2006年1月31日火曜日

墜ちた男

 オヤジから2ヶ月ぶりに呼び出しを受けた。オレは途中で手みやげにかき氷を買った。仏間となっている大きな座敷で二人っきりで無言のうちで食べた。外からアブラ蝉の音が断続的に響いていて9月に入ったとはいえ外気はいっこうに下がらなかった。
「金沢の山崎だが、おめぇは顔を知ってるな?」数度ばかりこの家で会ったことはある。昔の舎弟だったということ以外なにも知らない。オレはいわゆる、「そういう世界」に距離を置くことをオヤジも知っていた。オレは黙って、開かれた仏壇に祀ってある瓶詰めの指を眺めていた。ロウソクの揺らぐ火が十数も並ぶ瓶に反射していた。死してようやく極楽へ往けた者達の指だった。
「あれに引導を渡して息子に次がせろ。息子は可愛い」とオヤジはオレに低い声で囁き大きな封筒を座卓上の俺の前に置いた。そして一式書類をその場で目を通すように言った。有限会社山崎建設と山崎個人の権利書、数枚の手形、金銭消費貸借証書が入っていた。4500万の債権額だなとオレはざっと頭にたたき込んだ。しばらくの沈黙が続いた。オレで言う所のスクラップ・アンド・ビルトの指示だった。いずれにしても荒療治になるのは目に見えていた。
「取りかかるには少し時間が必要です。調べるものは調べる必要がありますから」とオヤジに言った。オレは長くなるな、と心の中で反芻した。
「どのような結果になろうが、儂はなにも言わない。これはいわば儂のミスだ。このことに伴う生きる金が必要な時には儂に言え。人間が必要になれば用意する。頼めるか?」と言った。いつにもない言葉のように思われた。
「わかりました。何処までやれるか判りませんが、目一杯やってみます」そしてすべての書類をコピーしてくれるように頼んだ。当座の費用がかかるだろうとオヤジはオレに100万を渡した。

 調べには10日以上かかった。表と裏のあらゆるネット・ワークを利用した。オヤジからは書類以外の一切の情報を聞くことはしなかった。オレは予断を嫌うからだ。金沢にも数回出かけ法務局での閲覧、顔見知りの地回りやくざ、事件師達からも情報を集めた。情報は錯綜していたがいくつかのひっかかりは出てきた。浮遊している手形の存在を見つけることが出来たのだ。きっとオヤジもパクリ手形の存在に薄々気づいたのだろう。オヤジは隠し事には冷酷だ。やくざモンを使わずにオレを使おうとするオヤジの”策”の意味がおぼろげながら見えてきた。こうなると、裏より表の力も必要になるかも知れないと思い知人の税理士に電話を入れた。タフでペテンが利く若いタマゴを一人借りたいと頼んでみた。たぶん融手操作をしているだろうとオレは直感で感じていたからだ。説明のため税理士事務所に赴き趣旨の概要を伝えた。先生の返事はオーケーだった。税理士には謝礼として20万支払いタマゴ代は直接本人に渡すと言うことで了解を取った。
 鶴来街道に面した200坪程度の敷地に山崎の四角い事務所があった。別棟として仮設プレハブの建物が見て取れた。オヤジから連絡があったらしく、山崎は慇懃にオレを迎え入れた。オレは立て直すためここに来たのであってそれ以外他意はない旨伝え協力を求めた。そして困っていることがあれば何でも相談にのるつもりであるとも伝えた。経理関係の帳面、小切手帳、手形帳、金融機関のバックシート、仕入れ帳、伝票、請求書、領収書の類まで明日まで全て揃えて欲しいと言った。いうなれば監査である。帳面を付けている若い女は不愉快そうな顔をしてオレの顔を見た。役目柄面倒だと思ったのかそれとも別のことを思ったのかその時オレは気にもとめなかった。しょせん山崎に股ぐらを開いている女に過ぎないのだ、と。
 翌日タマゴと兼六園近くのホテルのロビーで早朝待ち合わせをした。ここが今後われわれの宿泊先となるのだ。簡単な打ち合わせをカフェで行った。知りたいことは総合的なバランス、今後の工事高から推測出来る売掛金の予測、そして過去3年までの取引先との不自然な手形決済等が知りたいとオレは伝えた。30前後に見えるタマゴはワクワクしながら聞いているようだった。帳簿に関する一切の疑問は相手にぶつけて欲しいとも言った。そして、始まった。

タマゴはがんばっていた。日中はほとんどオレと口を利く暇がないくらい数字の下敷きになっていて、眼も殺気立っていた。夕方に一日が終わるとオレと二人っきりで晩飯を食いながら2、30分問答をした。タマゴは問答を必要としていた。焦点を絞らないといけないから、と。夜は早めに寝れるようオレはタマゴを気遣った。女は相変わらず不機嫌でタマゴにつらく当たっているようだった。山崎は日一日と落ち着きが無くなってきて用もないのに外出したりした。そんなことは予想の内である。山崎は金貸しでもないヤクザでもない、まったく懐かない人種であるオレの対応にどうしていいのか戸惑いを感じているようだった。どっちにしても残された時間はそんなに無いのだ。三日目の夜、タマゴは飯を食う手を止めてオレに聞いた。
「あのぅ、南無さん、こんなこと私が言うことでもありませんが、・・・。本当に助けるんですか?」タマゴは全体像を掴んだようだった。声に苛立ちがみてとれた。
「なぜそんなことをオレに聞く?」つぶすかも知れないとはタマゴには言ってなかった。再建の道を探りたい、と言ってあったからだ。
「もう、死んでます」タマゴの口からため息が出た。オレはそれに答えることはしなかった。
「今晩中にまとめますので、明日の朝、このホテルで南無さんに説明したいのです。いいでしょうか?」と言った。オレに異議があるわけはなかった。その夜オレは頭を白紙の状態にして風呂上がりにハーパー12年を一杯だけ飲み早めに寝た。

 明け方近く目が覚めた。窓の外の向こうに兼六園の木々が薄明かりの中で影絵のように見えた。酔いは残っていなかった。熱いシャワーを浴び、昨日香林坊下で買った真っ白なワイシャツを着ることにした。ネクタイを締めたオレの顔が笑ってないことに気づき、笑顔を作ってみた。ふん、まるで馬鹿に見えるぜ、と。6時30分だったがロビーに降りカフェでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。7時過ぎに目を腫らしたタマゴが降りてきてオレの前に座った。
「あらましはレポート用紙5枚にまとめておきました。そしてこれは対応した資料です。とりあえずレポート用紙から目を通してください。」とタマゴは言った。オレはレポートを読み始めた。驚くほどつぼを心得た内容になっていて、タマゴの能力に舌を巻いた。小切手、手形帳の紛失していると思われる枚数とみみが残っている不明瞭な手形と推測された振出期日、そしてバックシートとの対応表。ここ6ヶ月以内の仮払金の残高、発注書の存在が無い取引先への出入りのチェック表。売上高に対応する受取手形の金額、決済日、回数、及び外注に支払うと見せかけ振出している支払手形の抽出。固定的な一般管理費の月別推移表、等々。重要だと思われる項目にはマーカーが付けられて理解を早くするように作られていた。資料にはレポートに付けられている項目番号に対応した付箋がぎっしり貼られていた事は言うまでもなかった。
「アンタ、凄いよ。オレのような人種と仕事したことあんのか?」と思わずオレはタマゴに言うほどであった。タマゴは嬉しそうな顔をしたが返事はしなかった。オレの質問を待っているようだった。
「つまるところは”乱発”状態に陥っていると言うことだな?」とレポートから目を離さずにタマゴに言った。
「そればかりではないようにも思われます。相当額の現金も別使途で消えていると推測しています。資産はほとんどボロです。とにかく経営者はまともではありません」オレは頷き同意した。
「飯を食い終わったら一緒に行ってくれないか。山崎と詰めをしなければならない」とタマゴに同席を頼んだ。
 オレは当初回収のための資金導入もあり得るとまで考えていたが、どうやら危険性があるようだった。この線は消えている。融手操作を更に深めて現金を抜くという手もあるがバランスを見るとほぼ限界線まで来ていて小手先の三文手品に過ぎなくなり失敗すると取り返しがつかなくなる。まして融手の相手先は嵌ってくれない可能性の方が高いと判断した。不動産には目一杯担保がつき含みはなかった。このままでは倒産を待っているだけしかないのか、オレの役割はこのままだとゼロでしかない。つまり子供の使いだって事になる。オレの心は追いつめられていった。
 山崎は富山県と新潟県との県境にある朝日町の生まれであった。若い時は博徒集団の使い走りをしていた時期もあったようだ。北陸高速自動車道の工事で大量の”人夫出し”をして、したたか儲けた。御殿みたいな家を建てたこともあったが、不良とのつきあいが抜けず手形がパクられ倒産した。そして女房は出て行き山崎は子供達二人を連れて金沢へと逃げ、当時からつき合っていた糸魚川の女と金沢で再婚した。女の姓を名乗り”別人”となってこの事業を再興したのだ。しかし性格は変わらず金沢の不良達とまたつきあい始め、振り出しに戻ろうとしているのだ。今度は逃げることは出来ないはずであった。またオレはそんなに間抜けではなかった。
 午前八時から三人で討議が始まった。仮設プレハブで作られた食堂の屋根がじりじりと焦げ付いてきてエアコンがあることを忘れさせていた。今日の金沢の残暑は猛烈になるだろう、と思った。
「社長、大体のところは把握したのですが、いくつかの疑問があります。再建のため必要なことなので、協力をお願い致します」とオレは開始の宣言をした。お互いに決して戻ることの出来ない地獄の門を開けたのだった。
 やはり6枚で2千万の手形がパクられていた。行き先の情報は既に金沢の不良達から聞いていた。その他行方を吐かない仮払金が500万ほど。山崎はどもりながら、時にはふてくされの態度を見せながら語った。オレには不遜の態度をとりながらも、オヤジに対しては迷惑をかけている、とも言った。
「山崎さん、アンタのほうでなにか案でもありますか?」とオレは冷ややかな態度で言った。山崎から言葉は出なかった。
「私もこのままオヤジに報告してもいいですが、子供の使いじゃないのでね。わかっているんですか?」
「オヤジさんには迷惑はかけねぇ。それだけは無い」山崎は天井を仰ぎながら小さな声で言った。なにか考えがまとまらないようだった。
「では、私達はいったん引き上げます。答えを出すには少し時間も必要でしょう。二、三日したら電話を差し上げてから来ます。それでいいですか?」オレは今後の山崎の動向を見定めたかった。手詰まりの時は少し泳がせればいいのだ。
「そうしてくれるか、悪いな。ワシも色々と考えをまとめなくてはいかんのでな。いやー、いざとなればつぶしてでもオヤジさんにはきちっとするからアンタは心配しなくていいよ。ははははっ」山崎はなにか企んでいる節があるようにオレには思われた。
「オヤジさんにはワシから何か言えばいいのかな?」と心にも無いことをヤツは言った。
「いいえ、私は今度アンタに会ってから報告するつもりですから、それでいいでしょう。私は富山へ帰ります」とオレは答えておいた。
 山崎は外までオレ達を見送り深く頭を下げていた。

 タマゴと一緒にホテルのカフェへ戻り冷たいものを飲み、ようやくお互い生き返ったような顔になった。
「ねえ、南無さん。山崎社長は一体どうするつもりなんでしょうかね」とタマゴは気にしているようだった。
「いや、オレにも人の心は読めないよ。とにかくアイツは嘘つきであることは間違いないようだ」とオレはにやりとほくそ笑んだ。
 オレはオヤジに電話を入れた。若い人間を二人借りたい、それぞれの車でこのホテルへ来るように、と頼んだ。オヤジは判った、と言ったがこちらの状況についてはなにも聞くことはなかった。オレも報告はしなかった。
「あの資料の中に確か賃貸契約書のコピーも入っていたよな?」
「ええ、野々市の資材置き場と従業員用のアパートが三室分ともう一つ。四部のコピーがはいってます」
「アパートは皆一緒の場所なのか?」
「いえ、ひとつだけ市内の中心にあったかと思ってます」そこがあの小生意気な若い女の住まいだと思った。
「最後のお使い頼めるかな?今から電話する不動産屋へ行って四つのアパートの住宅地図をコピーしてきてくれないか」とオレはタマゴに頼んだ。タマゴはすぐ飛んだ。一人になったオレは自分で押し問答をやっていた。これ以上オヤジに金を突っ込ませるわけにはいかない。さりとて返済原資は見あたらない。このままだとどん詰まりだな、と。それにしても山崎の態度は気に入らなかった。どぶネズミがっ、と思わずオレの口から声が出た。
 しばらくするとタマゴが汗を拭きながら戻ってきた。にらんだ通りアパートというよりは12階建ての10階にある浅野川沿いのマンションの一室であった。囲っていやがる。オレはタマゴに礼を言って封筒に包んだ礼金を渡した。もっと手伝いたいような顔をしたがオレには十分すぎる程、彼はやってくれたと思っていた。名残惜しいがこれからは分野が違うし、出番はもう無いのだ。そうしてタマゴは帰った。
 夕方近くにオヤジが寄越す若い者から電話が入り、富山を発ったことを告げてきた。万一のためオレはタマゴの部屋はそのままにしておいた。オレは小さな箱庭に面したこのカフェのテラス部分に出てベンチに腰掛け花壇一面に咲き誇っているポーチュラカを眺めていた。今の心境とまったくかけ離れた花の存在に不思議さを覚えた。

 午後6時半頃、彼らはやって来た
「慶伊と云います。こいつはノブオです」とその大柄で胸厚の若衆はオレに挨拶をした。
「来てくれてありがとう。簡単に仕事を説明するから聞いて欲しい」と早速オレは彼らと話し始めた。要点はひとつしかなかった。女の部屋を見張ることである。山崎はオレが富山に戻ったと思いこんでいるはずだからだ。したがってシキがあるとは夢にも思わずで油断を誘うことが出来るかも知れないとオレは思った。なぜシキを張るのかの説明を慶伊にわかりやすく説明をした。そしてオレの指揮下にあることの確認をとった。慶伊にホテルの部屋の鍵を渡し必要であれば使うようにと。そして早速今からでもシキテンは始めて欲しいとマンションの地図を渡し部屋番号を教えた。慶伊は地の利も確かめたいからといってすぐ二人で出ていった。どうやら慶伊のペテンは体に似合わず相当利くようにみえた。あとは待つだけである。
 翌朝、慶伊から電話が入った。
「こんな時間なのに部屋から女が出てきません。休みなのですかね?」
「そのままシキテンしてくれ。出入りがあるかもしれん」
「わかりました」時間を見ると午前9時だった。山崎は女を休ませてなにをする気だ。しばらくしてまた慶伊から電話が入った。
「山崎と”日通”のバンが待ち合わせをしてたらしく下で落ち合って女の部屋に入りました」と。9時30分だった。予想通りであった。山崎は先に女を逃がし自分も蒸けるつもりなのだ。月末まで数日を残していた。二度も三度も通用するかっ!あほんだらっ!こうなれば遠慮なんかいらないのだ。きっちりとケジメは付けさせるしかない。あとはどう転ぶのか見てみるしかないのだ。しばらくして日通の営業だけが帰り山崎は出てこなかった。今晩やるしかないだろうとオレは心に決めた。オレは慶伊に電話を入れた。出てきた所を丁重に掠え、そしてオレの所へ連れてこい、と。
 それからオレはもう一度タマゴの作ったレポートや資料を読み始めた。何時間かけて資料に目を通してもオレの頭は相も変わらずどん詰まりのままだった。追いつめるのは簡単だが、回収には程遠い結論しか出てこなかった。しかも、息子が可愛いとオヤジは言っているのだ。スクラップは簡単だが”再建”なんてとても考えられなかった。目を瞑るとあの女を嘗め回している山崎の姿が浮かんできた。そして自分の気持ちが落ち込んでくるのだった。
 深夜12時を過ぎていた。慶伊からの電話で眠りに落ちていたオレは起こされた。
「タマは部屋におります。来て貰えますか」低い声だった。
「ご苦労さん、すぐに行くよ」オレは洗面所で歯を磨き顔を洗った。出たとこ勝負だ。どのみち極楽なんてもんは無いんだからなっ!山崎。
 廊下を挟んで斜め向かいが慶伊達の部屋であった。中にはいると山崎は部屋の床に座らせられていた。置かれた状況は理解しているようだった。たぶんオレの監視体制の網にかかったこと自体で彼の心に深いインパクトを与えているはずであった。見張られている、と悟った人間は脱力感と共に心身を自ら最低のところへ転がり落とすものなのだ。唇の端が少し切れていて血がにじみ出ていて抵抗を物語っていた。暴力的に制圧されてしまった山崎は恐怖と混乱で頭が空白に陥っていた。オレは山崎に応接セットの椅子に座るように言った。どうやら痛みがまだ残っていて一人で立てないようだった。慶伊とノブオに抱えられて山崎は顔を歪ませながらオレの前に座らせられた。
「さて、山崎さん。何か言うことがあるならば聞こうか」とオレは問うてみた。返事は出来ないに決まっている。頭を深く垂れながら声は無かった。オレは一人で喋り始めた。
「このようなことはオレの望むことではないことを最初にお前に言っておく。ましてオヤジも知らないことだ。だが、お前はどうやらオヤジの好意を裏切ろうとしているようにオレには思えたのだ。わかるか?」山崎の体は震えだした。
「お前には言ってなかったが、オヤジはお前の息子達が可愛い、とひと言だけオレに言った。オレが指示されたことはその言葉だけだよ。それなのにお前は苦労を共にした女房を捨て、仕事を一生懸命手伝っている息子達を捨て、腐れマンコと逃げる算段をしていた。オレは残念に思うよ。これについて、弁解があるのなら聞いてやっても良い。なにか言えっ!」山崎は益々深く頭を下げ始めた。少しづつ平静さを取り戻してきたようで震えは止まりだしていた。
「スマン」と蚊のような声で言ったが、オレは聞こえないふりをしていた。どのみち山崎は逃げおおせる所なんて存在する訳がないのだ。行く所は地獄のみなのだ。
「オレは明日、本当に富山へ帰るつもりだ。オヤジへの辛い報告をしなければならないだろう。明後日にはお前の答えを聞くためにここへ再び来る。だからお前も心して真剣に考えよ。これはオヤジの情けだと思え」部屋は静まりかえっていて、山崎の泣き声だけが聞こえた。完全に落としたのである。

 オレは慶伊達を引き連れ早朝富山に戻った。オヤジのところへは行く必要がなかった。答えがまだ出ていないからだ。山崎が追いつめられたと同様に俺も追いつめられている状況はそのままだった。策は全て封じられているのだ。みっともないが、じたばたと喘ぐしかないのだ。そしてあのボンクラ野郎以下がオレなのだ、そう思うと悔しさにオレの頭がぐちゃぐちゃになっていった。月末まであと4日となった。翌日オレは山崎に電話を入れ、金沢に向かった。勝算もなにもあったものではないのだ。ただただ時間が流れていく苛立ちを覚えながら、オレは呟いた。いくところまでいくしかない、その先になにが見えるのだろう、と。山崎の心境がどのように変化していくのかも気にはなっていた。観念はしたが気持ちと現実との乖離は千里も隔たった。アイツは慶伊達に見張られているとまだ思っているだろう。
 ようやく気温も落ち着き秋の顔を見せ始めた金沢は俺の気持ちと裏腹に美しかった。犀川の中州には他の草花を押しのけるようにたくさんのすすきが見えていた。片町から少し奥に入ったところにその小さな喫茶店があった。時刻にはまだ少し早かったが竹内はもう座ってオレを待っていた。金沢最大の組織の幹部だった。
「竹内さん、どうも」とオレは朝の挨拶をしコーヒーを頼んだ。竹内はオレがどのようなことを頼むのかはある程度わかっているはずだった。裏経済の泡のなかで泳いでいる人間同士、ニオイは同じなのだ。
「先日お話しした山崎建設ですが、オレがどう考えてもつぶしにはいるしかありません。もっとも放置していてもつぶれるのは時間の問題であることはおわかりだと思います」この件に関しての予備情報の大半をオレはこの男から聞いていた。いきさつからいえば、仕掛けの一部をこの男に託するしかないように思った。
「わしの役割を聞かせろ」と竹内は興味を示した。オレはゆっくりと内ポケットから白の角封筒を出した。
「ここに、50万入ってます。僅かではありますが情報料だと思って下さい」オレは竹内の反応を窺った。たとえ50万でも、あとがある”仕事”はおいしいはずだと思うのはわかっていた。はずれでも50万は入る。
「山崎の融手先のひとつに二次製品をつくっている裏日本コンクリート製造と云う会社がありますね?現在は600万と700万の二枚計1300万の額面の取引になっていることは竹内さんの知っている通りです。山崎建設は年商3億です、それに較べ裏日本コンクリート製造は年商23億です。いかにも釣り合いがとれません。調べた所、裏日本コンクリート製造の社長の自宅には最近の日付で個人名の根抵当権がケツに打たれていました。それも竹内さんのグループの一員です。ということはあなた達の仕掛けは着々と進んでいると見るのが妥当ですよね?もし倒す時期をもう少し先にして頂ければ、山崎の手形を更に振り出してもいいのです」手形師、事件師を束ねている竹内にとって”手形用紙”は金を生み出す道具なのだ。どうせしわ寄せは金沢の街金業者が喰らうだけで竹内にとっては屁でもないことなのだ。嘘と芝居で丸め込むのは彼の下にいる手形師、詐欺師連中に任せておけばいい。
「トリはなんぼだ?」
「四分六分で、うちヨンです。金額は3千万が希望です。そして残念ながらこの月末に飛ばすことになるかと思います。時間がありません」オレは無理な数字だろうと思いながらも竹内の返事を待った。竹内はどうやら頭で彼なりの絵図を組み立てているらしく、黙っていた。条件が出るだろうとも思った。
「時間がないから3千は無理だ。2千でなら受けてもいい。それからオマケもくれないか?」こちらは元々、分が悪いのだ。トリ以外すべてイエスだよ。
「ありがたいことです。若い方の期日の手形は分の悪い分、割引無しで私に下さい。抱えるつもりですから。ところで、オマケは何ですの?」
「山崎建設の事務所をその後、占有したい。南無さんにとっては使い道なんか無いだろう。いいか?」
「ええ、よろしいです。自由に使って下さいな。一時的だとは思いますが、後始末が2、3日かかると思うので、その間は私も同居って事でお願いします」倒産すれば債権者や、キリトリ屋が騒ぎ出すに違いないのだ。竹内らがなだれ込んでこれば防波堤にもなるというもんだ。話しはあっけなく終わり、一時間後に山崎の会社で竹内と落ち合うことにして山崎建設へ向かった。

 山崎は覚悟を決めたようで落ち着いていた。女は居なく他の従業員達も現場に出かけたらしく、事務所にはオレと二人っきりになった。
「南無さん、まずは謝ります。ご迷惑をおかけしました」と山崎は深々とオレにお辞儀をした。
「恥ずかしながら、私の生き方は間違っていました。しかしここに至ってはもう後戻りは出来ません。私もあれから知人親戚とまわり金策に明け暮れていました。なんとか、オヤジさんにだけは、と思っている事だけは信じて下さい」
「信じよう」とオレは言った。本心だった。
「ここに女に預けていた金が300万あります。そして昨夜取引関係三カ所に頭を下げて借りてきた手形が3枚で1500万あります。あとは女房に泣きつき、親戚関係から明日中に800万借りれる予定です。それでも届かない分はあさって30日に普通預金に振り込まれる月末分の売掛金でなんとかなると思います。ですから、30日午前中にもう一度ご足労願えますか?」予想外の進展だった。土壇場で状況が一転してきたのだ。観念すると云うことはこういう事なのかともオレは思った。
「つまりは、月末に飛ばすつもりなのだな?」
「その通りです。もともとそう考えていましたから。これ以上やっていても傷口が深まるだけですし、観念しました。息子達だけはなんとかなるようにオヤジさんに頼んで貰えますか?」
「承知した。お前も含めて家族は守ってやる。そして月末の従業員の給料だけは払ってやれ。残りは貰う」売り掛け入金の月末分は1800万、人件費は毎月 1200万位あった。来月入金予定の売掛債権の譲渡書を組み、弁護士を使って元請けに内容証明を発送すればなんとか帳尻が合うはずだからだ。
「女はどうした?」わかっていることだったがオレは一応聞いた。
「名古屋に帰らせました。申し訳ありません」と山崎はまた頭を下げた。オレは山崎に今後やるべき事を説明し、ヤツは一切をオレに任せると言って金庫から銀行印、実印、印鑑証明書数枚等を目の前に置いた。そのあと竹内が来てからは山崎はオレのなすがままに動いてくれた。融手の発行、竹内に対する賃借権の原因証書の作成等々、印鑑が数え切れないほど押された。竹内は帰り際、明日昼までに裏日本コンクリート製造の”紙”を送り届けると言った。解体は完了に向かっていた。
そして、オレはオヤジに報告するために戻った。

 翌日オレは午前中に公証人役場へ赴き、売掛債権譲渡書に確定日付を入れて貰った。お昼頃、竹内の使いがやってきて裏日本コンクリート製造の10月5日期日手形800万を届けに来た。あとは明日9月30日を待てばいいのだ。そしてオヤジに連絡を入れ午後一番に行くことを告げた。
 オヤジはどこかに出かけているらしくしばらく待たされた。オレはなんとか突破口だけは見出していると思っていた。山崎達を預かることについて、オヤジも不満はないはずだ。全ての決済が終わるまでの人質の意味もある。黒部あたりに貸家でも探してほとぼりが冷めるまでそこに放り込んでおけばいいのだ。あとは裏日本コンクリート製造の手形の決済を待って、その金で息子達の復活を徐々に準備をすればいい。やがてオヤジが帰ってきてオレは仏間に通された。蝉の声はもう無かった。
「ご苦労さんだったな。山崎は観念したのか?」とオレに問うた。
「今のところ反抗的なものは見られません」とオレは今までのいきさつと暴力的制圧後の流れをオヤジに説明しだした。オヤジは黙ってオレの話を最後まで聞いていた。心なしかオヤジの顔が曇っているように思えたがオレは気にしなかった。オレへの不満があるはずがないからだ。
「家族の家は儂が用意しよう。黒部の海岸沿いに庭付きの家がある。債権のカタに取った家だがまだ新しいから7,8人は住むことが出来る。それで充分だろう。それと、この手形4枚2300万は儂への内入れとする。300万の現金はおめぇが持っていろ。何かと今後、金が出て行くかも知れないからな。もし明日500万以上入ったら、息子の為の新会社の費用にせよ」と言った。話しはこれで終わりである。あとは明日になにが起こるかでしかないのだ。
 念のためオレはその足で懇意にしている弁護士にアポを入れた。三時に会うことが出来た。委任状、譲渡書、請求書の控え等は全て揃っていた。明日倒産の予定と告げると、早速書類作成を事務方に指示して通知を今すぐに出すと言った。ただし、請求相手方の承諾書が無いので揉めるかも知れない、とも云った。今更、なにをいっても弁護士に任せるしかないのだ。とりあえず着手金として100万を払い金銭のやりとりは全て先生に一任する旨を伝えた。売掛債権は五社で累計 2600万もあるのだ。今も進行中の現場での出来高を入れればさらに増えることもあり得る。弁護士としてはオイシイ分野になるはずだった。
「ついでの話しになりますが、この件絡みで個人の破産申請を先生にお願いに参ると思いますが宜しいですか?」と山崎個人の破産の手続きを後日扱って貰うことも伝えた。
「会社についてはどうするのかね?」当然の問いであったが、これはいかにもまずかった。オレ達の存在が管財人にばれると山崎個人のみならずオレも訴えられる可能性があるからだった。
「必要であれば後日と云うことでお願いします」と言い残してオレは弁護士事務所を出た。
 夕刻になってからオレはオヤジが提供してくれる黒部の住居の下見に行くことにした。県道から少し海側に入った新興住宅地の中にそれはあった。想像よりもモダンな作りで大きく新しかった。オヤジから預かった鍵で中に入ってみた。立派な作りで充分な広さであった。ここで再出発をすればいいのだ。山崎自身は引退させるしかないな、とオレは先のことに考えを巡らせていた。しかしオヤジはなぜあんな顔をしたんだろうか、という思いがオレに湧き出てきた。不満があればオレに言えばいいのだが、それも無かった。

 30日となった。さすがにオレは緊張していたのか朝の四時半頃目覚めた。コーヒをつくる前にバスにお湯を張った。まずは風呂だ、そして朝飯は無理矢理でも多く摂ろう。とてつもない長い時間になることが予想されるからだ。浴槽は心地よくオレの目覚めを進めてくれた。時計を見るとまだ5時半をまわったところでしかなかった。オレはゆっくりと朝食の準備をしながら、きっとうまくいく、と心の中で念じていた。7時に金沢に電話をしたが、山崎の携帯電話は繋がらなかった。家に電話すると妻が出て、聞いていますから10時過ぎに家に来て下さい、とオレに言った。何ら不信感をいだく様子も感じられなかった。
 貧乏性のオレは午前九時過ぎに金沢に着いた。ひとまず山崎建設の事務所を覗いてみた。建設資材を積んだ大型トラックのまわりに数人の従業員が忙しく働いていて普段と何ら変わる様子はなかった。事務所の中には山崎の妻の親戚だという若い女が急遽手伝わされているらしく忙しく伝票整理を行っていた。やはり山崎はここには居なかった。少し早いが山崎の家へ向かい、妻に迎え入れられた。お茶を出しながら妻はオレに山崎が早朝六時頃から出かけていて、今は野々市にある資材置き場で資材の整理をしているはずだと言い、九時前には朝飯を食いに戻ると言っていたのに遅い、とも。山崎の妻はオレにお茶を出したあと、奥に消え800万を持ってオレの前に座りなおした。
「えらい迷惑をおかけしたようで、申し訳ないです。このお金を渡していくようにといわれているので、お確かめ下さい。あとはあの人が帰ってきてからだと言ってました」と頭を下げた。
「わかりました。ところで、奥さんは事情を聞いてますか?」とオレは問い返してみた。
「三日前にあの人から聞かされました。少し怖いですが、私も覚悟は出来てます。息子達も知っているようですが、普段通り現場に出ています。あとは南無さんの力を借りるしかありません。よろしくお願いします」
十時になっても山崎は現れなかった。妻もおかしいと思ったらしく資材置き場まで見に行ってきますと言って出ていった。さすがのオレも不安に囚われだした。一体何処に消えたんだ、と。
 しばらくすると妻は帰ってきた。
「車もあるのに見あたりません。資材の屑を片づけながら燃やしていたみたいなんですが、姿が見えないのです」と彼女も不安そうな顔を見せた。
「仮設プレハブにも居ないのか?」資材置き場にある管理事務所のことを言った。
「居ません、あの人のタバコも放ったままなんです。まだ火も少し燃え残っていましたから、そのままにするというのはありえないんですけど・・・・」確かに変だった。オレは山崎の妻の顔をじっと見つめた。彼女の顔が一瞬凍りついたようになった。
「どうかしたのか?」オレの声もうわずっていた。お互い同じ不安に取り憑かれていたのだ。
「もう一度オレとそこへ行ってみよう」と彼女をせかしてオレの車に乗り込み資材置き場に向かった。お互い黙りこくっていた。
 火は小さくなっていて白い煙が上がっていた。彼女の肩を掴みながら、その前に立った。肩は心なしか震えているようだった。鉄板を敷いて木屑を燃やすということはあり得ないのだ。側には灯油のポリ缶が二つ転がっていた。そして”それ”はそこにあった。黄色く透き通ってしまっている表面の肉皮を透してとぐろを巻いたように見える内蔵が見え、ぐつぐつと泡を上げていた。手足は燃え尽きたらしく炭化してしまって数片の炭のようにしか見えなかった。頭も形をとどめず崩れ落ちてしまっていて脳みその焦げカスが黒く散らばっていた。間違いなくこれは人間なのだ。そして彼女はそれを見ようとしなかった。
「これは木屑ではない!人間だ。これは山崎なのか?よく見ろっ!」とオレの喉はからからになり声は引きつり足に震えが襲ってきた。彼女は肩を振り切るようにしてその場に崩れながら、あの人じゃない、とひと言呟いた。
「馬鹿野郎!おめぇ以外誰がアイツの確認をするんだよっ!立ちやがれっ!」とオレは彼女に怒鳴りながら脇を抱えて立ち上がらせようとしたがオレの力も抜けてしまったようであらがう彼女を押さえることが出来なかった。そして彼女は体を振って地面に伏せてしまった。
「ちがう!あの人じゃない!ううううっ」
 オレは冷静に装いながら山崎建設に電話を入れ、女事務員に山崎の長男に大至急資材置き場に来るように伝えた。月末なので銀行が来ていて社長を待っていると事務員はオレに言った。オレはなんとか山崎の妻を抱えて管理事務所の椅子に座らせた。ガタガタ、ガタガタと小さいからだが震えていた。
「長男が来るまでしっかりしていろっ!今お茶を入れるから少し落ち着け」と彼女の肩を揺さぶった。首がぐらぐらしていて放心状態のまま呟いているばかりだった。お茶を入れるオレの手も震えていて頭の中が真っ白になっていくのがわかった。オレはお茶をゴクリと飲み干した。管理事務所の窓からはまだ白い煙が上がっているのが見えた。山崎の妻は相変わらずだった。オレは落ち着きを取り戻そうと自分の頬を数回力任せに叩いてみた。痛みが感じられる。大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。不思議なことだが口から言葉が出た。
「とにかくオレに任せろ。わかったな」と彼女に言って山崎の亡骸に向かって歩き出した。以前の体の半分ぐらいにしか見えない胴はまだ音を立てていて時々パチンと破裂音を上げながら体液を散らせていた。手を合わせ、もう充分だよ、と情けない声でひと言呟いた。オレは資材置き場の入り口の方まで歩き、長男を待つことにした。晴天の青空が奇妙に感じられた。稲刈りの終わった田圃の向こうに白山が見えていて、もう頂上に雪があるのか白く見えた。
 オヤジに電話を入れた。
「山崎が死にました」
「ほんとうなのか!」オヤジは驚いたようだった。
「焼死ですので判別は警察の方ですると思いますが、ほぼ本人に間違いはないと思います。ヤツは灯油をかぶって木屑と共に燃えてしまいました」しばらく向こうは黙っていた。
「おめぇは大丈夫なのか?もう、帰って来い。これ以上いやな思いをさせたくない、終わりだ。だから今すぐ帰るんだ」
「いや、まだ終わっていません。ヤツの家族を放るわけにはいきません。このままだと家族も皆、踏みつぶされてしまいます。まして、オレに対するケジメもつかない状態です。オレは人殺しではないのです・・・」あとは涙で喋ることが出来なかった。受話器の向こうでオヤジが言った。
「儂が悪いのだ南無。許せ。だからもういいのだ。頼むから帰ってきてくれ」オヤジの声は悲痛に響いていた。
「二、三日だけでもこっちにいます。オレは大丈夫です。このままだと気が済まないのです。わかって下さいよ。このまま何もしなかったらオレはただの獣じゃないですかっ!そうでしょっ!」叫ぶように言ってオレは電話を勝手に切った。泣いてなんか居る暇はもう無いのだ。何度も電話が鳴ったがオレは出なかった。やがて、息子が緊張の面持ちでやってきた。三十過ぎの逞しい躯を持っていた。オレは彼の肩を抱きながら歩いた。
「おふくろさんはその管理事務所の中で休んでいる。・・・。・・・それで社長が死んだ」と告げた。息子の躯はぴくんとして止まった。そして日に焼けた顔でオレをじっと見つめた。
「気を落とすんじゃないぞ。ほら、それだ」とまだくすぶっている山崎の亡骸を指さした。そして息子はオレの手を振り切ってその前に駆け寄り、わああああっ!うおおおおおっ!と叫んで火の中に手を突っ込んだ。オレはすぐさま彼の躯を抱えて熱い体液にまみれた彼の腕を引いた。肉の焼けた臭いと共に吐きそうな糞の臭いがした。怒りと悲しみに突き上げてくるどうしようもない衝動で息子はオレに襲いかかり首を締めながら躯を押し倒した。そして馬乗りになってオレの顔と云わず胸と云わず、ところ構わず殴りまくった。人殺しめっ!お前を殺してやる!ぐわぁあああっ!と。歯も折れ、口の中は血だらけになったが、なすがままでいるしかなかった。殺されてもしようがないのだ。取り返しがつかないなんて言葉は許されなかった。オレは屑以下なのだ、と。息子は涙と涎をオレの顔に垂れ流しながらオレの顔をじっとみた。そしてオレの躯から降り、横にぺたんと座り込んでしまった。あとは声が無く泣き続けた。しばらくしてオレは意を決して息子を抱えて立たせ、言った。
「悪いが、お前は長男だ。残酷だがこれから大変なことが起きてくるだろう。全部お前はそれを見続けなければならない。お前は今オレを恨んでいるかも知れない。でもそれは後回しにしろ。わかるか。オレはお前達のことをお前の父親から頼まれている。つまり、オレは遺言を実行しなければならない立場だと言うことだ。だから今から全てオレの言うことを守るのだ。わかったか?わかったのなら頷くのだ」息子の顔は土色に変色していてガチガチと唇が震えていた。あうあああっ!と泣き叫びながらオレに抱きついてきた。オレは息子を抱きながら、もっと酷いことになってくるんだぞ、と耳の側で呟いた。最後までオレから離れるんじゃないぞ、とも言った。何度も何度も息子はオレの肩に顔をつけながら頷いた。そして管理事務所にいるおふくろを見てやれ、と言ってそちらに向かわせた。
 このようにして計画は全て崩れていった。一寸先は闇になるだろう。自分の描いた絵に自分が溺れてしまったことは認めなければいけなかった。オレ自身の為にも何が起きようが引き下がるわけにはいかないのだ。絶対落ちるわけにはいかん、のだと。
 オレは気を取り直し弁護士に電話をかけ山崎が自殺したことを告げた。予定は予定通りに進めて欲しいとも言った。弁護士は面倒が色々予想されるがやってみると返事をくれた。次にタマゴの事務所に電話を入れ税理士にもう一度タマゴを寄越してくれるように頼んだ。まだ調べて貰うことが出来たので来て欲しいと。自殺のことは伏せておいた。タマゴに電話が替わられてオレは言った、まだ帳簿のことでわからないことがあるから来てくれないか、と。
 そしてオヤジに電話をした。
「先程はすみませんでした。もう落ち着きました」
「では、帰ってくるのだな?」
「いや、帰れません。始末をしなければならないことが沢山あるのです。お願いがあります」
「なんだ?」
「人間を一人だけ寄越して貰えませんか?出来れば慶伊を借りたいのです」
「わかったすぐ向かわせる。無理だけはするんじゃねぇぞ」オヤジはホッとしたようだった。管理事務所の中にはいると二人とも泣いていた。
「今から警察に電話してここに来て貰え」と息子に言った。
 やがて警察がやってきてオレは友人の立場で簡単な質問を受けた。先程息子に殴られた唇の腫れを見て、それはどうした、と聞かれたが材料の鋼管にぶつけた、と答えた。オレの住所氏名を記録して、後日と言うことになり、鑑識を含めた検証が始まった。立ち会いは息子が行った。
 慶伊やタマゴから電話が立て続けに入りオレとの落ち合う先を聞いてきた。先日のホテルのカフェで打ち合わせを行うことにした。オレは息子に終わったら電話して欲しいと告げその場を去った。既に午後1時をまわっていた。

 二人ともロビーで待っていた。面識がお互い無かったので、慶伊とタマゴとを紹介し、カフェに入った。そして二人に山崎が自殺したと言うことをはじめて二人に告げた。それぞれに思いが巡ったのか黙ってオレの説明を聞いていた。慶伊の顔は先日の事を考えたのか暗い顔をしていた。
「慶伊、余計な事を考えるな。オレの頭はもう切り替わっているんだ。お前もそうしろ」と言った。慶伊は黙ってオレに頷いた。
「さて、慶伊は別にしてもタマゴはたぶん初めての体験になると思う。税理士の世界を飛び越えるかも知れない。それぞれの役割はオレが頭で考えてある。だから、お互いに力を合わせてオレを支えて欲しいのだ。お前達にはその力があると踏んでいる。オレにとって、これは一種の戦いなのだ。負け戦になるかも知れないがオレはそれはそれで納得するつもりだ。力を貸して欲しい、頼む!」俺は二人に頭を下げた。今となってはこの二人を頼り、混乱の中で状況を切り開くしかオレには思いつかなかったからである。戦いだといいながらも一体、敵とはなになのかもわかっていない発想でしかなかった。まだ冷静さを取り戻していないオレとしては客観的な意見もまわりに必要だった。そしてまもなく大きな嵐が押し寄せてくる事は間違いなかった。オレはこの二人を見つめながら、不退転の決意を新たにしたのだった。そうしないとオレもまた押しつぶされてしまうからだった。だが現実はそう甘くもなかった。
 しばらくしてタマゴは言った。
「南無さん、ぼくは色々なことを想定してみたのですが、マズイことと、そうでないこととが今後起きてくるように思われるのです」
「マズイほうから言ってくれ」
「先日の調査のときにわかっていたのですが、山崎建設には滞納税金が大量に発生しています。予定納税も含めると、およそ2500万にものぼります。その他社会保険庁に対する保険料滞納分と会わせれば3千万は越すかも知れません。当初の段階では社長が死亡すると言うことは予定に含まれていませんでしたので、ぼくの頭では捨てられていました。しかし、こうなると、お上は冷酷かつ迅速に動きます」
「と、いうと?」
「早ければ明日にでも元請けで発生している売掛金は全て国税か社会保険庁が差し押さえるでしょう」
「うーん、そうなのか」今更ながらそんなことを考えもしないオレの間抜けさ加減に腕を組まざるを得なかった。こうなると来月請求以降の売掛債権はとれないと云うことになる。
「まだあります。銀行預金の全てが銀行側が自殺を知った時点で凍結します。そしてその後不渡りが起き始めると思います」
「きょう普通預金に振り込んでくる売掛金が下ろせないと言うことか?」
「そうです。死んだものには引き出し請求のハンコが押せないと理由は付けるでしょうが、担保債権以外の貸付金の相殺を行うはずです。あの資金繰り状態であれば1円たりとも残りません」従業員の給料も払えなくなり、どんするに貧するになってしまったわけである。全てが崩れていき混乱の中で佇む満身創痍のオレの姿が見えて来るような気がした。弁護士を使っても敗退するのか、と。
「どうすればいいのだ。従業員にも給料は払えず、残された家族も一文無しになってしまう」とオレはタマゴに悲痛な思いで訴えかけた。悪いときには悪い事が”嵐”のように次々と起きてくるのが現実としても、こうなると、もう最低であると云わなければならなかった。くそっ!これでは家族も救えぬ、と腹の中で毒づいた。
 タマゴを見るとなにか言葉を出すのをためらっているように見えた。まだ、何かあるのだ。
「もうこうなったら、なんでもいいや!どんな事でも聞く覚悟は出来たよ。こりゃ、もう、落ちるところまで落ちるしかないな。さっさと言ってくれっ!」タマゴは唾を飲み込むような顔を見せ、そして辺りをはばかるように身を乗り出して、ゆっくりと低い声で話し始めた。
「でもまだ可能性はあります。南無さん落ち着いて聞いて下さい。いいですか。ぼくはあの調査のときに毎月月末に口座から経営者保険が引き落とされていることに気づいていました。したがって、本日分も午前に自動引き落としされているはずです。保険証券の存在も私は書架にあるのを確認しています。五年前からの契約ですから自殺でも有効なはずです。しかし、債権者にばれるとそれも押さえにはいるでしょう。法的な問題もあるので一刻も早く弁護士と相談するべきとぼくは進言します」そしてタマゴは力が抜けたように大きく溜息をついた。
「よくわかった。やっぱりお前は最高だよ。ところで保険金の額はいくらだ?」
「1億円です」
 オレは早速この事を含め弁護士に電話をし、オレの”気持ち”も伝えた。どうすればいいのか、この際指示を仰ぐしかないのだ。
「南無さん、売掛債権についてはいかに国税であろうが全額は取れないのだよ。南無さんが従業員の給料を念頭に置いているのなら話は簡単だよ。私は元請けと話しをして請求を社員の”全てに優先する労働賃金”にスリ替える。したがって従業員のそれぞれの普通預金に賃金として振り込ませるつもりだ。それ以外の金を国が持って行くことになる。だからね従業員の住所、氏名、預金口座番号、元請けに届け出の労働者名簿、そして各従業員の作業日報も含めて大至急ファックスで放り込んでくれないか。だから、この金は南無さんはあきらめてくれ。それとだな、売掛債権請求の代理人となっている私は弁護士法に触れることになるのでな、スリ替えの件は友人の弁護士に頼んでみるよ。報酬はいつでも返すよ。ただし、保険金の受け取り代理人に指定してくれるのならこのまま預かるよ。このような状況になってこれば、たぶん素人だとすんなりとは保険金には辿り着けないと思うからね」
「任せるしかありません。それでですね先生、あとオレはなにをすればいいのですか?」
「一刻も早く印鑑を作り、金沢の代書屋へ行き、法人の代表者の変更を法務局で行うのだよ。くれぐれもアンタだけで行ってはいけない。詐害行為と見なされアンタが危うくなる。代表者に据える息子と動くんだ。変更登記が完了次第、印鑑証明、資格証明、つまり出来上がった法人謄本それと大事な保険証券を持って息子と富山へ来てくれれば、おっぱじめるよ。国税や気づいた債権者達と争いになるかも知れないが、全力であたらせてもらうつもりだ」
「わかりました。早速そのように動きます。先生、頼りにしてますよ」
「ははは、あんたに似合わないことを言うね。我々としてはだな、”良いこと”もやらなきゃいかんということだよ、なあ南無さん。私は力を込めて応援するよ」そう言って弁護士の電話は切れた。嵐の前の静けさとはこういう事も含めて言うのだな、と一人呟いた。
 オレは手短に今後の行動を話し合った。慶伊にはキリトリ屋の類から山崎の自宅で家族を守る事、そして、万が一の為、タマゴの身辺も警戒することも付け加えた。タマゴには息子に倒産に至る事情を簡単に説明してくれ、と言った。我々に対する誤解を解いていく必要があったからだ。全て今後は息子の動き如何であることは明白なのだ。自分よりタマゴの方がうってつけだと思えた。
「ちょっと質問していいですか?先程から気になっていたんですが、その顔、一体誰に殴られたんですか?」と慶伊は怒ったような顔で話に割り込んだ。
「あっ、これね。そんなにひどくなってきてるか?」時間の経過と共に顔の左半分が熱くなってきているのには気づいていた。舌を口の中にグルリと回すと中が二、三カ所が切れているようだった。
「息子に殴られたんだよ。まっ、恨まれても仕方がないだろう」慶伊にとっては予想外の答えだったらしく、はっとした表情を見せたが、しばらくすると彼なりに納得したようだった。だから、息子の説得はタマゴに頼みたいのだよ、とオレは心の中で呟いた。タマゴには慶伊を連れて山崎建設に行き弁護士が必要といった書類関係を全てファックスをしてその他、帳簿類、その裏付け書類、印鑑、手形小切手類等、金庫の中のもの一切を段ボールに詰め込みホテルの部屋で保管するように言った。とにかく債権者達に見つかるとマズイものは全て我々の手に置いていくのは常道であるからだ。それがおわったら、山崎の自宅へ慶伊は常駐、タマゴは息子と連絡を取り二人っきりで一通りの説明を行い、オレと落ち合えるように段取りを組んで欲しい、と言った。二人は早速飛び出していった。
 しばらくすると息子から電話が入り現場検証が終わったことを告げた。遺体は金沢大学病院に運ばれ解剖後引き渡すと言うことであった。義母を連れていったん自宅に帰るとも言っていた。3時をまわっていた。不渡りが始まりだすのだ。
 オレは竹内に電話を入れた。
「山崎が先程自殺した」
「そうか。・・・・・。で、どうするのだ?」
「占有を早めることが出来ますか?」
「いつでもOKだよ」
「では四時頃から始めて下さい。オレは先に入ります」ホテルに慶伊達の為に2室予約をしてから事務所に向かった。
 タマゴ達の作業は終了したようであった。事務員はもう既に話しを知っているらしく涙目になっていた。オレは事務員にいったん山崎の自宅に引き上げるように言って先に立ち去らせた。タマゴには自宅に息子が帰っているはずだからオレの指示で動いていると告げろ、と言った。
「代書屋に連れて行き息子の名で代表者変更登記の書類作成を依頼してくれ。代書屋には電話を入れておく。そしてその足で印鑑屋に寄り至急でゴム印も作成するんだ。全て指示して息子にやらせるんだぞ。でも忘れるなよ。オレ達は陰(カゲ)でしかないんだからな。慶伊はそのまま自宅に残ってくれないか。たぶん今晩から明日あたりがキツイと思う。キリトリ屋は力で押し返せ。どうせ二、三日で全員を黒部に待避させるつもりなんだ。頼むぞ。家族には指一本触れさせるんじゃない」二人とも落ち着いて聞いていた。タマゴに登記費用として30万渡し終了後段ボールはホテルに運び込むように指示した。そして二人は自宅へむかった。オレは息子に電話を入れあらためて気を取り直すように言った。そしてタマゴ達がそちらに行ったことも伝えた。表情は見えないがしっかりと受け答えをした。

 従業員はまだ現場から帰ってくる時刻ではない。オレはしばらく一人で事務所のソファに座っていた。電話は鳴りっぱなしにしておいた。3時半をまわってから二人、三人と取引業者らしい人間が集まりだした。誰も事務所にいないので、その内の一人がやってきて「あなたは?」と聞いた。「債権者だよ」とぽつりとだけ答えた。4時近くになると騒々しいくらいに人が集まりだした。銀行員らしき者も居た。どうやら自殺のことが伝わっているようだった。相変わらず電話が騒々しく鳴っていたが誰も出なかった。時折疑わしい視線を投げかけてくる者が居たが腫れ上がったオレの顔に見返されると一様に目を外した。自宅にも押しかけた者も居たらしく慶伊に追い返され愚痴を言っている者も居た。彼らは何か出来るわけもなくただ居るしかないのだ。
 4時半頃、脇に木板を抱えた40前後の男が数人を従え事務所の入り口でオレの名前を呼んだ。オレはここだ、と手を挙げた。上下のスーツをきっちり身につけた男であった。
「お初です。私は竹内の若い者で田口と云います。ゆえあって”名札”はありません。お見知りおき下さい」と頭を下げ名刺を差し出した。有限会社 北国葬儀友愛互助会 代表取締役 田口健次と、あった。名札が降ろされていると云う事は堅気の身分になっていると云う事を意味するのだ。そして、プロの占有屋であると言う事でもあった。オレと一通りの情報交換をすると、彼は坊主頭で首から長くて太い数珠をぶら下げている大男を側に従え、集まっている一般債権者に向かって大声で言った。
「えぇー、お集まりの皆さん!ご苦労様です。わたくしは北国葬儀友愛互助会の田口と申します。先日より山崎さんと取り交わした契約によりこの事務所を借りる事になっていました。詳しい事はこの通り公正証書を取り交わしております。またこの土地建物には私共の賃借権の登記も行われております。山崎さんは残念な事に今日お亡くなりになられたそうで私も驚いております。いずれ葬儀の御依頼もあるようなので準備をしなければいけません。御不満も御座いましょうが、皆さんの存在がはっきり言って、”目障り”ですので今から出て頂きます。宜しいでしょうかっ!」と公正証書と賃借権の登記済証を手で振りかざしながら宣言した。そしてみんなは渋々出て行き始めた。表の駐車場にたむろしていた名残惜しそうな債権者も他の若い衆に怒鳴られ追い立てられ静けさが戻った。次に山崎建設の看板が外され代わりの看板が掲げられた。先程田口が脇に抱えてきた木板が彼らの看板だったのだ。しばらくするとトラックが来て若い衆が一斉に手伝い、真新しい棺桶が五個運び入れられ、ひとつは事務所のカウンターにドンと置かれた。窓には彼らのもっともらしいポスターが窓にペタペタと貼られ始めた。
「南無さん、これで完了です。あとは二人だけ宿泊させます。明日あたりから色々と揉め出すかと思いますが。力で押し切ってしまいます。所有者以外の異議申し立てなんか屁のカッパですわ。ですから安心して下さい」オレはあっけにとられてしまっていた。色々な世界があるものだ、と。占有者によって将来の不動産競売を視野に入れているのだと気づくにはそう時間がかからなかった。二束三文で競落して普通の相場で転売するのだろう、と。これで一般債権者のほとんどの意志は挫かれるだろう、とオレは思った。竹内の笑みが浮かんだ。

 このような状況で倒産を迎えたのだが、出会う出来事自体が想像を超えていった。戸惑いがなかったと云えば嘘になるだろう。もはやハッタリで立っているしかなかったのだ。このまま延々と続いたら、オレの判断ミスを誘い、それこそ遺族に対して申し開きが出来なくなる事を怖れていた。オレは遅い時間ではあったが山崎の息子達と話しをする事にした。しょせん、日は流れていくのだ。
 慶伊は頑張っていたようだった。タマゴも同席して山崎の妻、長男夫婦、次男と話し合いを行った。長男はオレの腫れている顔を見て謝った。これはこれで便利なんだよ、と言って気にするな、と。山崎の遺体は明日の午後には自宅に帰ってくるという連絡が警察から入っていた。オレは会社の現況を簡単に話をした。明日午前中に全員揃って従業員の私物を取りに行かせる事、帰りには自宅で取り敢えずの給料の一部を支払う事、引っ越しを考えている事、将来長男を筆頭にして再生をさせるつもりがあると言う事、につきた。そして今朝方、山崎の妻から預かった800万を戻した。
「これで従業員の給料にするんだ。あとの給料については弁護士に既に話は付いている。内容については明日タマゴから従業員に説明させるから心配しなくても良い、そしてお父さんの葬儀の事だが、このような事態となっては金沢に於いて行う事は反対したい。お父さんの故郷で執り行う事がトラブルを最小限に出来ると思う。段取りについては義母さんとアンタが朝日町にいる親戚と話し合って早急に決めて欲しい」全員黙ってオレの言う事に頷きながら聞いていた。
「引っ越しについてですが、何処へ行けばいいのですか?」と長男はオレに聞いた。
「黒部に瀟洒な家が用意してある。そこへお前達夫婦と娘、義母さんと行って欲しい。朝日町や糸魚川にも近いので親戚関係とも相談しやすいだろう。次男の方は今のところ金沢のアパートにいても問題はないと思う。いやであれば兄と一緒に黒部へ行ってもいい。運送屋はオレが富山で手配するから心配するな」次男は金沢にいる事にすると言った。
「その他の事についての打ち合わせは早朝7時までにアンタがオレのホテルに来て欲しい。その時に指示する」とオレは敢えてみんなの前で保険金の事は言わなかった。何処に情報が漏れるかわからないからだ。
 慶伊を残してオレとタマゴがホテルに戻ったのは深夜12時過ぎであった。お互い緊張で疲れていたが、そのまま打ち合わせに入った。明日9時に代書屋へ息子と行って出来上がっている登記書類にハンコを押させること。10時までに自宅に戻り従業員に説明し給料を渡す事等々である。
「なにか他にあるかな?」
「長男の債務保証額の事があります。本人とも打ち合わせをしたのですが、今日の銀行の相殺額を以てしても届かない分が出るように思います。もっとも本人にはこれと言った財産がありませんので放っておけば置いたになりますが、将来の再生の事を考えると響くかも知れません。県信用保証協会付きと言っても全国共通なので蹴飛ばすと一生つきまとうと思います。明日まで予測残債を本人ともう一度話して明細を出しておきます」保険金さえ下りればなんとかなる。問題はどのような債権者がそれを嗅ぎつけて押さえに入ってくるかだけなのだ。ヘタを打てば1円たりとも残らなくなるからだった。
 翌朝、長男がやってきて、保険金についてのあらましを話した。少し、タマゴから聞いているらしく、理解は早かった。
「それで悪いが、お前は葬式には出れないだろうと思う。義母さんと次男に任せて明日から二日余りオレと行動を共にして欲しい。とにかく今日はあとでタマゴと代書屋へ行ってきてくれ」と言って後はタマゴに任せた。オレは今日で金沢を離れるつもりでいた。もうする事がここでは無いのだ。あとは弁護士に任せるしかなかった。葬儀屋に変わった建設会社跡は県外からやって来たキリトリ屋と相当揉め、パトの出動となったと竹内から電話が入った。自宅の方はその分静かであった。こんなものかも知れない、ハイエナは発熱する部分に集まるものなのだ。オレはその夜、慶伊を残してタマゴと富山へ戻った。
 色々ぎくしゃくはしたが全て予定通り進んだと言えよう。葬儀も何事もなく終え、遺族の黒部への移動も完了した。弁護士はオレに二ヶ月ぐらいかかるだろうと言った。オレの手元にはオヤジから預かった金が90万ばかり残った。遺族の生活費にはなるだろうと長男に渡した。
「助かります。あのぉ、後日落ち着いたら南無さんの社長にお会いしたいのですが・・・・」と言った。
「お前がそうしたいのであればそうしろ、オレは別に何とも言えない」
「いえ、死んだ父も迷惑をかけています。息子である私がケジメを付けに行くしかありません。そうすれば家族みんなで新たな世界で生きていける気がするのです。このような世界はもう堪えられません。私達は生まれ変わりたいのです」オレもそう思うと付け加えた。事が終われば一切合切オレ達と縁を切るべきだと。オヤジも異論があるはずもないのだ。

 11月の半ばを過ぎた頃であった。弁護士から完了の電話が入り息子を連れて2時頃まで来て欲しいと電話があった。オレは息子を連れて2時前に事務所に入った。
「南無さん、やはり国税が強敵だったよ。2700万押さえられて7300万だけがとれる事になった。今から息子さんと銀行に行って引き下ろしてくる。しばらく待ってくれ」と言って息子を連れて出ていった。
 ようやくこれで終わるのだと言う思いと共に、死んだ山崎の顔がオレの前にぷかりと浮かび上がってきた。笑っても怒ってもいない無表情の顔であった。これでいいんか?と問うてみたが返事があるわけもなく、やがて山崎の顔はそのままオレの前から消えていった。弁護士への追加報酬は100万だった。そのままオレは息子と共にオヤジの家に向かった。道々の風景はもう既に秋の終わりを告げていた。立山の峰々は既に雪に覆われていた。
「長い間ご迷惑をかけていました。申し訳ありません。社長や南無さんが居なければ私達はどうなっていたかもわかりません。家族一同感謝しています。ついては南無さんのおかげで無事保険金がおりました。負担して頂いていた父の借金や諸費用合わせて精算をしに来ました」と息子は言いオレからあらかじめ聞いていた2600万をテーブルの上に積んだ。
「わかった。いただくよ。全ての精算はこれで終わっている。あとは儂達と会う事もないだろう。元気でやるんだな」お互いこれであっけなく終わった。
 帰りの車の中で息子はオレに300万をお礼と言って渡した。躊躇するオレの顔を見てとったか真顔で言った。
「少ないかも知れませんが手切れ金です。持って行って下さい。あなたとも永久にオサラバです。私達は数日でお借りしている家も出て妻の実家の近くへ引っ越します。もうあなたとは会いません」それもそうだとオレはその手切れ金を受け取った。
 もうひと月も経てば雪が降りだすだろう、とオレは車窓の外を眺めていた。

合掌 享年59歳

-了-

2006年1月1日日曜日

マドラー

 久しぶりにオヤジから夕飯の誘いの電話があった。
「タモンに七時頃まで来い」
 そういえば二ヶ月以上も顔を見せていなかった。名古屋での仕事がトラブル続きになり最終的な弁護士との交渉事に振り回されていたからである。また向こうとの往復出張も重なっていていささか気分も滅入っていた。
 オレはそこそこに書類仕事を片づけて車に乗り込み夕刻のラッシュを抜けハイウェイを飛ばした。左手に夕日を浴びた穏やかな日本海が紅に染まった鏡のように広がっていた。いつもであればもうすぐ迎えるであろう大陸の風で荒れ模様を見せる海であるが珍しく小春日和となっていた。長く北陸に住むようになると時々見せるこのような風景に心が和む。しかし天はヤヌスの如く明日には牙を剥き出し違った顔を見せつけることもある。

 二ヶ月前、オレは名古屋のダチの情報により第二名神高速道路の工事が進むなか、桑名にある廃棄物処理工場移転の利権絡みに介入していた。用地買収金がたんまり入る地元廃棄物処理会社の利権を裏稼業として見過ごすことが出来ないからだった。また工場移転候補地の確保はオレのサイドで既に出来上がっており廃棄物処理会社との交渉も思いのほか順調に進んでいた。しかしここ大詰めというところで、四日市に本拠地を置いている組織が突然代理人という触れこみで利権介入してきたのであった。
 オレが常宿にしていた名古屋中区の錦通りに面しているホテルのロビーへいかにも厳つい軍団として数台の車でやって来た彼等はロビーに溜まり、その内の数人が一階にあるカフェで待っているオレの席にやってきた。篠塚と名乗った先方の幹部格の男の言葉は丁重であったが中身はとてもオレがのめる条件ではなかった。つまり「手を引け」と言うことに他ならなかった。こちらはオレを含めて三人であったが下がるわけにはいかなかった。なんと言っても玉(利権金額)は大きかった。特に今回オレのボディガードも兼ねていた亜根羽はそれなりの組の幹部としてのメンツも絡み、話し合いの場としては決して引っ込むこともなく相手方と目で火花を散らしていた。こういう物事の交渉ごとというものはどの程度まで互いに突っ張るのかと言うことでしかなかったがお互いに最終的なそれには触れないようにしていた。いったん結論は次回と言うことでその場を納めたが、納まりつかなかったのはオレ達であった。ヤツらは仕掛けたオレ達に正面切って横車を押してきたのである。地の利で形勢不利というものの一円も取れないという事になれば看板を下ろすしかなかったからだ。部屋に戻ってからのオレ達の気持ちも憤懣やるかたない気持ちであった。亜根羽は特に黙りこくったまま何か考えているようであったが敢えてオレはそれを無視した。割の合わないことだけは決してしてはいけないことであるからだ。
「南無さん、どう切り回すつもりなんでぇ?」と亜根羽は怒りに満ちた顔をオレに見せながら聞いた。
「このまま一文無しになるわけにはいかねぇ。といってもこのままの持久戦では地の利の薄いオレ達が不利に決まっている。おめぇになんかいい考えでもあるってのか?」
 オレはヤクザの常套句を聞くつもりはなかった。メンツに傾けば銭を失うだけでは済まないことも明白であるからだ。
「考えるためにあんたがいるんだろうがっ!おれっちにそんなもんなんかあるかよっ!だがな、このまま引き下がるわけにはいかねぇ。あんたさえ決めてくれたらナンボでも突っ張ったるわい」と亜根羽はオレに答えた。

 盛り場のほぼ真ん中に位置する「タモン」はいわば市内一番の高級ステーキ・ハウスである。オレはそのまま車を店の正面に止め店内にに入ると受付で車のキーを預けた。慇懃な素振りで支配人がオレを出迎え丁重に頭を低く下げオヤジの席へとオレを案内した。
「永らく失礼をしていました」とオレはオヤジに頭を下げると支配人が後ろに引いた椅子に腰をかけた。テーブルの上にある83年のシャトーマルゴーをオレのワイングラスに注ぐと静かに向こうへ去っていった。
「おう、名古屋での一件は聞いてるよ。スクラップ屋というものは所詮ウダウダ言うに決まっているもんだ。ま、はじき飛ばされないようにな」とニヤリと笑ってオレの顔を見た。
 もうすでにトラブル情報は耳に入っているというわけだ。
「はぁ、どうも予想外の展開になってきましてね。二つにひとつという塩梅になってきました」もうオレにとっても行くか泣くかでも済まなくなってきていた。
「南無よ、値打ちはどれくらいあるんだ?」
「一丁以上(一億)はいくでしょうね」
「では結論が出てるようなもんじゃねぇか」
「はぁ?」
「出方によっちゃ、二丁にもなりうるじゃねぇか。頭は使うだけでは足りないんだよ。駒が動かせるかどうかでしかねぇ。いつまでも半端なことするんじゃねぇ。大阪の内川には話をつけたる」
 今は大阪にいる内川はオヤジの昔の実子分であり亜根羽の大親分格に当たる人間であった。いかのオレでもそのクラスにまで口先を入れるわけにはいかなかった。また内川まで巻き込むとなると事が大きくなり過ぎて収拾がつかなくなることも考えられた。しかしここに至ってはオレは黙っているしかなかった。オヤジはそんなオレを無視するかのように勝手に話を進めていくつもりのようであった。そのままオヤジは電話でオレと一緒に戻ってきた亜根羽を呼び出し、次の店でオレ達三人が落ち合った。

 そしてオレは三日後再び亜根羽の他に20人ぐらい連れて四日市に向かった。そして大阪の内川からも応援部隊として30人ぐらいが一足先に四日市諏訪栄町のホテルに入り込んでいた。
 四日市の篠塚の思うような展開にならなかったことはその結末が示していた。亜根羽は、双方が話し合いのために落ち合ったホテルの最上階ラウンジでいきなり篠塚の手首を押さえつけ出刃を振り下ろし左指5本を第二関節から切り落としたのであった。あっという間の出来事でありこのオレでさえ予想だにしていない出来事であった。
「篠塚さん、この返しはオレの小指でええやろ」亜根羽はそう言い終わると自分の左指の第一関節にたった今使った出刃を打ち下ろし指先を切り離した。
「これで互いの目方が合うじゃろうが」
 亜根羽はそう言ってウエイターにスコッチの水割りを用意させ自分の切り落とした指をそこに入れゆっくりとグラスの中を回し始めた。

-了-