳首は硬くなり心もちか息が荒くなってくるのを楽しんでいた。夫はこの若く美しい妻を今ほど愛していると思ったことはなかった。午後の太陽はもう傾きかけてきて、部屋一杯をその暖気で覆いつくした。銀杏の輝く葉の色に溶け込むようにそれはやがて男のからだ全体を包み込んだ。
 「ああ、なんて心地良いんだ。ああ」
 悠治は心の中で何度もその溜息にも似た言葉を読経のように口誦している自分に不思議さを感じていた。やがてその口誦は幾重にも重なる音となり、遙か遠くから聞こえたり、時としては耳朶に触れるように囁くように近づいてきた。そして日溜まりに包まれながら彼の姿は黄金色の渦の中に巻き込まれていった。

 午後四時頃には重く垂れ下がった鉛色の空の隙間から陽が落ちていった。視界の向こうにある窓の外の雨もシベリアから急激に下がってきている寒気の所為でみぞれに変わろうとしていた。夜には本格的な雪模様に変わってくるのだ。そして、これから三ヶ月近くの間この北陸の地方都市は太陽の光を隠され冬籠もりに入ってゆく。
 村杉が課長として率いている営業第三課は大規模土地開発に基づく宅地分譲の販売部門であった。競い合わせる意味で営業第四課もあり五メートルほど離れた硝子パーテーションで仕切られていて二階の同じフロアー並んでいる。一階を陣取りマンション販売を手がけている営業一課や不動産仲介業専門の二課と違い、この二階の課はここ最近苦戦を強いられていた。一地方都市にしか過ぎないこの地方は絶対人口が少ないうえ人口増加も微々たるものでしかなかった。そして最近の傾向としては中心地へのマンションへ徐々に人気がシフトしてきていることも悪材料としてあった。考えようによってはこのセクション自体もリストラの対象にならざるを得ない。現に部長の谷口から三課と四課を合体させ課員自体の中で成績の振るわない者数名を依願退職という形にもっていくことを知らされていた。その代わりにどちらかの課長を次長に昇格させるという話であったが、実質的にはそのどちらかの勝ち負けで責任を取らされ万一あれば自分が退職に追いやられることは間違いがなかった。また生き残った場合でも彼にとっては部下のうち何人かを失うことになるだろう。せめて長年コンビを組んできた部下の塚原だけは失いたくなかった。そのためにも村杉と塚原は夜討ち朝駆けのようにして今取り組んでいる関西系商社を挟んでの大手住宅メーカーとの商交渉に全てをかけていた。今のところ交渉は何とか順調に進み、年内には提携契約が成立するはずであった。年間百棟を越える住宅建設を目論める商談を締結させるとなれば現在苦しんでいる分譲販売に弾みがつくばかりではなく会社も資金繰りの硬直化からも脱することが出来るはずであった。勿論、村杉としてはこれを契機にして塚原と共に功労賞を得、生き残りを目指すことも出来ると踏んでいた。村杉はその見通しが立った時点で塚原に上層部からいわれている今回のリストラ提案を話せばいいと思っていた。
 村杉はつい先ほどまでいつものようにやって来るその時間を待っていた。ここ最近になって特にその回数が増えてきているように感じていた。しかし、その例のものがすぐ側にまでやってくる前に塚原の声で現実に引き戻された。
 「課長、ねぇ、課長。聞こえてんですか」
 自分のデスクの前に二列で繋がっている六つのデスクの一番手前が塚原の席だった。村杉は塚原に声をかけられ、ようやく我に返ったが、それまで何か得体の知れない空白の時間を過ごしたいたことに気づくこともなかった。塚原が向かう視線の間にはPCのモニターがあり村杉の顔の表情までは見えていないはずであった。たとえ見えていたとしても塚原には彼がデーターの分析をしているよう見えただろう。そして声の先に顔を向けると塚原は立ち上がり、すぐ彼の傍らに近づき囁くように言った。
 「開発部ではもう来夏以降の分譲計画を前倒しして来春ということで立ち上げているらしいんですよ。知ってましたか?」
 塚原の言いたいことは村杉には分かっていた。
 「今期分もまだ充分捌けていないのに、開発部も何考えてるんでしょうかね」
 塚原のような営業一筋の男にとっては開発部のそのやり方が嫌みのようにしかとれなく、自らの情けなさも手伝って憤懣やるかたが無いという風であった。
 「開発部は開発部での立場もあるんだろうよ。今我が社は正念場にいることには変わりがないよ。マンション分譲は何とかトントンだから我々宅分課は肩身が狭い。財務部からの圧力というか、銀行への手前もあるから一種のフェイクも必要としてるんだろうよ。ま、俺たちの今進めている案件さえ成立しちまえば苦戦から何とか立ち直ることが出来るだろう。頑張るしかねぇだろう」
 村杉は模範的な上司としての回答をするしかなかった。今、塚原と進めている関西商社が持ってきた提携話が万が一にも暗礁に乗り上げれば自分の立場もこの課の人事権も一切吹っ飛ぶ。そればかりか自分自身の生活も怪しくなるのだという切迫感は微塵にも出さなかった。しかしその後すぐに営業部長の谷口の酷薄そうな顔が一瞬浮かび胃の隅にキリキリした痛みが走った。つい先ほどまで谷口に呼び出され三ヶ月間の販売見通し報告をしてきたばかりであった。雪の季節を迎え販売状況の動きも止まり、さりとて春先に見込める販売見通しも今はまだ確定的といえるほどの状況に無かった。確かに今有望な案件は進んでいるが自分の規律の中では約定が成立していない内の仕事は上にも報告しない主義だった。それは長年営業畑を歩んできた者のプライドから来る習性というべきものであった。とにかく今は焦ってみても仕方がないのだと彼は自分に言い聞かせていた。

 子供達はそれぞれ受験を目前に控え二階から下りてくることはなかった。悠治は居間で妻の不機嫌そうな顔を見るまでもなくテレビの方に目をやっていた。目尻の皺や顔の所々に出来ているシミが底意地の悪い性格の美佐江をいっそう醜くさせていた。出来るならばこんな時間に帰宅はしたくなかったが、ここ最近の残業続きでいっそう不機嫌になってゆく美佐江への気配りを考えた行動であった。だが帰宅したとたん、それが誤りであることも悠治は思い知らされていた。ここには安らぎも愛も無かった。どこにいても頭からこびりついて離れないのはこの生活という永遠に続くように思われる重しを乗せられた現実であり聞こえるものといったら美佐江の口から出る生活の不満と高校受験と大学受験を控えている二人の子供に対する愚痴ばかりであった。悠治は自問していた。
 「なんで俺はこんな希望も無い生活をしているのか。これが人生というものなのか」
 これは俺が望んでいた生活ではないはずだ。妻を前にしても悠治の心の中は目の前に見える世界を否定し続けていた。だがそれは単に果てしなく循環運動をしていている自分の愚かな姿でしかなく自らが選び取った世界であることも確かであった。この世というものはその通りにしか成り立っていなく、今や虫けらの生と何ら変わらなく、ただ黙々と生きるしかない悠治を更に暗澹とした気分に陥らせていくのであった。
 「ねえ、あなた聞いているの?家だって楽じゃないのよ。来春には純一は東京の大学へ行くのよ。ここ二年というもの昇級さえままならないではねぇ。本当にお先真っ暗だわよ」
 いつも通りの話の展開が始まりお定まりのコースに向かってゆく。悠治は聞くとも無しそれなりの気のない返事を返し徐々に気力が萎えてゆくのを感じていた。確かに子供達が小さい頃のバブル全盛の時代にはまだ生活的には余裕もあったが今のような厳しい情勢では美佐江の言うことにも一理があった。しかしそれは決して悠治の所為でもなく時勢の流れというべきものの所為でもあったのだ。だが子供に対する責任は父親たる悠治の責任でもあることは認めざるを得なかった。家族のために独立や転職も考えないではなかったが自分のキャリアを考えると様々なリスクが付きまとい、また悠治にそこまでの勇気も持てなかった。最終的にはこれが俺にとってお似合いの人生なのだと自分自身を納得させるしかなかった。現在と未来はそうやって有り、二人の子供達も成長し社会に巣立って、また家庭を営んでゆくのだ。いわば誰しもが逃れようもないその繰り返しの中で、悠治もやがて妻と共に老いてゆき、その生の痕跡も墓石以外跡形も無く歴史の彼方に押しやられてしまうのだ。

 「課長、ねぇ、課長。聞こえてんですか」と塚原が今まで電話でやりとりをしていた相手との報告をするために傍らにやって来た。塚原の表情は気色ばんでいた。
 「いったいどうしろと言って来てるんだ」
 やりとりの声は先ほどから彼の耳に聞こえていて、どうやら先方はさらなる価格交渉に入ってきているのは理解していた。こちらが土俵に乗っかってから相手との足元を見たギリギリのつばぜり合いが始まったのである。村杉としても十億を超えるこの商談にかけていて、もう引き下がることは出来なかった。敗北は全てを根底から崩し村杉自身の全存在をも消滅させることに繋がる。
 「もう五パー切れっ、て言うんですよ。どうやらライバルが居る気配を匂わせているんですよ。どうしますか?」
 「ライバル?俺たち以外に、そんな者があっちにいるわけねぇだろうよ」と村杉は声高く言い返した。
 確かに今この市内で大規模開発は村杉達が属している会社以外は居ない。ただ小規模開発業者はごまんと居たが、相手もそれに乗るのは運用効率が落ちるだけでなく商品イメージも下げることになるはずだった。まして五パーセントの値引きは収益分岐を割ってしまうことになり彼らの販売権限が及ばなくなる領域になっていた。どうせ上では認めないだろうと村杉は思った。
 「でも、課長、これを逃したら、もう後なんか無いですよ」
 塚原の言うことは正しかった。もう俺たちに後は残されていないのだと村杉も思っていた。上と交渉するしかなかった。
 「わかった。谷口部長と談判してくるよ」
 内線で谷口の在籍を確認すると村杉は席を立った。三階の役員室とはいえ常勤役員は社長を除き全てがワンフロアーで執務していた。社長室のドア入り口が財務経理部で取引銀行からの出向常務が数人の事務職の者を従えていた。一瞬入ってきた村杉を常務は一瞥するとまた視線は下に向いた。
 村杉はフロアー中央にあるミーティング・テーブルに座り谷口部長に話を切り出した。
 「実は部長には詳しく報告をしていませんでしたが、ここ一ヶ月前ぐらい前から難波商事金沢支店の斡旋で住宅大手のセキトモ・ハウスと分住の提携話を進めて参りました。部長にはもう少し状況が定まってから報告をと思っていました」
 村杉は谷口の顔を伺いながら一呼吸を置いた。谷口がそれについてどのような反応を見せるかがこの話の成り行きを窺わせるからであった。
 「話を続けろ」
 村杉の睨んだように谷口は興味をもったようだった。村杉は谷口の目を見ながら今までの経緯と交渉の流れを一挙に話し切った。後は谷口の判断次第であり村杉にとっては谷口との話し合いも商取引の交渉と変わりがなかった。だがこれが彼の誤算の始まりだった。谷口の老獪さばかりは読み取ることは出来なかったのである。谷口はこの時期滅多にない商談を進めるに当たってまず社内権力の保持を計ることを第一義に考えていた。村杉と塚原のコンビが進めている話は一度難波商事の支店長から谷口に裏を取る問い合わせが来ていた。つまり、おおよそ予測がついていたのであり、営業部長としての結論はイエスであった。ただ来春予定されているリストラ人事が持つ社内事情がそうはさせなかった。これが村杉の悲劇の始まりでもあった。
 「せめて二パーで臨むことは出来んのかね。このままだと社長の承認を得ることが難しい」
 谷口は故意に顔をしかめながら村杉に言った。しかしこれは牽制でしか無く、今の社の状況を考えると営業三課が持ってきたこの案件をみすみす沈めるはずもなかった。ただそのまま認めるとなると来春控えているリストラ人事に支障が出てくるように腹の中で思っていた。村杉のラインは切るようにという上での裁断が出てしまっていたからである。ここで一旦村杉らを牽制しておき渋々値切りに応じたことにしておけば村杉ラインの手柄であると手放し評価は出来なくなるはずだからである。そうすれば人事もやりやすくなり、手柄の実は自分のものになり結果として会社のものになる。権力の中枢域に近い者ほど有利に事が運ぶのはここにおいても例外ではなかった。
 「どうだね、君の判断は?」
 「部長、先方とはもう隙間がないくらい話し合って居るんですよ。これが最終案です。部長の返事がノーであるならばこの話は壊れる可能性が大です。私たちの努力も水の泡になるんですよ」
 村杉は必死だった。
 「では、返事を少し先に延ばせ。社内での根回しに二、三日かかる。だからといって五パーになる保証はないがな。お前が考えるほど社も楽ではないんだよ。それ以外今は言えない。分かったら席に戻れ」
 谷口はにべもなく村杉を突き放した。落胆して階下に下がる村杉の後ろ姿を見送ると谷口はすぐさま難波商事金沢支店に電話をかけた。谷口は谷口で一石二鳥を狙った策を弄していたのである。
 席に戻ってからの村杉は急激に体の力が抜けてきているのを感じていた。球はこちらに投げつけられており明日中にはきちっとした返事を難波商事に持って行くことがルールであるからだ。二パーの提示は相手に対する返球にならないばかりか、塚原の意見を待つまでもなく口が裂けても言えないことであった。中途半端の譲歩は時として相手方の感情を逆撫でし今までの交渉ごと自体が振り出しに戻る事を意味していた。もし相手が牽制したようにライバル会社が居るのならば敗者が誰であるか決まっているようなものだった。とりあえずは明日午前中まで難波商事への返事を延ばし、再度谷口部長を含めて社内での調整を計ることで渋っている塚原との意見調整を行った。

 村杉は会社で九時を指そうとしている時計の針を見ていたが帰宅の準備をしようとする気にはなれなかった。もうこの時間になると社内には彼しか居ず、あとは警備会社へ最終の連絡を入れて一階の鍵を閉めるだけであった。村杉の心は虚しく寂しかった。タバコの火の中心部が一瞬の間メラメラと炎を上げたような気がしたが、それは目の錯覚だったかも知れない。窓の方に目をやると外はいっそう雪が激しさを増していた。もう一度タバコの火を見ると先ほどよりも大きく炎を上げた。村杉はまた例のものがやってくる気配に囚われていた。黄色く輝くまばゆい光がすぐ側までやって来ているのだ。
 夕方から降り続いている雪も夜の十時近くにもなると五〇センチ近くにまでになり道路は圧雪状態になっていた。悠治の運転する車は凍結し始めた路面を慎重に轍を選びながら走っていた。もうこの時間になると妻の景子は息子を寝かしつけてしまっているだろう。妻の美しい横顔がもうすぐ悠治を待っているのだ。帰るべきところに俺は帰るのだ。ソウダ、カエルベキトコロニオレハカエルノダ。やがて前方に金色に輝いている瀟洒な家を浮かび上がらせ、銀杏の木の向こうにある庭を通して寝室を眺めることが出来た。目を凝らすとベッドが柔らかな光に包まれて妻の白い裸身がまるで幻化のように横たわっていた。悠治はアクセルを少し踏み込みスピードを上げ始めていた。前方の対向車線にはこの雪で出動している除雪車の黄色灯が見えていた。点滅している回転灯は一定の間隔をもって悠治の視界にその金色に輝く光を差し込ませていた。スピードに乗った悠治の車は轍を踏んだ鈍くて重いショックを車体に伝えるとクルクルと回転し始めた。アクセルを緩めない車体は後ろ向きになりながら路面からふわりと浮き上がるとそのままジャンプするかのようにモーター・グレーダーのブレードに突き刺さっていった。そして鉄の塊と化した車は辺り一帯にグオーンという衝撃音を響かせて爆発炎上した。悠治は一瞬の間でしかなかったが自分の骨と肉とが引き裂かれる音と共に炎の中で妻と息子の姿を見ていた。

 カエルベキトコロニオレハ…… カエルベキトコロニオレハ…… カエルベキトコロニ……カエルノダ

 -了-
※この掌篇はコンポラGで行われた『ブログ・バトル・ロワイヤル』の参加エントリとして書かれたものです。