2005年3月7日月曜日

赤提灯

 雨が一日中、鬱陶しく降り続いていた。いつもは通り過ぎてしまうその赤提灯であったが、夕暮れ時の小雨が煙る薄もやの中で浮き上がるように見えた。なにか垂れ下がってきた霧に覆われた水面に浮かびあがるように、その明かりがついたり消えたりしているようにオレには思えたのだ。
 通りから少しだけ奥まった草地にその店はあった。錆び付いた仮説プレハブに貧弱なひさしをつけただけの佇まいだ。居酒屋のしるしは提灯一個であった。オレは車を回り込ませて店の向かい側にある草で覆われた空地に車を止めた。まるでその明かりに惹かれるようにして車から降り立ったのだった。
 そんな時が誰にでもあるようにオレはふらっと暖簾をくぐって木の丸椅子に腰をかけていた。床が泥だらけであるところを見ると客層はそういう人種が多いのだろう。五、六人しか座れない丸椅子がカウンターに並んでいるだけで客は居なかった。
 四十過ぎにみえる女が背を向けて薄汚れた厨房でなにかを作っていた。
「なに、飲まれます?」振り向きもせずその女は言った。
「燗酒、・・・コップでくれないか」とオレはそのまま鷹揚のない声で応えた。
 しばらくして、コップ酒とキュウリとキャベツの浅漬けがカウンターに置かれた。酒は地物で熱過ぎず温過ぎずで、じわりと五臓六腑にしみわたっていった。
「干いわしを焼いてくれないか」とオレはその女に言った。そのとき初めてお互いの目があった。そして、女はあっ、という顔をオレに見せた。オレは不思議そうな顔をしてその女を見つめたが思い当たる顔のようには思えなかった。
「南無さん、でしょう?」と女は言った。
「そうだが、あんたが誰なのか、思い出されない。悪いな」とオレは女の顔をじっと見て言った。頭は過去をさかのぼっているのだが、この年になると大概が途中で諦めてしまう自分を見ることになる。
「伊井正一の女房の小夜子です。・・・・。思い出されましたか?」言葉に間合いを取りながら女はオレの目を確認するかのようにゆっくりとした速度で言った。
 オレは記憶の奥襞にこびりついている忘れさられた残滓のかけらを取り出し始めた。艶めかしく蠢く火照った白い裸身が暗闇の中から這い出てきて、ながいあいだ忘れていた匂いが甦るかのようにオレを包み込み始めた。
 そうか二十年前か、と。

 オレは手数料を払わない伊井に切れまくっていた。もっとも詐欺の片棒を担いだ報酬だが、仕事に貴賎は無いのだ。とにかく伊井はオレから逃げ回り、言い訳の電話しかよこさない自称企業舎弟の半端野郎だった。仕方なく奴の自宅に押し入ることにした。伊井はよくあるタイプで知能の足りない若衆をボディ・ガードとしていつもそばに置いていた。二尺鋼管をスーツの背中に差し込んで家に上がり込んだ。返事が無くそのまま二階にかけ上がった。奥の部屋から女のあえぎ声が聞こえていたがそれがなおオレの怒りに火を付けたようであった。オレはそのままドアを開け怒鳴り込んだ。
「200万キッチリ払って貰うぜ!アホンダラッ!」
 小夜子の目はほとんど白目を剥いていて男の背中に手を回し、全身を男に押しつけるように激しく腰を振っていた。高まる声をあげ続ける女の上には汗ばんだ般若の背中が登っていた。一瞬、振り上げた鋼管の行き先が無くただそこで呆然とオレは立ちつくすしかなかった。上に乗っている男は伊井ではなく棹師の和男だったからだ。
「わるいな、にいちゃん、も、そっと、そこでまっちくれぇ」と言って腰を振るのをやめなかった。
「下で待つ」とオレは和男に怒鳴るように言って階下のリビングに降りて終わるのを待つことにした。
 伊井はいなく女房は変わりに棹師のちんぼをくわえこんでいる真っ最中だった。しばらくして和男は裸のまま下りてきて、まだ濡れそぼっている棹をぶら下げながらオレに言った。
「これも仕事でな、南無よ、当分奴は金なんかねぇよ。悪いけど、今度電話で知らせるよ。まだ終わってないのでな」そう言いながらサイド・ボードのウイスキーの瓶を持って二階に上がっていった。

 伊井はもうオレから逃げられないと悟り、静かに話し始めた。
「カタをちゃんとつけるから、しばらくだけ、辛抱してくれ。色つけて払うから、今度の仕事は間違いないんだよ、なっ」また同じ言葉だ。
「あのな、おめぇは時間の問題なんだよ。お金も貰えないまま、オレまでパクられちゃかなわんがな。先によこせっ!馬鹿野郎!」
 サツの旦那連中の動きがあることはオレの耳に入っていた。伊井がパクられるとオレの身も安全とは言えなかった。せめて、金を掴んでパクられたかった。オレの家には1円もなかったのだ。子供の授業料も家賃も滞納したままだ。200万はデカかった。
「じゃーな、ぶち殺してやるから、そこに直れっ!」
 言い終わらない内にオレはまずそばにいつもいるポンタという知恵回りの悪い野郎を隠し持った鋼管でぶちのめし、伊井の顔を蹴り上げた。二人とも痛みでのたうち回っていた。ポンタは何度も立ち上がろうとしたがその度オレの鋼管でぶちのめされていた。さすがに丈夫な野郎だった。
「伊井っ!どこででも金を作ってこいっ!今からオレと一緒に来やがれっ!」といって伊井の体を掴んでその場に引きずり倒して蹴りを入れまくった。
「1週間かかるんだよ、1年になるまで・・・。頼むからやめてくれっ!」伊井の顔は血だらけで、オレに手を合わせ泣いた。1年?ってなにが1年かも考えもしなかった。煮え滾った脳みそは救いようがなく、暴力に走るのだ。
「オレは今、金がいるんだよっ!ボケがっ!甘いこと抜かすんじゃねぇ!」
 オレは許せなかった。このままだとまたオレだけが貧乏くじを引いてしまうのが目に見えていたからだ。金もなくて檻の中には入れねぇ、と。でもその時「棹師の和男」の言葉がひっかかった。ハッカ(一文無し)なのは間違いないようだ。あいつ等も金を取らなきゃならないはずだ。ハッカ野郎から金は取れない。オレは立ったまま二人を見下ろした。
「伊井っ、じゃぁな、てめぇ、聞くがな、一体いつまでオレに待てって言うんだよ」
オレは自分の気をできるだけ鎮めるようにしながら数回深呼吸をした。もうこれ以上痛めつけても意味が無いからだった。それに伊井にとってはこれで充分だろうとも思った。やり過ぎると道田一家のメンツをつぶしかねないからだ。棹師の和男の手前もあった。電話があったからだ。「南無、我慢しろ、おめぇが元々奴の口車にのったからなんだよ」と。オレはしばらくして呼吸を整え事務所の応接セットに腰を下ろした。鋼管は手から離さなかった。ポンタがもう起きあがろうと動いていたからだ。バケモノめっ!伊井はポケットからハンカチを取り出し、唇の血を拭いながらホッとした顔でオレに懇願した。
「ここまで来たからにはもう嘘は無いんだよ。腹はくくってるんだ。わかってくれよ。俺だって道田のアニキにみて貰っているハシクレだ。1週間だけ待ってくれ。約束は守る、なっ、取り敢えずここに十万だけある。これっぽっちで済まないが持っててくれ。あとは間違いなく南無さんの納得する形をつけるよ。このとおりだ」とオレの前で頭を下げた。信じてはいなかったが、身体で教えておけば奴らの中に食い込めるという計算も働いていた。なにか美味しいものにありついているのかも知れないとゲスな考えもあった。道田とは金の繋がりだと言うことはオレも知っていた。三千(債権)は持っていると言うことをオレは「棹師の和男」から聞いていたからだ。しょせんヤクザに縛られた詐欺師でしかないのだ。げんに和男は道田の身内の者であり伊井の監視をしている。和男にとって伊井の女房の小夜子は人質にした女にしか過ぎない。棹師とはしょせんそんなものだ。そんなことよりオレが恐れていたのは警察の動きだった。出来る限り持ちこたえて欲しかった。ひょっとすればオレへのカウント・ダウンも視野に入れておく必要があったからだ。形勢は最悪で、またオレはスッテンのまま檻の中に入る可能性があった。伊井がパクられたら、たぶんオレにも切符は出るだろう。そうなれば当分浮かび上がれないだろう、と。それにしても伊井は自分の置かれている状況が理解出来ているのかさえオレには疑問に思わざるを得なかった。この極楽野郎め。
「今度は生まれ変われるんだよ。うまく説明出来ないが、南無さんも安心して欲しいんだよ。とにかく俺もけちくさい世界からスッキリしたいんだ。頼むっ!」
「オレに油断させて蒸けるんじゃねぇだろうな?」
「はは、信じてよ。まだ俺には小さな子供もいるんだ。そいつの為にもそんなことはしないよ。なっ、大丈夫だよ」妙に自信を持たせる言いようであった。小夜子との間にはまだ学校前の男の子供がいるのをオレも知っていた。棹師をくわえ込んでいる女房でも伊井には家庭なのか、とも思って白けたが、おちるところがもう無いオレ達にとっては、最早どうでもいいことなのだ。堕ちると言うことはそういうことだからだ。
「わかったよ、とにかく今日はひとまず帰る。あっ、それからな、そのバケモノに言っておけ。オレが帰るまで立つなとな。ったくっ、気色悪い野郎だぜ」オレは立ち上がりざまバケモノを蹴り倒し伊井の事務所から出た。
「けっ!十万ぽっちかっ!運もナニもねぇ、オレって最低だな」口から自然に罵りの言葉が出てきた。
 間違いなくオレは身も心も最低なのだ。

 小夜子は干いわしを焼きながら懐かしそうにオレに話しかけてきた。雨で出足が鈍っているのか客はまだ無かった。
「もう二十年も過ぎたかな。南無さんも元気で何よりだね。わたしは見た通りよ。わたしも頂いていいかな?」
「あぁ、好きなもの飲めばいいだろう」
 小夜子は冷蔵庫からビールを取り出しコップとカウンターに置いた。オレは瓶をとりあげ小夜子のコップにそれをついだ。色香は胸元からのぞくその白い肌にまだ残っていた。
「あのね、こちらへ帰ってもう五年になるわ。結局のところ行くところが無くなっちゃってね。今はここの地主さんの世話を受けているっていうわけよ」
 髪のほつれには白いものが見えていたが近所の爺連中にはそれなりに通用するだろう。手首の切り傷の跡を見ると、それなりの地獄を歩まされたのだろう。オレも小夜子もその地獄の底で生き残っていたのである。

 伊井にも昔はまともな給料取りの時代があった。今は電話を数台並べてそれぞれの電話機に貼り付けてあるラベルの会社名で若い女が応対に出る名義屋稼業を行っていた。信販会社専門に喰う詐欺師である。五つに一つが「嘘」というヤツである。その一つで儲けるのだが何事にも終わりはあるものである。そしてその終わりがオレと共に近づきつつあった。たぶん伊井は最後の大きなヤマを踏むのかも知れないとオレは思っていた。道田から借りている金はまともな仕事で返すのは不可能なのだ。ちっぽけな詐欺師では金利で追いまくられるだけに過ぎない。オレにとっての1週間は長かった。途中何度か不安に駆られ伊井に電話をかけてみたりした。連絡はきちんと取れていた。ヤツがパクられていないだけでもオレの不安感は取り除かれていくという奇妙な繋がりに不思議さを覚えた。そして早朝6時に伊井からオレに電話がかかった。
「南無さん、今日のお昼過ぎにはなんとかなるだろう。今からその件でポンタと出かけるので連絡を待っていてくれ」と明るく弾んだ声で、オレの期待も高まった。とにかく今日が無事で終わればいいのだ、とオレはなんども頭の奥底で繰り返した。
 オレはいつものように昼時間をつぶすのが日課となっていた近所の食堂へ行きビールとラーメンを注文した。近所でも評判のワルで通ってしまっているオレが来ることを望んでいないのは分かっていたが、別段店で悪さをするわけではないのでオレは気にしていなかった。店主はいつも通り愛想笑いだけ見せチャーシュの屑をツマミとしてビールをテーブルに置いた。さていよいよだな、とオレは勝手に200万の割り振りに考えを巡らせてテレビをぼっと見ていた。そして突然、伊井の名前がオレの耳に飛び込んできて思わず箸を手から落としてしまった。店のテレビからその名が聞こえてきたのだ。オレはすぐさま立ち上がりテレビの前に走り寄って音声を上げた。オレの手は震え画面に釘付けになった。
「今日午前10時頃・・・・中島保夫さん32才の運転する車が・・・崖から転落し同乗者の伊井正一さん39才は車から投げ出され即死・・・」
 オレにとってはとても信じられないことであった。どうして岐阜県境の山道なんかで、・・・、と。オレはその場に蹲るしかなかった。
「クソっ!なんでなんだよっ!ぇえっ!」と声を上げた。オレの頭は真っ白になりぐるぐる果てしなく回り全ての思考が止まる思いになっていた。しばらくして、オレは椅子に座りながら考えた。伊井は本当に死んだのだろうか、もし死んだのだったらアイツが言っていた『ヤマ』ってなんだったのだろうか、それとも最後まで嘘っぱちのままの詐欺師だったのか。疑念が次から次へと湧き出てきて頭が混乱するばかりだった。200万が消えたことは間違いなく、脱力感に苛まれながらもオレは気持ちの立て直しをするしかなかった。まずは”事故”が本当かどうかから始めなくてはならないだろうとオレは思った。もし伊井が本当に死んでいるのであればオレの身がかなり安全になったと云うことにも繋がる。手っ取り早く確かめるしかなかった。オレは近くの公衆電話ボックスから二課知能犯の能波へ電話を入れた。能波は在席していて電話に出た。
「あのう、南無ですが、スンマセンが今テレビのニュースで伊井のこと、・・」
「馬鹿野郎っ!おめぇ!ぬけぬけと、よう電話しやがるのぅ、あーんっ?」
「いや、スンマセン、スンマセン、でもびっくりしたもんですから。能波さんだったらわかると思って電話しました。スンマセン」
「ふんっ!ハナクソ野郎がっ!これで終わったと思うなよっ!まったく、おめぇは喰えねぇ野郎だよ。電話した勇気に免じて教えてやるよ。うちの連中がガラの確認をした。ポンタと共にアノ世へ行ったよ。けっ!取り逃がしたんだよ、昨晩切符が出てな、今朝六時に踏み込んだらもう蒸けていたよ。それからな、おめぇにも近々出てきて貰うぞっ!わかったなっ!首を洗って待ってろ」ガチャンと電話は切れた。受話器を握っていた掌はじっとり汗をかいていた。オレは急いで家に向かった。こうなるとアイツとの絡みのメモ類なんか全部ヤバイことになる、と気が急いだ。とにかく焼却するかどこかに隠すしかないのだ。せこい考えの自分に情けない気持ちになりながら、とにかくあとはオレ次第で切り抜ければ、どうって事は無いのだ、と言い聞かせた。パクられてたまるかっ!

 夕方『棹師の和男』から電話が入った。
「南無さんよ、話しがある。今晩1時頃俺の女のやっている店『フランシーヌ』へ来てくれねぇか。伊井の関係書類全部持って来い。悪いようにしねぇよ」最後の言葉に妙なひっかかりがあったが、今更、奴らの組織とモメてみたってしょうがないのだ。サツとヤクザの挟み撃ちになればいかのオレでもどうにもならない、不気味だったが和男と会うしかなかった。
 5分前にフランシーヌに入った。
「連絡しますのでしばらくお待ち下さい」和男の女は既に聞いているらしくそつもなく奥のボックスへオレを案内した。ヘネシーをグラスに注いでから丁重にお辞儀をしてカウンターの方に戻っていった。カウンターには数人の客がいてそれぞれカウンター越しの女達と賑わっていて、ボックスだけが違う世界のように思われた。
 やがて、和男が若い衆を伴って真っ白なスーツ姿で現れた。若衆はカウンターに座りオレのことを睨みつけていたがオレは意に介する必要など無かった。和男はニヤリとした顔を見せてオレの前に座った。
「済まないな、呼び出して。遠慮無くやっちくれ」和男は水割りのブランデーを女に言って、終わると女に席を外すように言った。
「持ってきたか?」
「ああ、これで全部だよ。勝手に焼くなり捨てるなりしてくれ。どのみちオレにはもう不要だ」とオレは一式資料を袋ごとテーブルの上に差し出した。中身を一通り和男は改めていた。
「ありがとう、俺の気持ちだ、受け取れ」と言って和男は銀行の紙袋をテーブルの上に置いた。金であることはオレにも分かった。
「どうしてオレなんかに?」オレは和男の顔を見上げた。
「この金は俺が伊井の為に立て替えるのだ。伊井が死んだ今となっては、おめぇもこのままじゃ浮かび上がれめぇ。色も付けてある。うちの若衆のポンタにおめぇがヤキ入れたことも、奴は一緒に死んじまったしな。それもこれも不問だ。これで文句は無いだろう」和男は不気味な笑いを浮かべた。袋の中には 300万が入っていた。
「すまんな、遠慮無く貰っておく。助かるよ。ついでにすべて忘れたよ。それでいいか?」今後一切口出し無用、すべて喋るな、という意味ぐらいはオレにも分かる。分からないのはそこまでの値打ちが何であるのかということだけだった。オレの心がどんどんは惨めな気持ちに落ち込んでゆくのがわかった。そんなオレの気持ちと裏腹に和男は女を二人呼びつけボックスでオレと雑談をしながら上機嫌であった。オレは調子を合わせながらそれに興じていたが心は虚しかった。

 葬儀は道田一家の実質的な組葬として行われた。出席に戸惑いがあったが今となれば伊井から貰った金だという思いもあったので末席で行くことにした。たった、2、3年のつきあいだったが伊井は足早に逝ってしまった。オレよりはるか彼方に跳んでいったのだ。ヤツは何に生まれ変わるのだろうか、とも奇妙なことを考えたりした。道の向こう側の車の中には覆面の警察車両がいて、能波の姿も見えたが、知らんぷりで寺の門をくぐった。
受付には道田の若い者が数人で対応していた。オレの姿を見るとその内の一人が顔見知りで「よくも図々しく来やがったな」とオレを睨みつけたがその後、にやりと笑って「終わったことだけどな。ま、せっかく来たんだ、焼香してやってくれ」と言ってオレを素人衆の席に案内してくれた。喪主席にはやつれてしまった小夜子と五才になる遺児が座っていてその後ろには和男が神妙な顔で座っていた。オレには和男がまるで小夜子に取り憑いた死に神のように見えた。焼香を終え喪主席に挨拶をした時、和男と目があった。和男は一瞬だったが薄笑いを浮かべオレの目をじっと見た。酷薄そうな和男の視線がオレの背中に痺れるような悪寒を走らせた。そのときオレの疑念のうちのなにかが溶けるように頭を覆い始めた。そして、・・・・、和男が伊井を殺したのだ、とオレは瞬時にその妄念にとらわれてた。伊井の女房をみよがしに弄び、身体を縛り、伊井を追い込んでいったのだ。死んだ方がマシだぜ、と呟き続けたのだ。伊井の言った『1週間』とは自殺する期限だったのだ、と。ヤツは本当に生まれ変わりたかったのだ。ちくしょうめっ!なんて奴らだ。小夜子をむしゃぶり尽くす気なのだ。1年とは保険契約のことを指していたと理解するまでにオレはそんなに時間はかからなかった。保険金受取人の小夜子を離すわけがないのだ。これは遺族以外誰も悲しまない葬儀なのだ。

 門を出ると数人の警察官がオレを取り囲み、能波に拘束された。待機していた別車両に押し込められた。そのまま警察へ直行だった。
 取調室の中で能波はオレを立たせ腕時計を見ながら言った。
「只今、昭和・・年・・月・・日15時23分、容疑、公正証書原本不実記載・・市・・・番地、南無玄之介。司法警察員能波・・、・・・、以上っ!」読み上げは終わった。身柄拘束の令状は見せられなかった。
「手を出せぃっ!」と横の若い刑事がオレに手錠をかけて留置場へ連行した。司法警察員拘留48時間が始まったのである。屑はこのようにしていつでもいかなる時でも自由なんて無いのだった。伊井という獲物を失っていきりたつ能波と無言のオレの戦いは深夜まで及んだ。何回も椅子ごと、蹴り倒されたがその度オレは『スミマセン』としか言えなかった。元々は「別件逮捕」でしかないのはお互い承知の上なのだ。黙秘権しかないのだ。伊井のことなんぞ一行も書かせてはいけなかった。どうせ証拠は無い。死人に口無しなのだ。オレが耳をふさぎ口を閉ざせばオレは必ず助かる。
「おめぇ、『完黙』通すつもりかよっ、えぇっ!どうなんだよ」
「・・・・・・・・・」
「ウンとかスンとか言ってみろよっ!ハナクソ野郎がっ!」
「・・・・・・・・・」
 二日目は深夜2時頃まで続いた。三日目の朝、課長が出てきて、なにか美味しいそうな話しを振ったが、オレには沈黙しかなかった。嵌められるわけにはいかない。必ずここから出てやる。
「こらっ!南無っ!てめぇ、玄関パッキンやってやろうかぁ!なめやがって」能波は激怒していた。もうこうなれば何をされようが仕方ないのだ。地裁で10日の再拘が付き簡単な検事調べがあったきり、調べはもう無かった。蒸されたのである。オレは留置場で毎日を過ごしていた。漫画本も接見も禁止された。12日目、ようやく釈放され、警察署の玄関を出たところで能波によって再逮捕された。
「どや、南無、気分は?玄関パッキンって気分がいいなぁ。なんぼでも容疑はあるからな。よりどりみどりや」能波はけらけら笑っていた。
 取調室に戻るとまた留置場へそして取調室へ。
「・・・・・・・・・」
「こらっ!おめぇ、笑いやがったなっ!」とまた椅子ごと蹴り倒された。無論、笑ってなどいなかった。その都度頭を下げて椅子に座りなおした。小便はさせてもらえなく椅子の上で垂れ流すしかなかった。
「くせぇー野郎だな。こうなれば犬っころとかわらんのぅ、1日中そこで垂れてろ!ションベン野郎がっ!」オレは犬の方がマシなのではないかと思いながら自分の小便の匂いの中で己自身を嘲笑うしかなかった。そして翌日釈放された。玄関パッキンは無かった。これ以上の勾留は検事が嫌がったのだろうと思った。能波はにやりと笑いながらオレを課の出口で見送った。
「やはり、おめぇは食えねぇカス野郎だな。せいぜいヤクザもんと連んでろっ!ションベン野郎がっ」
 出てきたその晩、和男から電話が入った。
「蒸されたんだってな、ありがとな。当分おとなしくしてることだな」それだけだった。半月で300万はオイシイと思わなければならなかった。所詮は奴らのようになれない、屑の生き方なのだ。伊井の転落は自殺ではなく事故として扱われた。運転免許がないから自殺はあり得ないからだ。たとえ伊井が運転していたとしてもだ。伊井は小夜子に1億円を残しポンタと共に急ぎ旅立った。
 しばらくして小夜子は桜木町で小さな店を開いたと言うことを聞いたが、もうオレには関係ないことであった。半年もすればそんな店は無くなってしまうのだ。ケツの毛一本だって小夜子には残らないだろう。その後彼女の消息は聞かれなくなった。店も経営者は変わってしまっていた。そして2年も過ぎた頃か、和男は急性肝炎であっけなく死んでしまった。

 小夜子は語り続けた。
「あれからね、息子を連れて山代温泉に行って二人で生活してたんよ。でもね息子も17才の時に飛び出したきり、もう帰って来なくなっちまってね。それっきりさ」
「そうか、苦労したんだな」何らオレと変わるもんじゃねぇなと思った。
「何度か死のうとしたけど死なずに生きてるさ」小夜子は自分の手首の傷をさすりながら人のことのように言った。なにかを思い出したのか目は潤んでいた。
「もう一本飲むか?ついでにオレにも酒のおかわりをくれないか」オレはしんみりしている小夜子に言うべき言葉はそれぐらいしかなかった。しばらくの間お互い言葉もなく黙って飲んでいた。二十年振りであってもお互い語ることなんか無いものだ。
 その内、外から人の声が聞こえ常連らしい客が三人入ってきた。作業服に長靴スタイルの者達だった。外の雨足が強くなってきたようだった。ここいらが潮時だろうと思い小夜子に勘定を済ませ外に出た。
「南無さん、この傘さして行ってよ」小夜子がオレの後ろに立って言った。
「すまんな、借りるぜ。だけど、返しには来ない」とオレはぽつりと言った。
「あのね、南無さん、あなたが部屋に飛び込んできた時のこと、覚えてるでしょう?あの時が和男と初めてだったの」
「・・・・・・・」そんなこと今更聞いてみても、お互い流されながら生き残った事実だけで充分だった。
「わたしは今でもあなたの怒った顔を覚えているわ」
「そうか、・・・」小夜子の白く汗ばんだ痴態が瞬間頭をよぎり、それを打ち消すようにオレは首を左右に振った。
「次の日、伊井はわたしに土下座をして泣いて謝ったのよ。情けない男だよね」
「・・・・」もうオレはそれ以上聞きたくなかった。
「だから、わたしは今でも伊井の女房なのよ」
 オレは黙って傘をさして歩き出した。背中で小夜子は叫ぶようになにか言ったが、激しく降り続く雨の音でよく聞きとれなかった。振り向くこともせずにオレはひたすらじっと前を見つめながら歩いた。

 外はまた煙ったような風景が広がっていた。
 まるでこの世のものではないかのように。
 その中で浮かんだような赤提灯の店、ぽつんと。

-了-