2010年12月31日金曜日

冥土はここにある

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アウトロー達の世界を描いております。
私の心を掠めとっていった者達への鎮魂歌です。
人間の性(さが)を私の視点で描いています。
名状し難い世界であります。
心の襞にこびりついた記憶を描いています。
哀しき人々を描いております。
取り憑かれた人々を描いた掌篇集です。
名のごとく批評やエッセーの試論です。

御意見は下記メールアドレスにどうぞ。
namgen@gmail.com

2008年3月24日月曜日

ポンキー・ブルース

 私はその頃(*註)の夏の夜明けを忘れることはない。涼しげに漂ってくる早朝の潮が入り混じった空気の匂い。新しい日の始まりを告げるさまざまな鳥達。まだ港のクレーンは動いてなかった。私は2台あるトラックうち、いつも乗る一台に飛び乗り木刀を手にして東神奈川駅東口にある小さなロータリーに向かっていた。いくつかの建物の向こう側には京浜急行仲木戸駅があった。いく道すがら「今日は20人だけだ」と私達に指示が与えられた。夜も白々と明けてくる頃小さな広場には付近のドヤから歩いてきたアンコ達(*註)が並んでいた。一番緊張する一瞬でもあった。そしてはじまる。
「お前、お前ッ!そうだ、お前」と若頭の怒号に近い声が飛ぶ。その視線を追いながら次々とアンコ達をトラックに引っ張りあげていく。間違いは許されなかった。あとは外されたのに関わらず這い登ろうとする、はぐれたアンコに木刀をふりおろす。そのようにして朝の仕事は終わるのであった。
 ある日の午後、桜木町から野毛の居酒屋に向かっている途中、薄汚れた歩道で1升瓶を枕にしているアンコが寝ながら私のほうを見つめていた。すれちがいざま、その男が立ち上がり声がかかった。
「ニイサン、明日は頼むよ。なっ、」と彼は酒臭い息を吐きながら私の顔をじっと見つめた。そして手の中に千円札をねじ込んだ。額の上のほうに血の滲み出た瘡蓋があり、確かに今朝私が木刀をふりおろした男であることがわかった。一瞬私の心臓がドクリと音を立てたのが聞き取れたが、そのまま野毛の方に歩みを止めることなく足早に歩いた。私の後ろ背にはまだ声があった。「頼むな」と。
 翌朝いつものように東神奈川の駅に向かった。そして彼は前列に立っていて私の視線に奴が絡まっていることがいやと言うほど分かるのだった。私は若頭の指名に入ることを願ったがそれは叶わなかった。しかし差し出された彼の手に私の手が伸びるのをとめることができなかった。若頭がいぶかしげな視線を私の背に投げかけていることは分かっていた。だけど彼のみすぼらしさに私は負けたのである。それは決して千円札ではなく、もう彼の限界があることを知っていたからであった。今日ハグレたら路上で死ぬしかなく「おれを見つめてくれ」という最後の千円札であるのが分かっていたからである。
 そして私はそのあと若頭からこっぴどく木刀で叩きのめされた。
「あいつはな、ポンキー(*註)だから使わないんだよ。使おうが、使わないが、長くねぇんだよ。なのに、オメェはわかってるんかよ。勝手をするんじゃネェ」と。若頭の言うとおり、そのあと1週間もしないうちに彼は仲木戸の道端で死んでいた。

*註1 昭和44年:ウイキペデア
*註2 浮遊労務者
*註3 麻薬中毒者(ヒロポン・覚醒剤等)
はてなダイアリにおいて2006-09-28 にどてら(袢天)が似合う古き時代の自分を髣髴させる平民さんに捧げる為に書かれたものを転載しました。

2007年8月18日土曜日

遊侠の徒

 一昨日のことだった。送り盆も終わり一息入れているところにオヤジから電話が掛かった。「加賀の田中が死んだと聞いたが、そうなのか?」とその声は低く重かった。私は、またその話かと思ったが調べてから返事しますと答えて電話を切った。もともとその男が入院したという話は先月若い者から聞いていたので近い内に見舞に行こうとは思っていた。だが死んだという話はまだ聞いていなかった。現に1週間ほど前もある者から問い合わせが来て調べたばかりだったからだ。噂がすぐに大きくなるのもこの世界の通例といえるだろう。今回も結果的には死んではいなかった。その旨オヤジに告げるとお前が名代として明日にでも見舞に行けと言った。
 午前11時だというのに気温は36度を越えていて国立病院の大きな駐車場はそのアスファルトの照り返しによって私の首筋に大量の汗を流れ下らせた。前もって室番号を聞いていたのでそのまま真っ直ぐ八階の病室に向かった。エレベータを出てナース・ステーションの前を通り過ぎたところで聞き覚えのある声で呼び止められることになった。当時の舎弟頭補佐をしていた男であった。もう70は過ぎたはずで角刈りだった頭も禿げあがり髪も真っ白になっていた。そして当時精悍さを誇っていたその顔も面影はなかった。簡単な挨拶と名代であることを告げると彼は深くお辞儀で返し、そのまま簡易な椅子が並んでいる隅にあるコーナーに私を誘った。隅にある自販機から緑茶を私に差し出すと言った。
「儂等三人(舎弟)が24時間交替で付き添っていて各自家には着替える為だけ帰っています。肝臓癌です。医者の話だともう今月いっぱいももたないと言ってます」
 私の返す言葉なんか無かった。そのヒトは独り身であった。随分昔のことではあったが娘がまだ小さかった頃妻子と別れてしまっていたからだ。そして今まさにひとりで死に向かおうとしていた。
「喋れるのですか?」と私は聞いた。
「まだ大丈夫です。時々時間の感覚が跳びますが、南無さんが来たということになれば大変喜ぶでしょう。結核も併発してますのでマスクをして下さい」そういって私にマスクを手渡したがたいした役にも立ちそうもなかったので装着しなかった。そのまま個室である病室に案内され入った。やはり顔見知りの舎弟がひとりベッドの脇の椅子に座っていたが私が入室すると立って軽く会釈を交わした。ベッドによこたわっているそのヒトは頬が落ち痩せさらばえ骨と皮になっていた。入れ墨のはいった腕には点滴針が刺さっていた。仰向けになって閉じられた瞼の上にある入れ墨の眉は昔のままだった。付き添いが私が来たことを告げると静かに目を開け、屈むようにして上から覗き込んでいる私の顔をじっと見つめた。
「オヤジの代理で来ました。私が判かりますか?」と聞くと黙って頷き私の顔をまじまじと見つめていた。
「アニキは元気なのか?」とまだ力の残る声で私にオヤジの近況を問うた。
「はい。歩くことは少しおぼつかないですがまだ元気です」と答えるとまた黙って頷き、聞き取りにくい声でなにか言った。もう一度耳を近づけると再びそのヒトは喋った。
「お前、老けちまったな」と。私は場違いのようなその言葉に一瞬戸惑ったが気を取り直し笑いながら答えた。
「もうすぐ60になりますよ」
「そうか、もうお前も60になったか。ろくでなしの60か…」と笑った顔を見せた。どうやら私の若い頃の顔を記憶の隅から呼び起こしているようだった。数え切れないほどそのヒトに迷惑を掛けた若い時代のことが私の頭の中を一瞬よぎった。そして突然「娘が来てくれた」とぼそっとそのヒトは言った。付き添いの者に目を向けるとその者は黙って私に頷き返した。きっと誰かが娘を探し出し頭を下げ説得して連れてきたのだろうと推することが出来た。
「娘さんに会えてよかったですねぇ」と私が言うと黙って頷いた。そのヒトの目に涙があった。そして、あとは何も語ろうとしなかった。
 帰る車中の窓の外を眺めると遠く見える市街地のビル群の上にかげろうが揺らめいていた。そしてそれが私の居る灼熱地獄の風景なのだろうと思った。

2007年1月31日水曜日

善なる人々-善造編-

 雪が舞っていた。それは時には谷筋から斜面へ駆け上がろうとするわずかな上昇気流に押され杉の木々の間を横なぐりに変化し始め乱舞した。ゲレンデからこのあたりまで離れていると周りは殆ど無音状態になる。遠くから時々スキーヤに向けてのゲレンデ・アナウンスが尾根越えに散発的に聞こえてくるだけであった。今聞こえるそれ以外の音といえば斜面で足を踏ん張りながら下りに向かう鬼頭の早くなる息使いだけであり、頬といわず額といわず激しく鬼頭を嬲るような雪は野獣のごとく上気して真っ赤になったその顔から一瞬にして融け湯気をたてていた。視界を妨げている雪幕の向こうには確実に息を上がらせながら必死で潅木の間を駆け抜けている谷口の姿があるはずであった。足跡を追っている鬼頭にはその姿が手にとるようにわかっていた。なぜならホテルの支配人室のタバコの吸殻にはまだ火の残りが認められ、つい先ほどまで谷口善造がいたことを教えていたからだ。

 「その手形の支払義務は無い」と善造は受話器の向こうの男を突き放すように言った。元はといえば三ヶ月だけの融通手形の約束だった。善造の経営するホテルの軒先にスキーヤー相手にホットドッグや焼きソバ等の立ち食い店をテナントとしてやっていた男に運転資金不足を請われてやむえず貸した善造が経営するホテル会社振り出しの手形であった。シーズン短期間に売上が上がり返済も出来る予測が立っており、さしたる問題は無いはずであった。またその立ち食い店は何かとホテルの集客誘致に役立っていた。当初に切った期日は二ヶ月の三百万円であり今日がその期日であった。更に1ヶ月の延長のため三日前差し替え用の手形としてもう一枚三百万円の手形を切りその男に渡した。しかし手形ジャンプの通例として戻るべき前の手形は戻ってこずテナントの男も突然店を閉めたまま消えてしまった。そして代わりに鬼頭と名乗る街金業者から都合六百万円の手形貸し付け金があると電話がかかったのである。その内最初の一枚は期日である旨回したと宣告され先ほどの電話の応酬になったのである。確かに善造にとって借りたのは三百万円だけでありその決済は来月であり返済財源はそのテナントが払うはずの予定であった。つまり一円たりとも現金の用意はしなくても済むはずだったのである。だが今となれば、まったく違う展開が起きてきたのである。手形の呈示期間を考慮に入れ明日には回された手形が善造の取引銀行の口座に決済を迫るということになってしまった。自分が生きているこの世界は自分のものである確実性から突き放された瞬間を善造は生まれて初めて遭遇してゆくことになった。
 「だって、その手形は詐取された手形であんたの言ってることは二重取りだ。警察に訴えるぞ」
 善造は精一杯の虚勢を張って声を荒げたが受話器の向こうからは予想に反して冷静な声が返っただけであった。
 「ああ、そんなことはどうでもいいんだよ。訴えるなり拒否するなり好きなようにするんだな。先ほどガタは回したから、おれはもう知ったことではない。詐取の名目で不渡りにするんならそれでも構わんよ。そうなれば頂くものを頂くだけだがな」
 鬼頭にとって谷口善造の言葉は十分に予測できていたばかりか元々そのテナント業者に貸していた金の回収であった。つまり最初の一枚の手形は貸付金の回収方法としての返済に過ぎずビタ一文も出さず内入れ金としてとったものでしかなかった。あとの二枚目の三百万は債務者のテナント屋と謀って決済後の二、一の取りだった。つまりテナント屋に手形詐取をさせ、しばらくの逃亡資金として百万をテナント屋に握らせ残り二百万の儲けが鬼頭の懐に入るという仕掛けであった。手形は所持人のものという大原則が全てを制するのだ。あとは谷口を追い込み、場合によっては一度決済させて状況を見てまた金を貸してやればいいと思っていた。相手から只同然でふんだくった金を今度は自分の貸し金としてその相手に貸すだけのことである。なんら懐が痛むわけでもなく、ひょっとすればホテルの営業権もろとも獲れると踏んでいた。あとは全てをしゃぶり尽くせば相当額の儲けがぶら下がっているのである。鬼頭は相手の幾分震えた声から察しはついていた。アホンダラが、今日早速混み合ってやるぜ、と腹に決め、叩み込むように言葉を続けた。
 「ところで、そっちの言い分も俺にとっては寝耳に水だ。俺は金貸しとしてまっとうなことをやっている。現に確かに300万円の現金を奴に貸している。それを詐取だなんだと言われても後味が悪いじゃねぇか。こうなると俺としてはおめぇの言いたいことをよく聞いてやりたいと思うが、どうだ?事と次第じゃ明日の手形の返却依頼を銀行にかけてやってもいいんだぜ」
 物事は最初が肝心である。ここでいったん相手と直接会い圧力を加えていくことが今後の行く末を占うことにもなるのだ。鬼頭は勿論返却以来など端からする気はなかったが相手を話し合いの場に引きづり込みたかった。ことによっては新たな300万円の現金を鬼頭は谷口に放り、その金で明日の手形を決済させもう一枚手形を切らせる仕掛けを考えていた。相手の谷口にすれば予定もしていない資金繰りに対応は出来ているとは思えなかったからである。現金をいったん投げておき相手がそれに飛びつけば鬼頭に対して「詐取」は成立しなくなり善意の第三者を完璧に装える計算が働いていた。だが鬼頭の予測に反して谷口から返ってきた言葉はかたくなまでの拒否だった。
 「私の方はあんたと話することなんかありません」
 これが善造にとっての目一杯の言葉であった。いくら詐取とはいえ手形に付箋が付くのである。スキー人気が落ち込んでいる今の世に銀行に対してそのような事態を起こせば良い顔をするわけもなかった。また詐取には警察の事件受理書も必要であることもわかっていた。肝心のテナント屋の行方も知れず果たして警察が詐取と認めるかどうかも疑問であった。民事不介入が警察の大前提であり手形請求権は所持人であり善意の第三者を主張する街金業者の鬼頭の手にある事実は変わらなかった。また対応が間に合わない場合は手形相当額を供託することになることも分かっていた。何れにしても供託金に該当するような余裕資金は今の善造には無かった。これと似た話はよく世間で聞いたことがあったが善造はまさか自分の身に降りかかることまでは考えていなかったのである。
 「では明日不渡りということになるが、それで良いのか?」と鬼頭の凄みのある声が受話器から伝わってきた。善造はたたみ掛けるように言う鬼頭の言葉に応えるべき言葉を持たなかった。しばらく沈黙が続いていた。それを破ったのは鬼頭の方であった。
 「俺はオメェの言い分をただ聞こうとするだけで取って食おう、焼いて食おうってことじゃねぇ。わかるか?話し合いだよ。話し合い」
 鬼頭は鬼頭で谷口がこのまま突っ張り通し、万が一警察介入になってテナント屋が捕まれば全てを喋るかも知れないという不安もあった。そうなれば鬼頭としてもおもしろくない結果になり儲けも何も吹っ飛ぶことになる。どうしても今日中に谷口を懐柔し決着をつけねばなるまいと思っていた。こうなれば相手の返事を待つまでもなく気の弱そうな谷口を急襲し、型に嵌めるのが一番であると信じ込むに至った。相変わらず谷口は無言のままであった。
 「ああ、谷口さん話し合いはこれで無しにしておくわ。じゃあ電話を切らせて貰うぜ」と鬼頭はそう言って受話器を下ろし谷口のホテルへ出掛ける準備を始めた。とりあえず金庫の中から現金を1千万円取り出しカバンの中に無造作に放り込んだ。今後の勝負の為にも見せ金としてちらつかせる必要もあると思ったのである。
 善造の方と言えば鬼頭の電話が切れた後、支配人室の応接セットに座り込みしばらくの間、頭を抱え込んでいた。金がいる現実にはなんら変わりが無く、今のままだと明日中に間に合うとは思えなかった。もし、金が用意できても1ヶ月後にはまたもう1本の同額手形が鬼頭から回ることになるのだ。そんなことをされれば一挙にこのちっぽけなホテルは倒産に追い込まれてしまうだろう。とりあえず善造は知り合いの弁護士に頼ろうと思い電話をかけた。出来ることからしなければならないと思ったのである。だが肝心の頼りにしているその弁護士は運悪く県外の法廷に出ているらしく明日にならないと戻らない旨法律事務所の女事務員は言った。でも、とりあえずは明日のアポは入れておくしかなかった。しかし最後の頼りとしている弁護士の不在は確実に善造の気力を萎えさせるのには充分でもあった。夜には万が一の為にも二、三の友人や親類関係を回り金策もしなくてはならないことも気分を鬱にさせた。とりあえず明日を乗り切れば次の期日まで1ヶ月の余裕期間がある。警察や民事裁判を巻き込んでもこの難局は乗り切ってやると善造は何度も自分に言い聞かせるのであった。しかしこの決意とやらはこれから起ころうとしている出来事の前に崩れ去るとはこの時考えもしていなかった。何事にもボタンの掛け違いと言うことは人生においてよくあることなのだ。現に善造は所詮はひ弱な一庶民でしかなかったからであり、野獣のごとくに鬼頭がその後現れるとは想像もしていなかったからであった。

 鬼頭は除雪の行き届いたホテルの駐車場に車を止めると車内からその4階建ての建物を見上げていた。二、三千万は行けそうだなと値踏みをしてから早速ホテルに携帯電話をかけた。電話に出たのは支配人である谷口その人であった。鬼頭はにやりと笑いそのまま車から降り建物の窓のいくつかに目をやった。一人の貧相な男が窓からこちらを見ていた。その男の手には受話器がしっかりと握られていたのである。
 「谷口さんよ、下の駐車場に着いたよ。今からその部屋に行かせて貰うよ」
 鬼頭はそう言って電話を切り、窓から覗き込んでいる善造に向かって手を振って見せた。大型の黒塗りのセダンから出てきた坊主頭の厳つい大男がこちらに手を振っているのを善造は見ていた。スキー・リゾートに似合うわけもなく革靴のままの風体はあたりのスキー客を威圧するかのように遠ざけてこちらに向かって歩き出した。善造の心臓がドクンと鳴りだし一瞬呼吸が乱れたような気がした。大きく深呼吸をしてみたが心臓の動悸は止まることはなく、膝も心なしか震えているようであり自分で何度落ち着くように言い聞かせても、ふるえは止まらなかった。自分のいるこの支配人室はほかには誰もいなかった。このような突然の事態の予測は善造の考えには入っていなかったのである。だが善造の取った行動は素早かった。彼にとっては支配人室から逃亡することしか考えれなかったのである。鬼頭が支配人室と表札のあがった部屋に到着したときには谷口の姿が既に消えていた。応接セットのテーブルにある灰皿にはまだ火が付いたタバコが残されていたのみであった。鬼頭はいったん手にしていたカバンをテーブルの上に置き窓の外を見ると長靴姿で逃げるように走っていく谷口の後ろ姿を認めることが出来た。鬼頭にとっては話し合いに来たつもりであり暴力を振るうつもりでもなく、只じわじわと言葉で攻めればいいと思って来ただけのことであった。まさかあのように動転して逃げるとは想像も出来ないことでしか無く、鬼頭は大きな舌打ちと共に支配人の大きなデスクを蹴飛ばすしかなかった。
 「なんなんだ、あの野郎は」と鬼頭は毒づき谷口が道の向こうの灌木の中に走り込んでいく後ろ姿を見ていた。だが逃げる者は追うのが鬼頭が本来持っている習性である。また手形期日を考えるとどうしても決着をつけておかなくてはいけなかった。鬼頭はそのまま一旦車に戻り長靴に履き替えて直ちに善造を追跡する準備に入った。
 谷に向かってなだらかな下り斜面を鬼頭は谷口の足跡を辿りながら足を早めていた。先ほどから降り始めた雪は時々横なぐりに舞い始め鬼頭の顔面を叩くようであった。善造も必死に鬼頭から逃げながらこの状況に陥っている自分を冷静に見ることなく、いわば恐怖の余り気が動転している自分に気づいていなかった。今となれば、何故あのとき逃げたのだろうと一度考えを振り出しに戻せば済むだけのことでしかなかった。だが、いまの善造にはその余裕が無く木立の陰で時折後ろを振り返るなどして頭に溢れこぼれる妄執に取り憑かれていたのである。確かに遠方をよく見ると雪の中に黒い人影が見えていた。あのような風体の者はきっと暴力を振るうに違いないとそのとき思い込み、体が頭と違った方向に向かっただけである。しかし今となってはどのような言い訳もあの追ってくる男に通用しないだろうと思えた。幸いこの近辺の谷筋は雪のない頃から山菜を採ったりして形状に詳しく逃げ切る自信があったが深い積雪の為足が雪に取られ思ったほどの早さで歩くことが出来なかった。もしかすると鬼頭との距離が縮められているかも知れない不安に先ほどから駆られていた。追い詰められたらあのような男に抵抗することも出来ないかも知れないという不安は終いには自分の身体の危機にまで高まってきていた。
 「川向に渡る前に追いつかれるかも知れない。何とかしなくてはいけない」と善造は混乱を来たした頭の中でまとまらない考えで一杯になっていた。やがて前方の川岸にふっくらとした雪の盛り上がりが見えてきた。クマザサが雪の下になっている地域に出たのであった。その向こうには冬季には水が涸れている河床があり越えて向こう岸の斜面にあがれば自分の自宅であった。しかしそれには斜面を這い上がる自分の姿を追跡者である鬼頭に見られることになり誠に都合が悪かった。きっとあのような男は他人の家にまで上がり込み家族に危害を加えるに違いないと思う不安にまた襲われたのである。そうなると善造は居ても立ってもおれなく川原の方に下り、川床から両手で持てそうな手頃な石を選びクマザサの中に潜り込んだ。鬼頭を待ち伏せする体制を取ったのである。善造の肉体は駆けめぐるアドレナリンで充満し、まるで待ち伏せをしている獰猛な動物の顔つきに変わってきていた。やがて鬼頭が雪を踏みしめる音と獣のような荒い息づかいの音が聞こえ、その男の両脚が善造の潜んでいる前に現れた。

 谷口善造は何気ない顔をして周囲に気づかれることの無いように支配人室に戻ると対策を考えた。雪解け前に鬼頭の死体を川岸に埋める算段をしていた。冬季である当分の間、人の寄りつかない場所であったが油断は出来なかった。とりあえず明日考えるしかないと思った時にテーブルの上にある鬼頭のカバンに気がついた。中を開けると札束が見えていた。弁護士も金策も必要でなくなったことに善造が気づくまでそんな時間はかからなかった。善造は独りでに笑みが浮かぶのを止めることは出来なかった。だがしかしボタンの掛け違いで始まった谷口善造の行動は最後までボタンの掛け違いで終わることに気づくにはまだ数日を待たなければならなかった。夕方には死んだはずの鬼頭がクマザサから滑り落ちた溜まり雪が顔に当たり我に返ったからである。頑丈に出来ていた鬼頭の体は小一時間ぐらい気を失っていたが後ろ頭にコブが出来ただけのことにしか過ぎなかったからである。
 「つくづく、あの野郎は運が無いのぉ、これでホテルは俺のものになった」
 鬼頭は今後のことを考えると笑いが止まらないでいる自分にほくそ笑んでいた。

 -了-
※この掌編は特別企画として2006年12月31日に『追跡者』として書かれたものに加筆訂正されたものであることをお断りいたします。

2007年1月25日木曜日

善なる人々-飛男編-

「ぎゃあっ」
 まるで獣のような声だった。目の前に起きたことを信じないというばかりの絶望にうち拉がれた声にも聞こえた。そうやって男は目の前に掘られた穴に頭から転がり落ちていった。山鳥たちの囀る音さえ緑を増した周りの木々に吸い込まれていき、一瞬の静寂のあと雨上がりの山中には掘り返した土の匂いがむせるように漂っていた。

 悪夢にうなされてガバッとはね起きた男には全く身に覚えがある夢ではなく起きてしばらくする頃には既に忘れ去ってしまっていた。ことの起こりは五年ぐらい前から始まった。職場の経理係として最初は目立たない金額だった。勘定科目を少し振り替えるだけで済んだからである。最初の二、三年は監査の眼をかいくぐることも易い小額の金であった。県の公安委員会とはいえ大概が県庁や警察からの天下りの警察員で占められていて生え抜きともいえる者は少なかった。女子の殆ども各役人から押し付けられた子女だったし菊池飛男にとって都合のいいことにその殆どが愚鈍だった。万事このような調子で経理課といっても伝票の書き方ひとつわからない者達であり実質は商業高校出の飛男に殆ど任せっきりにしていた。特に今の課長である肥田は商業簿記のなんたるかも分からない警察官上がりで、そのうえ酒や女に目がない下卑た男であった。飛男のほうで気を利かせたつもりで飲食代を捻出したことからますますその信頼を厚くした。飛男は時々肥田からの誘いにもそつなく付き合い共犯になることも忘れなかった。こういう事は万が一のためには重要なことなのである。ばれたら一蓮托生というわけである。
「課長、この前の飲食代ですけど上手く福利厚生費にしておきました」と耳に囁く。只々これの類で済み後は月に一度統括管理のほうに架空経費も紛れ込ませながら計算書を廻せばよかった。課長の判さえあれば素通りなのである。判自体も飛男に預けられ放しで、笑えることにその統括管理の役職に就いている者達の飲食費まで飛男が請け負うようになっていた。こうなれば委員会そのものさえ飛男の思うままみたいなものだった。要は商業法人と違い利益にこだわる必要もなく翌年次への繰越金が不自然でなければ良いだけである。当初はそれで千数百万円にもなる個人預金を妻に内緒でため込んでいた。だが好事も無きにしかずというか、時たま通っていた小料理屋の若い仲居である美嘉に惹かれるようになった。やがて逢瀬を重ねることになり美嘉が醸し出す肉欲に飛男は溺れていった。ついには委員会近くのマンションまで美嘉に買い与え小料理屋を辞めさせるまでに関係は深まった。昼は美嘉の部屋で食べ貪欲までのセックスに耽った。やがて御多分に漏れずその女の借金の保証に立ってしまった。飛男は女に関してだけは初心だったのであった。半年ほど経つと横領して貯めた預金通帳も空になり、寝る毎に美嘉に縋られるまま経理処理で誤魔化した金を貢いだ。飛男は若いわりに床上手である美嘉を失いたくはなかったのである。そしてついに監査も通りようも無いほどの金額にまでなってしまっていた。
 ある日、街金屋の鬼頭から飛男に督促の電話がかかった。充分に金を与えていたはずの美嘉の返済が遅滞していたのである。無論その電話で飛男は初めてその事実を知り信じられない思いだった。
「とにかく本人に聞いてから明日中になんとかする」
 自分の職域のことも考え飛男にはそれが精一杯のセリフであった。
「なるほど、オメェの職場が職場だけに答えにくいのだろうな。ふふふ。ま、いいだろう、しばらく考える時間だけやろうじゃネェか」
 鬼頭の電話は嘲笑うかのように切れた。鬼頭はこの時、飛男が周囲に聞こえることの無いように受話器に顎を押しつけるように喋っている姿が手に取るように分かっていた。街金屋の習性として飛男の役職から考えても、もっと搾り取れるという風に踏んだのは当然のことである。
 その夜、飛男は美嘉のことを嘘つき女と罵り、美嘉は二度とこんなことはしないといって泣いて見せた。舌の根も乾かないうちに新たな嘘を作り上げればすむことであり、その後飛男の情けないまでの短小ペニスを口に含みながら濃厚なセックスをしてやればそれで収まるのだ。そしてそのとおり飛男のペニスは美嘉の口の中に銜えられていった。

 鬼頭は「ぎゃあっ」という自分の口から出た大きな声で早朝目覚めた。どうやら悪夢を見たようなのだが何度記憶を辿っても夢の中でのことを思い出すことが出来なかった。
「まったく、縁起でもネェ夢だぜ。俺がやられるなんて。ま、俺ほどのものがやられるわけネェわな」
 鬼頭は気を取り直したように自分の頭の中で呟き、そんな夢はやがて頭の中から消え去っていた。稼業柄暴力には慣れっこであるが自分がやられるって事は考えも出来ないことであった。体躯が巨大で、プロレスラーばりの身体で相手に凄む鬼頭にはヤクザも一目置いているからである。まして今日の仕事は簡単でちょちょいと脅せば数百万に化ける仕事である。とりあえず今日の昼に美嘉のマンションの入口で飛男を捕まえなければならなかった。車に乗せ山中で脅せば大概の者は言われるが儘になることは鬼頭が一番知っていた。マンションの裏側にある駐車場のなるべく出入り口に近いところで鬼頭は車を頭から突っ込みトランクを開けたままにして準備に取り掛かった。

 飛男の身体は真っ暗なトランクの中で小一時間ばかりの間揺られていた。情けないことに予想だにしなかったその出来事の衝撃で震えながら泣いていたのである。鬼頭にあっという間に首を押さえられそのまま車のトランクに放り込まれ真っ暗闇の中にいた。何度も車のシャーシが地面とぶつかる音がしているところをみると悪路を走っているようだった。鬼頭は林道の入口にある車止めのゲートの手前でいったん降り鉄製の扉の前に立った。ぐわーっというその巨漢が吠える声と共にガシガシと周りに大きな音を響かせながらながら赤錆びたゲートは開かれた。周りを小高い山で幾重にも囲まれたこのあたりまで来ると人家もなく人気は一切無くなる。ゲートをくぐるり鬼頭の車は更に奥の方へ林道の轍を避けながらのろのろと進んでいった。「あいつの職場が職場だけに半端な脅しじゃ駄目かもな。大体がチクられれば俺が檻の中だ。ったくのところ美嘉もいっぱしの女になったものだ。まだまだあのおめこは使えるってもんだ。菊池よこれが終わったらまた美嘉を抱かせてやるぜ」と鬼頭はその足りない脳ミソでそれなりの絵を描きながら一人でほくそ笑んでいた。鬼頭が美嘉を仕事に使い始めて二年になろうとしていた。美嘉の父親の借金の形に無理矢理犯したのが始まりだった。まだ美嘉は高校生でしかなかったがその男好きのする顔を鬼頭は見逃さはずもなく学校帰りに事務所に連れ込んでは犯し続けた。やがて美嘉は鬼頭の身体に反応するようになり、毎日のように鬼頭のペニスをヴァギナに銜え込んだのであった。鬼頭はあらゆる性技で美嘉を一人前の女に変容させるばかりでなく彼女の思考の隅々までも弄んだのである。鬼頭が父親の借金の整理に家を競売にかけ全ての財産を奪い取り自殺に追い込んだ後も美嘉は弄ばれるが儘であった。鬼頭は美嘉を既に善悪をも越えた18歳の女として成長させていたのであった。
 車のトランクが開けられた時、飛男の目に差し込んで来る木々の間からこぼれる陽の光が痛く感じられた。
「さぁ、出ろ」
 鬼頭はスコップを手にとって車の傍で仁王立ちで立っていてその酷薄さを無表情で表していた。
「一体私をどうするんだ」
「昼飯前で気の毒に思うが、このスコップで穴を掘って貰いてぇ。ちょっと埋めるものがあるのでな、オメェにつきあって貰ったというわけだ」
 鬼頭はトランクから降り立った菊池の足下にそれを放り投げた。意味が良く飲み込めないという顔を飛男が一瞬見せたが、質問も反論も一切許さないような鬼頭の風体の前では従わざるを得なかった。すべからく世は理不尽にしかできてなかった。30分ほども掘り続けただろうか、深さは飛男の背丈近くまで掘り下げられたようであった。顔を上げるとすぐ傍では鬼頭が地べたに座りながら建設現場監督よろしくタバコをくわえて飛男の働き具合を見ているようだった。
「そうだな、もう1メートルぐらい掘ってくれネェか。それじゃ、まだ深さってものが足りねぇんだよ」
 鬼頭は白けた感じで飛男に言った。飛男はまた黙々と掘り続けるしかなかった。身体も小さく力仕事などしたこともない飛男にとってその作業はきつく何度も息があがるかと思えたが鬼頭の顔を思い浮かべるとそう不満を言うわけにもいかなかった。汗がダラダラと体中から出、顔面からそれが滴り落ちていた。
「もういいだろう、上がっていいぞ。まずそのスコップの柄を俺に向けろ、引っ張り上げてやる」
 飛男の頭上から鬼頭の声がかかった。飛男はほっとした顔を見せながらスコップの柄を頭上に高く上げしゃがんで待っている鬼頭の手に届くように差し出した。やがて力強い力が加わり身体がふわりと持ち上げられ穴の縁にまで身体が上がった。そして鬼頭を見上げようとした瞬間両膝を力一杯の鬼頭の蹴りが襲いかかり再び「ぎゃあっ」と悲鳴をあげながら飛男は穴の底に落ちていった。しばらく穴の底で打った身体の痛みを堪えていたが昨夜降った雨で軟らかくなった土のせいか怪我もないようだった。やがていくつかの山鳥の鳴き声がこの穴の底まで聞こえてきて、それが飛男の恐怖感を僅かばかり払拭したように思えた。こんなつまらないことでこの山中で殺されるのかと思ってみたが、ここに至ってはもはや手遅れだとしかいいようがなかったのである。どうやら鬼頭は本気で飛男を殺そうとしているように思えた。変な女に入れあげたばっかりに悪徳金融の鬼頭から金を借りたわが身を初めて飛男は呪った。なんとかしなくては、と飛男は必死で頭の中で考えた。その時鬼頭の声が聞こえてきた。
「このまま埋めてもいいんだが、オメェはそれでいいのかよ」
 頭上からの鬼頭の嘲笑いだった。
「助けてくれっ、なんでも言うことを聞くから」と飛男は恥も外聞も無く、すがるような必死の思いで鬼頭に哀願するしかなかった。
「そうか、なんでもするんだな。じゃー助けてやろう。今後は俺の言う通りになんでもかんでもすることだな。手を差し出せ」
 スコップの先が飛男の前に下ろされた。今度は無事に地表まで上がり終えることが出来た。両手をついたまま地面を下に見ながら飛男は自分の呼吸を整えていた。心臓ははやなりの鐘のように動悸を打っていたからである。とにかく俺はなんとか考えなくてはならない、と。そしてそのまま土下座の姿勢のまま鬼頭にすがるように言った。
「助けて頂きありがとう御座いました。今後鬼頭さんの言うことはなんでも聞きます。二度と逆らったりすることはしません。許して下さい」
 まずは時間稼ぎというものであった。鬼頭をとにかく宥めておかなくてはならない。効果はどうやらあったらしく鬼頭の顔面が緩んだことを飛男は見逃さなかった。
「うへへへ。そうか、物わかりの好い奴は好きだぜ。じゃ、車にある書類に判を押して貰おうか。いいんだな?」
 馬鹿な野郎だ。ちょっと脅せばチョロイもんだぜ。根こそぎオメエの持っているものは全て頂いてやる。鬼頭はこの先のことを考えると楽しくなってくる自分の高ぶりを抑えることが出来なかった。
「はい、なんでも仰って下さい。その通りにします」
 飛男の顔は下げたままであったが少し先に転がっているスコップに目が行った。
「じゃ、ちょっとそのまま待ってろ」
 鬼頭が後ろに振り向きざま、素早く飛男の身体が動きスコップの柄を掴んだ。そして立ち上がった瞬間飛ぶようにして思いっきり鬼頭の後ろ頭めがけて振り下ろした。鈍い感触と共にズブブッとスコップは頭蓋に入り込み突き刺さった。引き抜くように引っ張ったと同時に鬼頭の身体がクルリとこちらに向き顔が一瞬天を仰いだように見えた。そして瞬時に「ぎゃあっ」と獣のような叫びをあげた。鬼頭は穴の底に向かって落ちながら失う寸前の意識の中で今朝見た夢が正夢であったことを悟ったのである。まさしくあの声はほかならぬ鬼頭自身の声だったのである。ドサリという音を立てて底に落ちた鬼頭の頭蓋からは吹き出してくる脳漿をかき分けるようにピンク色の脳味噌の中身もこぼれ出てきていた。上から底を見ていた飛男はそのあまりにも凄惨な光景に何度も嘔吐をし、吐瀉物が鬼頭のぬめった脳味噌の上に降りかかり混じり合った。

 飛男は洗面所で顔を洗って身繕いをした後、職場に何喰わぬ顔で舞い戻った。ここに戻るまでお昼休みを入れて4時間程度経ってはいたが職場の者でそれを不自然であると思う者も居なくいつも通りであった。あれは仕方のないことでしかなかった。正当防衛というものだった。それに鬼頭の死体が見つかることはあのような山中ではまず考えられ無かった。てんこ盛りみたいに必死で埋めたのだった。やがて飛男の気持ちも落ち着き、ここまで乗ってきた鬼頭の車の処分を考えていた。あの車さえ元に戻しておけば問題なんかはないだろう、と。とにかく今日はこのまま家に帰る気分になれなかった。美嘉と時間を考えずに過ごしたいと思った。あの妖艶な口に銜えさせている自分の姿を想像するだけで飛男の下半身が持ち上がってくるのがわかった。そしてなんと言っても憂鬱の材料であった鬼頭という邪魔者もこの世に居ない。5時近くなっている時計を見ると飛男はいそいそと机の上を片づけ始めた。いつも持ち歩いているシステム手帖の中に飛男が保証人となっている例の借用証書を折りたたんで挟み込み机の奧にしまい込んだ。鬼頭がもっていた鞄の中にそれがあったのである。
 その夕刻、飛男は美嘉のマンションを訪ねるとすぐに彼女をベッドに押し倒し体中をまさぐった。そうせねば飛男の心が落ち着かなかったからであり、ちょっと油断すると鬼頭が絶命した時の歪んだ顔がふっと眼前に浮かぶのであった。美嘉は自分の性器や尻の穴にはい回る飛男の舌が鬱陶しかった。今朝の鬼頭との目眩くような獣のように連み合ったセックスの後、飛男のペニスは銜えるのも腹立たしいくらいの見窄らしさでしかなかった。美嘉が鬼頭から飛男を脅すこと聞かされていなかったら部屋にいるつもりはなかった。脅された直後の飛男の心理状態を確かめるように鬼頭に言われていたからであった。美嘉の性器を嘗め回しながら徐々に飛男の身体が転回し勃起しきったペニスを美嘉の口元に来るようにして来たのを境に呻き声を上げながら美嘉はそれを口の奥深くまで導き入れた。二、三分吸い込むように舌で転がしただけで飛男は軽い声を上げて果ててしまった。しばらくの間、飛男は昼に起きたあの忌まわしい出来事を思い出していた。如何に鬼頭が悪党とはいえ自分が殺した事実には変わりがなかった。このまま黙っていれば誰にもばれない出来事でしかなく、おまけに飛男の嵌められて担がされた借金も棒引きになる。それに自分と共に鬼頭に苦しまされていた美嘉もきっと喜ぶはずだと思った。その思いはあの殺人が自分ひとりではなく誰かもきっとわかってくれるはずだという独りよがりの考えに過ぎなかった。まさに役人生活の中で培われ来た御都合主義の見本のような愚かさであったが美嘉にだけは隠し事はしたくなかったのである。そして御目出度いことに鬼頭と美嘉が出来ていると言うことを飛男は知る由もなかった。それは凡夫の愚かさとでも言うべきであった。
「あのな、美嘉。実はな今日、鬼頭から呼び出されて会っていたんだが」
 思い切って美嘉にだけは打ち明けておこうと飛男は決意したのであった。
「あらそうなの。私はちゃんと払っているわよ」と美嘉はとぼけることだけは忘れなかった。
「それでな、いきなり山奥に連れて行かれて埋められそうになったんだ。怖かったよ」
 飛男は恐ろしさを振り落とすかのように美嘉に抱きついてきた。
「ええっ!なんてひどいことをする男なの」
 美嘉はその情景を浮かべながら笑いで吹き出しそうな自分を必死でこらえていた。だがそれは一時のことでしかなく次の言葉でそれが止まった。
「な、そう思うだろう。俺も必死になって抵抗したんだが素手であいつに勝てるわけがない。車に於いてあったスコップであいつを殴ったら、あいつあっけなく死んじまったんだよ」
 美嘉に抱きついたまま肩越しに飛男は一気に言ってしまった。その言葉を聞いた瞬間、美嘉の体がビクンと波打ったが飛男が強く抱きしめたためそれ以上の動きはなかった。こんな腐れチンボに鬼頭がやられるなんて、にわかに美嘉は信じがたかったが飛男の体は次第にがたがた震えだしてきていた。またそのことによって美嘉はそれが事実であると悟ったのである。美嘉はその頭の中で鬼頭の死を認めようとしたがどこかの隅では鬼頭によって女にされたもうひとりの美嘉が認めたくないと叫んでいるような気がしていた。そして美嘉はすぐに次の行動に出た。
「ねぇ、あんた。鬼頭はそのあとどうなったの?」
 美嘉はしがみついている飛男の腕を無理やり解きながら尋ねた。
「そのまま埋めたんだよ。だけど、ひとつ間違えばこの俺が埋まっているところだったんだ。だけど、今こうやって美嘉を抱くことができる。俺の勝ちなんだ。奴の鞄の中にあった俺達の借用証書も抜いて持ってきたし、もう鬼頭なんかに責められることもないんだよ。なぁ、美嘉、わかってくれよ」
 再び飛男は美嘉を抱き寄せ手の指を股座の奥で濡れそぼっている襞に差し込んできた。美香の体が鬼頭の死の情景を想像するからか、そこはもう鋭敏になり淫水が次から次へと滴り落ちていた。軽い呻き声が美嘉の口元からこぼれ落ちてきた。
「鞄はどうしたの?」
 美嘉はいつも鬼頭が持ち歩いている鞄の中に金融事務所のドアの鍵と金庫の鍵があるのを知っていた。
「中身をとりあえず全部紙袋に移し変えて奴の死体と一緒に埋めてしまったよ。紙袋は今テレビの上に置いてあるよ。ほら」と部屋の隅に置いてあるテレビを指差し、そんなことはもうどうでも好いといった具合で美嘉をまた押し倒した。飛男のペニスは既にもう勃起していてそのまま美嘉の襞を押し分け入ってきた。美嘉の体は得も入れぬ快感に覆われ飛男のペニスを力強く痙攣する膣で締め始めた。
 飛男は二回目を果てたあと口を開け鼾をかきながらベッドで寝入っていた。美嘉の淫水と飛男の精液にまみれたあと、そのまま乾いて白く粉を噴いたようになっているペニスはだらしなく萎えてしな垂れていた。美嘉は指の先でペニスをちょいと弾き眠りの深さを推し測っていた。一瞬鼾は止まったが、しばらくするとまた大きな音を立て始めた。美嘉はそっとベッドから降りて洗面所に向かい、その壁の下にある戸棚から電気掃除機を取り出した。そして持ち手を掴みながらベッドで眠りこけている飛男の枕元に立った。音を消すかのようにそっとリールを動かしやや太めに出来ている電気コードを二メートル程引っ張り出してそのまま飛男の首に廻しきると一挙に後ろからコードを力いっぱい絞め上げた。飛男がグッという声を喉の奥から出ししたようにも思ったが手の力を緩めることなくそのまま絞め続けていた。そして深夜にかけて飛男の肉体はバスルームの中で美嘉によって包丁と鋸によって解体されプラバケツ10個ほどに分けられ翌日には海に架かる大橋から深夜肉片として魚の餌に消えたのであった。飛男が見た悪夢もやはり実現されたのであった。

 二日も経つと美嘉は元居た小料理屋の仲居としてカウンターのあちこちを忙しそうに立ち回っていた。怪しまれないためにもそうすることが一番いいように美嘉は思ったからである。鬼頭の事務所と部屋からの金庫には数千万円の現金が出てきてそれはもう美嘉のベッドの下に隠してあった。「あとは新たな男を捜すだけだわ」と美嘉は心の中で呟いていた。なんと言っても三日も空き家になっていて下半身が疼いていてどうしようもなかったからであった。
「やあ」
 男の声がして後ろを振り返るとにこやかな顔をして男が美嘉に手を挙げていた。飛男と数回この店に来ていた課長の肥田だった。美嘉がカウンターに案内し、すぐに注文のビールとツマミの肴を持って行った。
「お久しぶりです。おひとつどうぞ」
 美嘉はことさらに肥田の首にくっつくかのように口を近づけた。それはまさに妖艶な雰囲気を漂わせて肥田に鳥肌が立つようになるであろうことを美嘉が一番よく知っていた。そのまま相手の目を見つめると肥田の脂ぎって下品な顔が崩れているのが読み取れた。肥田は一旦まわりを気にするかのように軽い咳払いをしたあと板場の眼を盗んで美嘉の尻を撫で回した。数時間後ホテルの一室で肥田の体に馬乗りになりながら美嘉が荒々しい嗚咽声を上げ腰を振っていたことは言うまでもなかった。そして翌日菊池飛男の妻からの捜索願によって職場にある飛男の机の中が捜査員の手によって開けられ、システム手帳が発見されることなどこの二匹の獣達は予想することはなかった。

   -了-
※本作はコンポラGで2006-11-30に既に発表されたものに加筆訂正を加えたものです。

2006年12月10日日曜日

善なる人々-悠治編-

 十二月の中頃になろうというのに今日の気温は穏やかであった。村杉悠治はさほど広くない庭越しに黄金色に染まった葉を少しずつ落とし始めた銀杏の木をしばらくの間眺めていた。ある程度まで成長しないとその性が判別しにくい雌雄異体であるその独自な樹木は悠治にとっても不思議な木であり道沿いにあるこの木が気に入ってこの土地を買ったようなものだった。これからも何百年も生きていこうとしているその木は天空に向かって伸びてゆくのだ。そしてその木は今まさに葉に陽の光を通し黄金色の渦巻きを作り始めていた。それは悠治をして体もろとも空の彼方まで跳ね上げてゆくような気分にさせるのだった。
 悠治の家は会社から車で十五分程度の距離にある閑静な住宅地の一角にあった。三年前の結婚を契機にかねてから買っていた土地に家を新築したのである。妻とまだ幼い子の三人で平和でのどかな生活であった。
 「悠治さん、南面を大きく取っておいて本当によかったわ。冬の僅かの日差しも取り入れることが出来るんですもの。それにこんなにゆっくりと出来るのも久しぶりよね」
 男は黙ってそれに頷いた。景子はソファで寛いでいる夫の足下に座り、長く伸びたその腕を夫の体にもたれかけてきた。ようやくヨチヨチ歩きを始めたばかりの息子の景治が絨毯の上をおぼつかない仕草で往復し時々笑い声を上げていた。視線を下げると景子のまだ初々しさの残る白いうなじが艶めかしく写っていて、そのまま肩から背にかけての柔らかな曲線に繋がっていた。つい先ほどまで景治が寝ていた横で二人は絡み合っていたのだ。今も目を閉じると景子が何度も突き上げるように持ち上げてきた白い尻とその下から分かれた長く伸びきった腿が浮かびあがっていた。男は少し前屈みになると景子の胸元の白さを浮きだたせているVネックのセーターに手を差し入れた。やがて景子の乳首は硬くなり心もちか息が荒くなってくるのを楽しんでいた。夫はこの若く美しい妻を今ほど愛していると思ったことはなかった。午後の太陽はもう傾きかけてきて、部屋一杯をその暖気で覆いつくした。銀杏の輝く葉の色に溶け込むようにそれはやがて男のからだ全体を包み込んだ。
 「ああ、なんて心地良いんだ。ああ」
 悠治は心の中で何度もその溜息にも似た言葉を読経のように口誦している自分に不思議さを感じていた。やがてその口誦は幾重にも重なる音となり、遙か遠くから聞こえたり、時としては耳朶に触れるように囁くように近づいてきた。そして日溜まりに包まれながら彼の姿は黄金色の渦の中に巻き込まれていった。

 午後四時頃には重く垂れ下がった鉛色の空の隙間から陽が落ちていった。視界の向こうにある窓の外の雨もシベリアから急激に下がってきている寒気の所為でみぞれに変わろうとしていた。夜には本格的な雪模様に変わってくるのだ。そして、これから三ヶ月近くの間この北陸の地方都市は太陽の光を隠され冬籠もりに入ってゆく。
 村杉が課長として率いている営業第三課は大規模土地開発に基づく宅地分譲の販売部門であった。競い合わせる意味で営業第四課もあり五メートルほど離れた硝子パーテーションで仕切られていて二階の同じフロアー並んでいる。一階を陣取りマンション販売を手がけている営業一課や不動産仲介業専門の二課と違い、この二階の課はここ最近苦戦を強いられていた。一地方都市にしか過ぎないこの地方は絶対人口が少ないうえ人口増加も微々たるものでしかなかった。そして最近の傾向としては中心地へのマンションへ徐々に人気がシフトしてきていることも悪材料としてあった。考えようによってはこのセクション自体もリストラの対象にならざるを得ない。現に部長の谷口から三課と四課を合体させ課員自体の中で成績の振るわない者数名を依願退職という形にもっていくことを知らされていた。その代わりにどちらかの課長を次長に昇格させるという話であったが、実質的にはそのどちらかの勝ち負けで責任を取らされ万一あれば自分が退職に追いやられることは間違いがなかった。また生き残った場合でも彼にとっては部下のうち何人かを失うことになるだろう。せめて長年コンビを組んできた部下の塚原だけは失いたくなかった。そのためにも村杉と塚原は夜討ち朝駆けのようにして今取り組んでいる関西系商社を挟んでの大手住宅メーカーとの商交渉に全てをかけていた。今のところ交渉は何とか順調に進み、年内には提携契約が成立するはずであった。年間百棟を越える住宅建設を目論める商談を締結させるとなれば現在苦しんでいる分譲販売に弾みがつくばかりではなく会社も資金繰りの硬直化からも脱することが出来るはずであった。勿論、村杉としてはこれを契機にして塚原と共に功労賞を得、生き残りを目指すことも出来ると踏んでいた。村杉はその見通しが立った時点で塚原に上層部からいわれている今回のリストラ提案を話せばいいと思っていた。
 村杉はつい先ほどまでいつものようにやって来るその時間を待っていた。ここ最近になって特にその回数が増えてきているように感じていた。しかし、その例のものがすぐ側にまでやってくる前に塚原の声で現実に引き戻された。
 「課長、ねぇ、課長。聞こえてんですか」
 自分のデスクの前に二列で繋がっている六つのデスクの一番手前が塚原の席だった。村杉は塚原に声をかけられ、ようやく我に返ったが、それまで何か得体の知れない空白の時間を過ごしたいたことに気づくこともなかった。塚原が向かう視線の間にはPCのモニターがあり村杉の顔の表情までは見えていないはずであった。たとえ見えていたとしても塚原には彼がデーターの分析をしているよう見えただろう。そして声の先に顔を向けると塚原は立ち上がり、すぐ彼の傍らに近づき囁くように言った。
 「開発部ではもう来夏以降の分譲計画を前倒しして来春ということで立ち上げているらしいんですよ。知ってましたか?」
 塚原の言いたいことは村杉には分かっていた。
 「今期分もまだ充分捌けていないのに、開発部も何考えてるんでしょうかね」
 塚原のような営業一筋の男にとっては開発部のそのやり方が嫌みのようにしかとれなく、自らの情けなさも手伝って憤懣やるかたが無いという風であった。
 「開発部は開発部での立場もあるんだろうよ。今我が社は正念場にいることには変わりがないよ。マンション分譲は何とかトントンだから我々宅分課は肩身が狭い。財務部からの圧力というか、銀行への手前もあるから一種のフェイクも必要としてるんだろうよ。ま、俺たちの今進めている案件さえ成立しちまえば苦戦から何とか立ち直ることが出来るだろう。頑張るしかねぇだろう」
 村杉は模範的な上司としての回答をするしかなかった。今、塚原と進めている関西商社が持ってきた提携話が万が一にも暗礁に乗り上げれば自分の立場もこの課の人事権も一切吹っ飛ぶ。そればかりか自分自身の生活も怪しくなるのだという切迫感は微塵にも出さなかった。しかしその後すぐに営業部長の谷口の酷薄そうな顔が一瞬浮かび胃の隅にキリキリした痛みが走った。つい先ほどまで谷口に呼び出され三ヶ月間の販売見通し報告をしてきたばかりであった。雪の季節を迎え販売状況の動きも止まり、さりとて春先に見込める販売見通しも今はまだ確定的といえるほどの状況に無かった。確かに今有望な案件は進んでいるが自分の規律の中では約定が成立していない内の仕事は上にも報告しない主義だった。それは長年営業畑を歩んできた者のプライドから来る習性というべきものであった。とにかく今は焦ってみても仕方がないのだと彼は自分に言い聞かせていた。

 子供達はそれぞれ受験を目前に控え二階から下りてくることはなかった。悠治は居間で妻の不機嫌そうな顔を見るまでもなくテレビの方に目をやっていた。目尻の皺や顔の所々に出来ているシミが底意地の悪い性格の美佐江をいっそう醜くさせていた。出来るならばこんな時間に帰宅はしたくなかったが、ここ最近の残業続きでいっそう不機嫌になってゆく美佐江への気配りを考えた行動であった。だが帰宅したとたん、それが誤りであることも悠治は思い知らされていた。ここには安らぎも愛も無かった。どこにいても頭からこびりついて離れないのはこの生活という永遠に続くように思われる重しを乗せられた現実であり聞こえるものといったら美佐江の口から出る生活の不満と高校受験と大学受験を控えている二人の子供に対する愚痴ばかりであった。悠治は自問していた。
 「なんで俺はこんな希望も無い生活をしているのか。これが人生というものなのか」
 これは俺が望んでいた生活ではないはずだ。妻を前にしても悠治の心の中は目の前に見える世界を否定し続けていた。だがそれは単に果てしなく循環運動をしていている自分の愚かな姿でしかなく自らが選び取った世界であることも確かであった。この世というものはその通りにしか成り立っていなく、今や虫けらの生と何ら変わらなく、ただ黙々と生きるしかない悠治を更に暗澹とした気分に陥らせていくのであった。
 「ねえ、あなた聞いているの?家だって楽じゃないのよ。来春には純一は東京の大学へ行くのよ。ここ二年というもの昇級さえままならないではねぇ。本当にお先真っ暗だわよ」
 いつも通りの話の展開が始まりお定まりのコースに向かってゆく。悠治は聞くとも無しそれなりの気のない返事を返し徐々に気力が萎えてゆくのを感じていた。確かに子供達が小さい頃のバブル全盛の時代にはまだ生活的には余裕もあったが今のような厳しい情勢では美佐江の言うことにも一理があった。しかしそれは決して悠治の所為でもなく時勢の流れというべきものの所為でもあったのだ。だが子供に対する責任は父親たる悠治の責任でもあることは認めざるを得なかった。家族のために独立や転職も考えないではなかったが自分のキャリアを考えると様々なリスクが付きまとい、また悠治にそこまでの勇気も持てなかった。最終的にはこれが俺にとってお似合いの人生なのだと自分自身を納得させるしかなかった。現在と未来はそうやって有り、二人の子供達も成長し社会に巣立って、また家庭を営んでゆくのだ。いわば誰しもが逃れようもないその繰り返しの中で、悠治もやがて妻と共に老いてゆき、その生の痕跡も墓石以外跡形も無く歴史の彼方に押しやられてしまうのだ。

 「課長、ねぇ、課長。聞こえてんですか」と塚原が今まで電話でやりとりをしていた相手との報告をするために傍らにやって来た。塚原の表情は気色ばんでいた。
 「いったいどうしろと言って来てるんだ」
 やりとりの声は先ほどから彼の耳に聞こえていて、どうやら先方はさらなる価格交渉に入ってきているのは理解していた。こちらが土俵に乗っかってから相手との足元を見たギリギリのつばぜり合いが始まったのである。村杉としても十億を超えるこの商談にかけていて、もう引き下がることは出来なかった。敗北は全てを根底から崩し村杉自身の全存在をも消滅させることに繋がる。
 「もう五パー切れっ、て言うんですよ。どうやらライバルが居る気配を匂わせているんですよ。どうしますか?」
 「ライバル?俺たち以外に、そんな者があっちにいるわけねぇだろうよ」と村杉は声高く言い返した。
 確かに今この市内で大規模開発は村杉達が属している会社以外は居ない。ただ小規模開発業者はごまんと居たが、相手もそれに乗るのは運用効率が落ちるだけでなく商品イメージも下げることになるはずだった。まして五パーセントの値引きは収益分岐を割ってしまうことになり彼らの販売権限が及ばなくなる領域になっていた。どうせ上では認めないだろうと村杉は思った。
 「でも、課長、これを逃したら、もう後なんか無いですよ」
 塚原の言うことは正しかった。もう俺たちに後は残されていないのだと村杉も思っていた。上と交渉するしかなかった。
 「わかった。谷口部長と談判してくるよ」
 内線で谷口の在籍を確認すると村杉は席を立った。三階の役員室とはいえ常勤役員は社長を除き全てがワンフロアーで執務していた。社長室のドア入り口が財務経理部で取引銀行からの出向常務が数人の事務職の者を従えていた。一瞬入ってきた村杉を常務は一瞥するとまた視線は下に向いた。
 村杉はフロアー中央にあるミーティング・テーブルに座り谷口部長に話を切り出した。
 「実は部長には詳しく報告をしていませんでしたが、ここ一ヶ月前ぐらい前から難波商事金沢支店の斡旋で住宅大手のセキトモ・ハウスと分住の提携話を進めて参りました。部長にはもう少し状況が定まってから報告をと思っていました」
 村杉は谷口の顔を伺いながら一呼吸を置いた。谷口がそれについてどのような反応を見せるかがこの話の成り行きを窺わせるからであった。
 「話を続けろ」
 村杉の睨んだように谷口は興味をもったようだった。村杉は谷口の目を見ながら今までの経緯と交渉の流れを一挙に話し切った。後は谷口の判断次第であり村杉にとっては谷口との話し合いも商取引の交渉と変わりがなかった。だがこれが彼の誤算の始まりだった。谷口の老獪さばかりは読み取ることは出来なかったのである。谷口はこの時期滅多にない商談を進めるに当たってまず社内権力の保持を計ることを第一義に考えていた。村杉と塚原のコンビが進めている話は一度難波商事の支店長から谷口に裏を取る問い合わせが来ていた。つまり、おおよそ予測がついていたのであり、営業部長としての結論はイエスであった。ただ来春予定されているリストラ人事が持つ社内事情がそうはさせなかった。これが村杉の悲劇の始まりでもあった。
 「せめて二パーで臨むことは出来んのかね。このままだと社長の承認を得ることが難しい」
 谷口は故意に顔をしかめながら村杉に言った。しかしこれは牽制でしか無く、今の社の状況を考えると営業三課が持ってきたこの案件をみすみす沈めるはずもなかった。ただそのまま認めるとなると来春控えているリストラ人事に支障が出てくるように腹の中で思っていた。村杉のラインは切るようにという上での裁断が出てしまっていたからである。ここで一旦村杉らを牽制しておき渋々値切りに応じたことにしておけば村杉ラインの手柄であると手放し評価は出来なくなるはずだからである。そうすれば人事もやりやすくなり、手柄の実は自分のものになり結果として会社のものになる。権力の中枢域に近い者ほど有利に事が運ぶのはここにおいても例外ではなかった。
 「どうだね、君の判断は?」
 「部長、先方とはもう隙間がないくらい話し合って居るんですよ。これが最終案です。部長の返事がノーであるならばこの話は壊れる可能性が大です。私たちの努力も水の泡になるんですよ」
 村杉は必死だった。
 「では、返事を少し先に延ばせ。社内での根回しに二、三日かかる。だからといって五パーになる保証はないがな。お前が考えるほど社も楽ではないんだよ。それ以外今は言えない。分かったら席に戻れ」
 谷口はにべもなく村杉を突き放した。落胆して階下に下がる村杉の後ろ姿を見送ると谷口はすぐさま難波商事金沢支店に電話をかけた。谷口は谷口で一石二鳥を狙った策を弄していたのである。
 席に戻ってからの村杉は急激に体の力が抜けてきているのを感じていた。球はこちらに投げつけられており明日中にはきちっとした返事を難波商事に持って行くことがルールであるからだ。二パーの提示は相手に対する返球にならないばかりか、塚原の意見を待つまでもなく口が裂けても言えないことであった。中途半端の譲歩は時として相手方の感情を逆撫でし今までの交渉ごと自体が振り出しに戻る事を意味していた。もし相手が牽制したようにライバル会社が居るのならば敗者が誰であるか決まっているようなものだった。とりあえずは明日午前中まで難波商事への返事を延ばし、再度谷口部長を含めて社内での調整を計ることで渋っている塚原との意見調整を行った。

 村杉は会社で九時を指そうとしている時計の針を見ていたが帰宅の準備をしようとする気にはなれなかった。もうこの時間になると社内には彼しか居ず、あとは警備会社へ最終の連絡を入れて一階の鍵を閉めるだけであった。村杉の心は虚しく寂しかった。タバコの火の中心部が一瞬の間メラメラと炎を上げたような気がしたが、それは目の錯覚だったかも知れない。窓の方に目をやると外はいっそう雪が激しさを増していた。もう一度タバコの火を見ると先ほどよりも大きく炎を上げた。村杉はまた例のものがやってくる気配に囚われていた。黄色く輝くまばゆい光がすぐ側までやって来ているのだ。
 夕方から降り続いている雪も夜の十時近くにもなると五〇センチ近くにまでになり道路は圧雪状態になっていた。悠治の運転する車は凍結し始めた路面を慎重に轍を選びながら走っていた。もうこの時間になると妻の景子は息子を寝かしつけてしまっているだろう。妻の美しい横顔がもうすぐ悠治を待っているのだ。帰るべきところに俺は帰るのだ。ソウダ、カエルベキトコロニオレハカエルノダ。やがて前方に金色に輝いている瀟洒な家を浮かび上がらせ、銀杏の木の向こうにある庭を通して寝室を眺めることが出来た。目を凝らすとベッドが柔らかな光に包まれて妻の白い裸身がまるで幻化のように横たわっていた。悠治はアクセルを少し踏み込みスピードを上げ始めていた。前方の対向車線にはこの雪で出動している除雪車の黄色灯が見えていた。点滅している回転灯は一定の間隔をもって悠治の視界にその金色に輝く光を差し込ませていた。スピードに乗った悠治の車は轍を踏んだ鈍くて重いショックを車体に伝えるとクルクルと回転し始めた。アクセルを緩めない車体は後ろ向きになりながら路面からふわりと浮き上がるとそのままジャンプするかのようにモーター・グレーダーのブレードに突き刺さっていった。そして鉄の塊と化した車は辺り一帯にグオーンという衝撃音を響かせて爆発炎上した。悠治は一瞬の間でしかなかったが自分の骨と肉とが引き裂かれる音と共に炎の中で妻と息子の姿を見ていた。

 カエルベキトコロニオレハ…… カエルベキトコロニオレハ…… カエルベキトコロニ……カエルノダ

 -了-
※この掌篇はコンポラGで行われた『ブログ・バトル・ロワイヤル』の参加エントリとして書かれたものです。

2006年11月30日木曜日

アマルコルド

   なぁ、遠くまで来たもんだ

   もう思い出す事も懐かしさも失せた

   車が行きかう交差点の中で、尻尾のさがった老犬二匹

   やつらにはおれ達の立ちつくす姿なんか見えないのさ

   おまえが先に轢かれるか

   おれが先か、なんてことも、眼中にないのさ

   首輪?

   お互いとっくの昔に無くしちまったじゃないか

   もう、オレ達は死んだも同然なのさ




 いつになく冬空の厚い雲の隙間から陽が差し込んでいた。
 つかの間の光だ。

 所定の駐車場へ車を置き、長靴を引きずるようにして面会棟に歩みを向けた。午後のせいか面会人が少なく老夫婦が二人、体を寄せ合って待会室で体を丸めていた。おれは受付係に頭をぺこりと下げ面会申込書を貰い名前を書く。関係の記入欄に「引受人」と書き入れる。それから備え付けのボックスキーを貰いロッカーに所持品の入ったバッグを入れ鍵を閉める。
 そのうち老婆はよろよろと立ち上がり受付に差し入れについて何か問うていた。受付係の言葉も耳の遠くなった老婆にとっては当を得ないようだ。おれは立ち上がり、傍らで老婆の肩に手を置いた。こうやるんだ、と『差入れ願箋』の書き方を教えてやる。もう曲がってしまっている背を更に丸めオレに感謝の意を表した。
 15分ほど待たされ、呼ばれる。
『5番の方、3号面会室にお入り下さい』ドアを開 け面会室が並ぶ通路を歩き3号に入る。
やがて看守に伴われてリュウが満面笑みで入って来た。
『よう!元気か?』とおれ。
『おまえこそ、心配してたんだ』とリュウ。お互い通音穴があいた円形の「話口」に顔をくっつけるようにして話が始まった。仕切の強化アクリル板がおれの吐く息でどんどん白く曇ってゆく。やつのいるところとおれのいるところの温度差のせいだ。おれは時々アクリル板の曇りをとるように袖口で拭きながら話を進めた。懲罰を喰らっていた事は奴の手紙には書いてあった。胸の名札を見ると白地に名前のみしか書いてなかった。四等囚、つまり最下等囚であることを表している。本来なら二等囚であるはずだった。四等囚に仮釈は無い。中で何が起きていたのかは知るよしもなかったが我々の世界では「満期務め」を表す事でもある。
『懲罰は?』とおれの方から聞いてみた。
『10ヶ月だよ。去年のほとんど懲罰房だった。すまん』とリュウは申し訳無さそうにおれに言った。
『いや、そんな事はいいんだ。満期だと4月の14日か15日になるな』とオレは刑期の逆算をして言うと、満面笑みを浮かべた。
『おれには通知が来るだろうから、午前八時半には迎えに来ている。しばらくおれの所で気兼ねせずに遊んでいろ。慌てるとろくな事がないからな』とおれ。
『すまん』とリュウ。
『よくして貰っているのか?』とおれ。
『ああ、おまえの名前を言うと大概可愛がって貰えるんでな、感謝しているよ』とリュウが冗談顔でおれに言った。おれの知っている限り十数人の知人がいるはずだった。「工場」か「房」でおれの名前を出せば奴もなんとかなるって事だ。
『それはよかったな。可愛がって貰うんだぞ』とオレ。
『ああ、みんなおまえに宜しくって言ってたよ。房にも居るんだ南無さんには世話になった、・・・・の○○が、と。』とリュウはつい口を滑らせる。
『話止めーぃ!房中の人間の事は言ってはならん!中止っ!』と看守。
『オヤジさん!スイマセン!もう少しだけお願いします。もうすぐ終わりますから』とおれの方で頭を下げ頼み込む。あとは出てからの準備の話等で面会時間の30分は終わってしまった。互いに立ちオレは手をアクリル板にのせ『辛抱せよ、もうすぐだからな。旨い物も酒も女も待ってるぞ』とありきたりの科白を言った。ヤツはニンマリとして手を振って去っていった。

ムショで還暦を迎えるおまえなんかには、もうおれしか居ないんだよ。

2006年1月31日火曜日

墜ちた男

 オヤジから2ヶ月ぶりに呼び出しを受けた。オレは途中で手みやげにかき氷を買った。仏間となっている大きな座敷で二人っきりで無言のうちで食べた。外からアブラ蝉の音が断続的に響いていて9月に入ったとはいえ外気はいっこうに下がらなかった。
「金沢の山崎だが、おめぇは顔を知ってるな?」数度ばかりこの家で会ったことはある。昔の舎弟だったということ以外なにも知らない。オレはいわゆる、「そういう世界」に距離を置くことをオヤジも知っていた。オレは黙って、開かれた仏壇に祀ってある瓶詰めの指を眺めていた。ロウソクの揺らぐ火が十数も並ぶ瓶に反射していた。死してようやく極楽へ往けた者達の指だった。
「あれに引導を渡して息子に次がせろ。息子は可愛い」とオヤジはオレに低い声で囁き大きな封筒を座卓上の俺の前に置いた。そして一式書類をその場で目を通すように言った。有限会社山崎建設と山崎個人の権利書、数枚の手形、金銭消費貸借証書が入っていた。4500万の債権額だなとオレはざっと頭にたたき込んだ。しばらくの沈黙が続いた。オレで言う所のスクラップ・アンド・ビルトの指示だった。いずれにしても荒療治になるのは目に見えていた。
「取りかかるには少し時間が必要です。調べるものは調べる必要がありますから」とオヤジに言った。オレは長くなるな、と心の中で反芻した。
「どのような結果になろうが、儂はなにも言わない。これはいわば儂のミスだ。このことに伴う生きる金が必要な時には儂に言え。人間が必要になれば用意する。頼めるか?」と言った。いつにもない言葉のように思われた。
「わかりました。何処までやれるか判りませんが、目一杯やってみます」そしてすべての書類をコピーしてくれるように頼んだ。当座の費用がかかるだろうとオヤジはオレに100万を渡した。

 調べには10日以上かかった。表と裏のあらゆるネット・ワークを利用した。オヤジからは書類以外の一切の情報を聞くことはしなかった。オレは予断を嫌うからだ。金沢にも数回出かけ法務局での閲覧、顔見知りの地回りやくざ、事件師達からも情報を集めた。情報は錯綜していたがいくつかのひっかかりは出てきた。浮遊している手形の存在を見つけることが出来たのだ。きっとオヤジもパクリ手形の存在に薄々気づいたのだろう。オヤジは隠し事には冷酷だ。やくざモンを使わずにオレを使おうとするオヤジの”策”の意味がおぼろげながら見えてきた。こうなると、裏より表の力も必要になるかも知れないと思い知人の税理士に電話を入れた。タフでペテンが利く若いタマゴを一人借りたいと頼んでみた。たぶん融手操作をしているだろうとオレは直感で感じていたからだ。説明のため税理士事務所に赴き趣旨の概要を伝えた。先生の返事はオーケーだった。税理士には謝礼として20万支払いタマゴ代は直接本人に渡すと言うことで了解を取った。
 鶴来街道に面した200坪程度の敷地に山崎の四角い事務所があった。別棟として仮設プレハブの建物が見て取れた。オヤジから連絡があったらしく、山崎は慇懃にオレを迎え入れた。オレは立て直すためここに来たのであってそれ以外他意はない旨伝え協力を求めた。そして困っていることがあれば何でも相談にのるつもりであるとも伝えた。経理関係の帳面、小切手帳、手形帳、金融機関のバックシート、仕入れ帳、伝票、請求書、領収書の類まで明日まで全て揃えて欲しいと言った。いうなれば監査である。帳面を付けている若い女は不愉快そうな顔をしてオレの顔を見た。役目柄面倒だと思ったのかそれとも別のことを思ったのかその時オレは気にもとめなかった。しょせん山崎に股ぐらを開いている女に過ぎないのだ、と。
 翌日タマゴと兼六園近くのホテルのロビーで早朝待ち合わせをした。ここが今後われわれの宿泊先となるのだ。簡単な打ち合わせをカフェで行った。知りたいことは総合的なバランス、今後の工事高から推測出来る売掛金の予測、そして過去3年までの取引先との不自然な手形決済等が知りたいとオレは伝えた。30前後に見えるタマゴはワクワクしながら聞いているようだった。帳簿に関する一切の疑問は相手にぶつけて欲しいとも言った。そして、始まった。

タマゴはがんばっていた。日中はほとんどオレと口を利く暇がないくらい数字の下敷きになっていて、眼も殺気立っていた。夕方に一日が終わるとオレと二人っきりで晩飯を食いながら2、30分問答をした。タマゴは問答を必要としていた。焦点を絞らないといけないから、と。夜は早めに寝れるようオレはタマゴを気遣った。女は相変わらず不機嫌でタマゴにつらく当たっているようだった。山崎は日一日と落ち着きが無くなってきて用もないのに外出したりした。そんなことは予想の内である。山崎は金貸しでもないヤクザでもない、まったく懐かない人種であるオレの対応にどうしていいのか戸惑いを感じているようだった。どっちにしても残された時間はそんなに無いのだ。三日目の夜、タマゴは飯を食う手を止めてオレに聞いた。
「あのぅ、南無さん、こんなこと私が言うことでもありませんが、・・・。本当に助けるんですか?」タマゴは全体像を掴んだようだった。声に苛立ちがみてとれた。
「なぜそんなことをオレに聞く?」つぶすかも知れないとはタマゴには言ってなかった。再建の道を探りたい、と言ってあったからだ。
「もう、死んでます」タマゴの口からため息が出た。オレはそれに答えることはしなかった。
「今晩中にまとめますので、明日の朝、このホテルで南無さんに説明したいのです。いいでしょうか?」と言った。オレに異議があるわけはなかった。その夜オレは頭を白紙の状態にして風呂上がりにハーパー12年を一杯だけ飲み早めに寝た。

 明け方近く目が覚めた。窓の外の向こうに兼六園の木々が薄明かりの中で影絵のように見えた。酔いは残っていなかった。熱いシャワーを浴び、昨日香林坊下で買った真っ白なワイシャツを着ることにした。ネクタイを締めたオレの顔が笑ってないことに気づき、笑顔を作ってみた。ふん、まるで馬鹿に見えるぜ、と。6時30分だったがロビーに降りカフェでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。7時過ぎに目を腫らしたタマゴが降りてきてオレの前に座った。
「あらましはレポート用紙5枚にまとめておきました。そしてこれは対応した資料です。とりあえずレポート用紙から目を通してください。」とタマゴは言った。オレはレポートを読み始めた。驚くほどつぼを心得た内容になっていて、タマゴの能力に舌を巻いた。小切手、手形帳の紛失していると思われる枚数とみみが残っている不明瞭な手形と推測された振出期日、そしてバックシートとの対応表。ここ6ヶ月以内の仮払金の残高、発注書の存在が無い取引先への出入りのチェック表。売上高に対応する受取手形の金額、決済日、回数、及び外注に支払うと見せかけ振出している支払手形の抽出。固定的な一般管理費の月別推移表、等々。重要だと思われる項目にはマーカーが付けられて理解を早くするように作られていた。資料にはレポートに付けられている項目番号に対応した付箋がぎっしり貼られていた事は言うまでもなかった。
「アンタ、凄いよ。オレのような人種と仕事したことあんのか?」と思わずオレはタマゴに言うほどであった。タマゴは嬉しそうな顔をしたが返事はしなかった。オレの質問を待っているようだった。
「つまるところは”乱発”状態に陥っていると言うことだな?」とレポートから目を離さずにタマゴに言った。
「そればかりではないようにも思われます。相当額の現金も別使途で消えていると推測しています。資産はほとんどボロです。とにかく経営者はまともではありません」オレは頷き同意した。
「飯を食い終わったら一緒に行ってくれないか。山崎と詰めをしなければならない」とタマゴに同席を頼んだ。
 オレは当初回収のための資金導入もあり得るとまで考えていたが、どうやら危険性があるようだった。この線は消えている。融手操作を更に深めて現金を抜くという手もあるがバランスを見るとほぼ限界線まで来ていて小手先の三文手品に過ぎなくなり失敗すると取り返しがつかなくなる。まして融手の相手先は嵌ってくれない可能性の方が高いと判断した。不動産には目一杯担保がつき含みはなかった。このままでは倒産を待っているだけしかないのか、オレの役割はこのままだとゼロでしかない。つまり子供の使いだって事になる。オレの心は追いつめられていった。
 山崎は富山県と新潟県との県境にある朝日町の生まれであった。若い時は博徒集団の使い走りをしていた時期もあったようだ。北陸高速自動車道の工事で大量の”人夫出し”をして、したたか儲けた。御殿みたいな家を建てたこともあったが、不良とのつきあいが抜けず手形がパクられ倒産した。そして女房は出て行き山崎は子供達二人を連れて金沢へと逃げ、当時からつき合っていた糸魚川の女と金沢で再婚した。女の姓を名乗り”別人”となってこの事業を再興したのだ。しかし性格は変わらず金沢の不良達とまたつきあい始め、振り出しに戻ろうとしているのだ。今度は逃げることは出来ないはずであった。またオレはそんなに間抜けではなかった。
 午前八時から三人で討議が始まった。仮設プレハブで作られた食堂の屋根がじりじりと焦げ付いてきてエアコンがあることを忘れさせていた。今日の金沢の残暑は猛烈になるだろう、と思った。
「社長、大体のところは把握したのですが、いくつかの疑問があります。再建のため必要なことなので、協力をお願い致します」とオレは開始の宣言をした。お互いに決して戻ることの出来ない地獄の門を開けたのだった。
 やはり6枚で2千万の手形がパクられていた。行き先の情報は既に金沢の不良達から聞いていた。その他行方を吐かない仮払金が500万ほど。山崎はどもりながら、時にはふてくされの態度を見せながら語った。オレには不遜の態度をとりながらも、オヤジに対しては迷惑をかけている、とも言った。
「山崎さん、アンタのほうでなにか案でもありますか?」とオレは冷ややかな態度で言った。山崎から言葉は出なかった。
「私もこのままオヤジに報告してもいいですが、子供の使いじゃないのでね。わかっているんですか?」
「オヤジさんには迷惑はかけねぇ。それだけは無い」山崎は天井を仰ぎながら小さな声で言った。なにか考えがまとまらないようだった。
「では、私達はいったん引き上げます。答えを出すには少し時間も必要でしょう。二、三日したら電話を差し上げてから来ます。それでいいですか?」オレは今後の山崎の動向を見定めたかった。手詰まりの時は少し泳がせればいいのだ。
「そうしてくれるか、悪いな。ワシも色々と考えをまとめなくてはいかんのでな。いやー、いざとなればつぶしてでもオヤジさんにはきちっとするからアンタは心配しなくていいよ。ははははっ」山崎はなにか企んでいる節があるようにオレには思われた。
「オヤジさんにはワシから何か言えばいいのかな?」と心にも無いことをヤツは言った。
「いいえ、私は今度アンタに会ってから報告するつもりですから、それでいいでしょう。私は富山へ帰ります」とオレは答えておいた。
 山崎は外までオレ達を見送り深く頭を下げていた。

 タマゴと一緒にホテルのカフェへ戻り冷たいものを飲み、ようやくお互い生き返ったような顔になった。
「ねえ、南無さん。山崎社長は一体どうするつもりなんでしょうかね」とタマゴは気にしているようだった。
「いや、オレにも人の心は読めないよ。とにかくアイツは嘘つきであることは間違いないようだ」とオレはにやりとほくそ笑んだ。
 オレはオヤジに電話を入れた。若い人間を二人借りたい、それぞれの車でこのホテルへ来るように、と頼んだ。オヤジは判った、と言ったがこちらの状況についてはなにも聞くことはなかった。オレも報告はしなかった。
「あの資料の中に確か賃貸契約書のコピーも入っていたよな?」
「ええ、野々市の資材置き場と従業員用のアパートが三室分ともう一つ。四部のコピーがはいってます」
「アパートは皆一緒の場所なのか?」
「いえ、ひとつだけ市内の中心にあったかと思ってます」そこがあの小生意気な若い女の住まいだと思った。
「最後のお使い頼めるかな?今から電話する不動産屋へ行って四つのアパートの住宅地図をコピーしてきてくれないか」とオレはタマゴに頼んだ。タマゴはすぐ飛んだ。一人になったオレは自分で押し問答をやっていた。これ以上オヤジに金を突っ込ませるわけにはいかない。さりとて返済原資は見あたらない。このままだとどん詰まりだな、と。それにしても山崎の態度は気に入らなかった。どぶネズミがっ、と思わずオレの口から声が出た。
 しばらくするとタマゴが汗を拭きながら戻ってきた。にらんだ通りアパートというよりは12階建ての10階にある浅野川沿いのマンションの一室であった。囲っていやがる。オレはタマゴに礼を言って封筒に包んだ礼金を渡した。もっと手伝いたいような顔をしたがオレには十分すぎる程、彼はやってくれたと思っていた。名残惜しいがこれからは分野が違うし、出番はもう無いのだ。そうしてタマゴは帰った。
 夕方近くにオヤジが寄越す若い者から電話が入り、富山を発ったことを告げてきた。万一のためオレはタマゴの部屋はそのままにしておいた。オレは小さな箱庭に面したこのカフェのテラス部分に出てベンチに腰掛け花壇一面に咲き誇っているポーチュラカを眺めていた。今の心境とまったくかけ離れた花の存在に不思議さを覚えた。

 午後6時半頃、彼らはやって来た
「慶伊と云います。こいつはノブオです」とその大柄で胸厚の若衆はオレに挨拶をした。
「来てくれてありがとう。簡単に仕事を説明するから聞いて欲しい」と早速オレは彼らと話し始めた。要点はひとつしかなかった。女の部屋を見張ることである。山崎はオレが富山に戻ったと思いこんでいるはずだからだ。したがってシキがあるとは夢にも思わずで油断を誘うことが出来るかも知れないとオレは思った。なぜシキを張るのかの説明を慶伊にわかりやすく説明をした。そしてオレの指揮下にあることの確認をとった。慶伊にホテルの部屋の鍵を渡し必要であれば使うようにと。そして早速今からでもシキテンは始めて欲しいとマンションの地図を渡し部屋番号を教えた。慶伊は地の利も確かめたいからといってすぐ二人で出ていった。どうやら慶伊のペテンは体に似合わず相当利くようにみえた。あとは待つだけである。
 翌朝、慶伊から電話が入った。
「こんな時間なのに部屋から女が出てきません。休みなのですかね?」
「そのままシキテンしてくれ。出入りがあるかもしれん」
「わかりました」時間を見ると午前9時だった。山崎は女を休ませてなにをする気だ。しばらくしてまた慶伊から電話が入った。
「山崎と”日通”のバンが待ち合わせをしてたらしく下で落ち合って女の部屋に入りました」と。9時30分だった。予想通りであった。山崎は先に女を逃がし自分も蒸けるつもりなのだ。月末まで数日を残していた。二度も三度も通用するかっ!あほんだらっ!こうなれば遠慮なんかいらないのだ。きっちりとケジメは付けさせるしかない。あとはどう転ぶのか見てみるしかないのだ。しばらくして日通の営業だけが帰り山崎は出てこなかった。今晩やるしかないだろうとオレは心に決めた。オレは慶伊に電話を入れた。出てきた所を丁重に掠え、そしてオレの所へ連れてこい、と。
 それからオレはもう一度タマゴの作ったレポートや資料を読み始めた。何時間かけて資料に目を通してもオレの頭は相も変わらずどん詰まりのままだった。追いつめるのは簡単だが、回収には程遠い結論しか出てこなかった。しかも、息子が可愛いとオヤジは言っているのだ。スクラップは簡単だが”再建”なんてとても考えられなかった。目を瞑るとあの女を嘗め回している山崎の姿が浮かんできた。そして自分の気持ちが落ち込んでくるのだった。
 深夜12時を過ぎていた。慶伊からの電話で眠りに落ちていたオレは起こされた。
「タマは部屋におります。来て貰えますか」低い声だった。
「ご苦労さん、すぐに行くよ」オレは洗面所で歯を磨き顔を洗った。出たとこ勝負だ。どのみち極楽なんてもんは無いんだからなっ!山崎。
 廊下を挟んで斜め向かいが慶伊達の部屋であった。中にはいると山崎は部屋の床に座らせられていた。置かれた状況は理解しているようだった。たぶんオレの監視体制の網にかかったこと自体で彼の心に深いインパクトを与えているはずであった。見張られている、と悟った人間は脱力感と共に心身を自ら最低のところへ転がり落とすものなのだ。唇の端が少し切れていて血がにじみ出ていて抵抗を物語っていた。暴力的に制圧されてしまった山崎は恐怖と混乱で頭が空白に陥っていた。オレは山崎に応接セットの椅子に座るように言った。どうやら痛みがまだ残っていて一人で立てないようだった。慶伊とノブオに抱えられて山崎は顔を歪ませながらオレの前に座らせられた。
「さて、山崎さん。何か言うことがあるならば聞こうか」とオレは問うてみた。返事は出来ないに決まっている。頭を深く垂れながら声は無かった。オレは一人で喋り始めた。
「このようなことはオレの望むことではないことを最初にお前に言っておく。ましてオヤジも知らないことだ。だが、お前はどうやらオヤジの好意を裏切ろうとしているようにオレには思えたのだ。わかるか?」山崎の体は震えだした。
「お前には言ってなかったが、オヤジはお前の息子達が可愛い、とひと言だけオレに言った。オレが指示されたことはその言葉だけだよ。それなのにお前は苦労を共にした女房を捨て、仕事を一生懸命手伝っている息子達を捨て、腐れマンコと逃げる算段をしていた。オレは残念に思うよ。これについて、弁解があるのなら聞いてやっても良い。なにか言えっ!」山崎は益々深く頭を下げ始めた。少しづつ平静さを取り戻してきたようで震えは止まりだしていた。
「スマン」と蚊のような声で言ったが、オレは聞こえないふりをしていた。どのみち山崎は逃げおおせる所なんて存在する訳がないのだ。行く所は地獄のみなのだ。
「オレは明日、本当に富山へ帰るつもりだ。オヤジへの辛い報告をしなければならないだろう。明後日にはお前の答えを聞くためにここへ再び来る。だからお前も心して真剣に考えよ。これはオヤジの情けだと思え」部屋は静まりかえっていて、山崎の泣き声だけが聞こえた。完全に落としたのである。

 オレは慶伊達を引き連れ早朝富山に戻った。オヤジのところへは行く必要がなかった。答えがまだ出ていないからだ。山崎が追いつめられたと同様に俺も追いつめられている状況はそのままだった。策は全て封じられているのだ。みっともないが、じたばたと喘ぐしかないのだ。そしてあのボンクラ野郎以下がオレなのだ、そう思うと悔しさにオレの頭がぐちゃぐちゃになっていった。月末まであと4日となった。翌日オレは山崎に電話を入れ、金沢に向かった。勝算もなにもあったものではないのだ。ただただ時間が流れていく苛立ちを覚えながら、オレは呟いた。いくところまでいくしかない、その先になにが見えるのだろう、と。山崎の心境がどのように変化していくのかも気にはなっていた。観念はしたが気持ちと現実との乖離は千里も隔たった。アイツは慶伊達に見張られているとまだ思っているだろう。
 ようやく気温も落ち着き秋の顔を見せ始めた金沢は俺の気持ちと裏腹に美しかった。犀川の中州には他の草花を押しのけるようにたくさんのすすきが見えていた。片町から少し奥に入ったところにその小さな喫茶店があった。時刻にはまだ少し早かったが竹内はもう座ってオレを待っていた。金沢最大の組織の幹部だった。
「竹内さん、どうも」とオレは朝の挨拶をしコーヒーを頼んだ。竹内はオレがどのようなことを頼むのかはある程度わかっているはずだった。裏経済の泡のなかで泳いでいる人間同士、ニオイは同じなのだ。
「先日お話しした山崎建設ですが、オレがどう考えてもつぶしにはいるしかありません。もっとも放置していてもつぶれるのは時間の問題であることはおわかりだと思います」この件に関しての予備情報の大半をオレはこの男から聞いていた。いきさつからいえば、仕掛けの一部をこの男に託するしかないように思った。
「わしの役割を聞かせろ」と竹内は興味を示した。オレはゆっくりと内ポケットから白の角封筒を出した。
「ここに、50万入ってます。僅かではありますが情報料だと思って下さい」オレは竹内の反応を窺った。たとえ50万でも、あとがある”仕事”はおいしいはずだと思うのはわかっていた。はずれでも50万は入る。
「山崎の融手先のひとつに二次製品をつくっている裏日本コンクリート製造と云う会社がありますね?現在は600万と700万の二枚計1300万の額面の取引になっていることは竹内さんの知っている通りです。山崎建設は年商3億です、それに較べ裏日本コンクリート製造は年商23億です。いかにも釣り合いがとれません。調べた所、裏日本コンクリート製造の社長の自宅には最近の日付で個人名の根抵当権がケツに打たれていました。それも竹内さんのグループの一員です。ということはあなた達の仕掛けは着々と進んでいると見るのが妥当ですよね?もし倒す時期をもう少し先にして頂ければ、山崎の手形を更に振り出してもいいのです」手形師、事件師を束ねている竹内にとって”手形用紙”は金を生み出す道具なのだ。どうせしわ寄せは金沢の街金業者が喰らうだけで竹内にとっては屁でもないことなのだ。嘘と芝居で丸め込むのは彼の下にいる手形師、詐欺師連中に任せておけばいい。
「トリはなんぼだ?」
「四分六分で、うちヨンです。金額は3千万が希望です。そして残念ながらこの月末に飛ばすことになるかと思います。時間がありません」オレは無理な数字だろうと思いながらも竹内の返事を待った。竹内はどうやら頭で彼なりの絵図を組み立てているらしく、黙っていた。条件が出るだろうとも思った。
「時間がないから3千は無理だ。2千でなら受けてもいい。それからオマケもくれないか?」こちらは元々、分が悪いのだ。トリ以外すべてイエスだよ。
「ありがたいことです。若い方の期日の手形は分の悪い分、割引無しで私に下さい。抱えるつもりですから。ところで、オマケは何ですの?」
「山崎建設の事務所をその後、占有したい。南無さんにとっては使い道なんか無いだろう。いいか?」
「ええ、よろしいです。自由に使って下さいな。一時的だとは思いますが、後始末が2、3日かかると思うので、その間は私も同居って事でお願いします」倒産すれば債権者や、キリトリ屋が騒ぎ出すに違いないのだ。竹内らがなだれ込んでこれば防波堤にもなるというもんだ。話しはあっけなく終わり、一時間後に山崎の会社で竹内と落ち合うことにして山崎建設へ向かった。

 山崎は覚悟を決めたようで落ち着いていた。女は居なく他の従業員達も現場に出かけたらしく、事務所にはオレと二人っきりになった。
「南無さん、まずは謝ります。ご迷惑をおかけしました」と山崎は深々とオレにお辞儀をした。
「恥ずかしながら、私の生き方は間違っていました。しかしここに至ってはもう後戻りは出来ません。私もあれから知人親戚とまわり金策に明け暮れていました。なんとか、オヤジさんにだけは、と思っている事だけは信じて下さい」
「信じよう」とオレは言った。本心だった。
「ここに女に預けていた金が300万あります。そして昨夜取引関係三カ所に頭を下げて借りてきた手形が3枚で1500万あります。あとは女房に泣きつき、親戚関係から明日中に800万借りれる予定です。それでも届かない分はあさって30日に普通預金に振り込まれる月末分の売掛金でなんとかなると思います。ですから、30日午前中にもう一度ご足労願えますか?」予想外の進展だった。土壇場で状況が一転してきたのだ。観念すると云うことはこういう事なのかともオレは思った。
「つまりは、月末に飛ばすつもりなのだな?」
「その通りです。もともとそう考えていましたから。これ以上やっていても傷口が深まるだけですし、観念しました。息子達だけはなんとかなるようにオヤジさんに頼んで貰えますか?」
「承知した。お前も含めて家族は守ってやる。そして月末の従業員の給料だけは払ってやれ。残りは貰う」売り掛け入金の月末分は1800万、人件費は毎月 1200万位あった。来月入金予定の売掛債権の譲渡書を組み、弁護士を使って元請けに内容証明を発送すればなんとか帳尻が合うはずだからだ。
「女はどうした?」わかっていることだったがオレは一応聞いた。
「名古屋に帰らせました。申し訳ありません」と山崎はまた頭を下げた。オレは山崎に今後やるべき事を説明し、ヤツは一切をオレに任せると言って金庫から銀行印、実印、印鑑証明書数枚等を目の前に置いた。そのあと竹内が来てからは山崎はオレのなすがままに動いてくれた。融手の発行、竹内に対する賃借権の原因証書の作成等々、印鑑が数え切れないほど押された。竹内は帰り際、明日昼までに裏日本コンクリート製造の”紙”を送り届けると言った。解体は完了に向かっていた。
そして、オレはオヤジに報告するために戻った。

 翌日オレは午前中に公証人役場へ赴き、売掛債権譲渡書に確定日付を入れて貰った。お昼頃、竹内の使いがやってきて裏日本コンクリート製造の10月5日期日手形800万を届けに来た。あとは明日9月30日を待てばいいのだ。そしてオヤジに連絡を入れ午後一番に行くことを告げた。
 オヤジはどこかに出かけているらしくしばらく待たされた。オレはなんとか突破口だけは見出していると思っていた。山崎達を預かることについて、オヤジも不満はないはずだ。全ての決済が終わるまでの人質の意味もある。黒部あたりに貸家でも探してほとぼりが冷めるまでそこに放り込んでおけばいいのだ。あとは裏日本コンクリート製造の手形の決済を待って、その金で息子達の復活を徐々に準備をすればいい。やがてオヤジが帰ってきてオレは仏間に通された。蝉の声はもう無かった。
「ご苦労さんだったな。山崎は観念したのか?」とオレに問うた。
「今のところ反抗的なものは見られません」とオレは今までのいきさつと暴力的制圧後の流れをオヤジに説明しだした。オヤジは黙ってオレの話を最後まで聞いていた。心なしかオヤジの顔が曇っているように思えたがオレは気にしなかった。オレへの不満があるはずがないからだ。
「家族の家は儂が用意しよう。黒部の海岸沿いに庭付きの家がある。債権のカタに取った家だがまだ新しいから7,8人は住むことが出来る。それで充分だろう。それと、この手形4枚2300万は儂への内入れとする。300万の現金はおめぇが持っていろ。何かと今後、金が出て行くかも知れないからな。もし明日500万以上入ったら、息子の為の新会社の費用にせよ」と言った。話しはこれで終わりである。あとは明日になにが起こるかでしかないのだ。
 念のためオレはその足で懇意にしている弁護士にアポを入れた。三時に会うことが出来た。委任状、譲渡書、請求書の控え等は全て揃っていた。明日倒産の予定と告げると、早速書類作成を事務方に指示して通知を今すぐに出すと言った。ただし、請求相手方の承諾書が無いので揉めるかも知れない、とも云った。今更、なにをいっても弁護士に任せるしかないのだ。とりあえず着手金として100万を払い金銭のやりとりは全て先生に一任する旨を伝えた。売掛債権は五社で累計 2600万もあるのだ。今も進行中の現場での出来高を入れればさらに増えることもあり得る。弁護士としてはオイシイ分野になるはずだった。
「ついでの話しになりますが、この件絡みで個人の破産申請を先生にお願いに参ると思いますが宜しいですか?」と山崎個人の破産の手続きを後日扱って貰うことも伝えた。
「会社についてはどうするのかね?」当然の問いであったが、これはいかにもまずかった。オレ達の存在が管財人にばれると山崎個人のみならずオレも訴えられる可能性があるからだった。
「必要であれば後日と云うことでお願いします」と言い残してオレは弁護士事務所を出た。
 夕刻になってからオレはオヤジが提供してくれる黒部の住居の下見に行くことにした。県道から少し海側に入った新興住宅地の中にそれはあった。想像よりもモダンな作りで大きく新しかった。オヤジから預かった鍵で中に入ってみた。立派な作りで充分な広さであった。ここで再出発をすればいいのだ。山崎自身は引退させるしかないな、とオレは先のことに考えを巡らせていた。しかしオヤジはなぜあんな顔をしたんだろうか、という思いがオレに湧き出てきた。不満があればオレに言えばいいのだが、それも無かった。

 30日となった。さすがにオレは緊張していたのか朝の四時半頃目覚めた。コーヒをつくる前にバスにお湯を張った。まずは風呂だ、そして朝飯は無理矢理でも多く摂ろう。とてつもない長い時間になることが予想されるからだ。浴槽は心地よくオレの目覚めを進めてくれた。時計を見るとまだ5時半をまわったところでしかなかった。オレはゆっくりと朝食の準備をしながら、きっとうまくいく、と心の中で念じていた。7時に金沢に電話をしたが、山崎の携帯電話は繋がらなかった。家に電話すると妻が出て、聞いていますから10時過ぎに家に来て下さい、とオレに言った。何ら不信感をいだく様子も感じられなかった。
 貧乏性のオレは午前九時過ぎに金沢に着いた。ひとまず山崎建設の事務所を覗いてみた。建設資材を積んだ大型トラックのまわりに数人の従業員が忙しく働いていて普段と何ら変わる様子はなかった。事務所の中には山崎の妻の親戚だという若い女が急遽手伝わされているらしく忙しく伝票整理を行っていた。やはり山崎はここには居なかった。少し早いが山崎の家へ向かい、妻に迎え入れられた。お茶を出しながら妻はオレに山崎が早朝六時頃から出かけていて、今は野々市にある資材置き場で資材の整理をしているはずだと言い、九時前には朝飯を食いに戻ると言っていたのに遅い、とも。山崎の妻はオレにお茶を出したあと、奥に消え800万を持ってオレの前に座りなおした。
「えらい迷惑をおかけしたようで、申し訳ないです。このお金を渡していくようにといわれているので、お確かめ下さい。あとはあの人が帰ってきてからだと言ってました」と頭を下げた。
「わかりました。ところで、奥さんは事情を聞いてますか?」とオレは問い返してみた。
「三日前にあの人から聞かされました。少し怖いですが、私も覚悟は出来てます。息子達も知っているようですが、普段通り現場に出ています。あとは南無さんの力を借りるしかありません。よろしくお願いします」
十時になっても山崎は現れなかった。妻もおかしいと思ったらしく資材置き場まで見に行ってきますと言って出ていった。さすがのオレも不安に囚われだした。一体何処に消えたんだ、と。
 しばらくすると妻は帰ってきた。
「車もあるのに見あたりません。資材の屑を片づけながら燃やしていたみたいなんですが、姿が見えないのです」と彼女も不安そうな顔を見せた。
「仮設プレハブにも居ないのか?」資材置き場にある管理事務所のことを言った。
「居ません、あの人のタバコも放ったままなんです。まだ火も少し燃え残っていましたから、そのままにするというのはありえないんですけど・・・・」確かに変だった。オレは山崎の妻の顔をじっと見つめた。彼女の顔が一瞬凍りついたようになった。
「どうかしたのか?」オレの声もうわずっていた。お互い同じ不安に取り憑かれていたのだ。
「もう一度オレとそこへ行ってみよう」と彼女をせかしてオレの車に乗り込み資材置き場に向かった。お互い黙りこくっていた。
 火は小さくなっていて白い煙が上がっていた。彼女の肩を掴みながら、その前に立った。肩は心なしか震えているようだった。鉄板を敷いて木屑を燃やすということはあり得ないのだ。側には灯油のポリ缶が二つ転がっていた。そして”それ”はそこにあった。黄色く透き通ってしまっている表面の肉皮を透してとぐろを巻いたように見える内蔵が見え、ぐつぐつと泡を上げていた。手足は燃え尽きたらしく炭化してしまって数片の炭のようにしか見えなかった。頭も形をとどめず崩れ落ちてしまっていて脳みその焦げカスが黒く散らばっていた。間違いなくこれは人間なのだ。そして彼女はそれを見ようとしなかった。
「これは木屑ではない!人間だ。これは山崎なのか?よく見ろっ!」とオレの喉はからからになり声は引きつり足に震えが襲ってきた。彼女は肩を振り切るようにしてその場に崩れながら、あの人じゃない、とひと言呟いた。
「馬鹿野郎!おめぇ以外誰がアイツの確認をするんだよっ!立ちやがれっ!」とオレは彼女に怒鳴りながら脇を抱えて立ち上がらせようとしたがオレの力も抜けてしまったようであらがう彼女を押さえることが出来なかった。そして彼女は体を振って地面に伏せてしまった。
「ちがう!あの人じゃない!ううううっ」
 オレは冷静に装いながら山崎建設に電話を入れ、女事務員に山崎の長男に大至急資材置き場に来るように伝えた。月末なので銀行が来ていて社長を待っていると事務員はオレに言った。オレはなんとか山崎の妻を抱えて管理事務所の椅子に座らせた。ガタガタ、ガタガタと小さいからだが震えていた。
「長男が来るまでしっかりしていろっ!今お茶を入れるから少し落ち着け」と彼女の肩を揺さぶった。首がぐらぐらしていて放心状態のまま呟いているばかりだった。お茶を入れるオレの手も震えていて頭の中が真っ白になっていくのがわかった。オレはお茶をゴクリと飲み干した。管理事務所の窓からはまだ白い煙が上がっているのが見えた。山崎の妻は相変わらずだった。オレは落ち着きを取り戻そうと自分の頬を数回力任せに叩いてみた。痛みが感じられる。大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。不思議なことだが口から言葉が出た。
「とにかくオレに任せろ。わかったな」と彼女に言って山崎の亡骸に向かって歩き出した。以前の体の半分ぐらいにしか見えない胴はまだ音を立てていて時々パチンと破裂音を上げながら体液を散らせていた。手を合わせ、もう充分だよ、と情けない声でひと言呟いた。オレは資材置き場の入り口の方まで歩き、長男を待つことにした。晴天の青空が奇妙に感じられた。稲刈りの終わった田圃の向こうに白山が見えていて、もう頂上に雪があるのか白く見えた。
 オヤジに電話を入れた。
「山崎が死にました」
「ほんとうなのか!」オヤジは驚いたようだった。
「焼死ですので判別は警察の方ですると思いますが、ほぼ本人に間違いはないと思います。ヤツは灯油をかぶって木屑と共に燃えてしまいました」しばらく向こうは黙っていた。
「おめぇは大丈夫なのか?もう、帰って来い。これ以上いやな思いをさせたくない、終わりだ。だから今すぐ帰るんだ」
「いや、まだ終わっていません。ヤツの家族を放るわけにはいきません。このままだと家族も皆、踏みつぶされてしまいます。まして、オレに対するケジメもつかない状態です。オレは人殺しではないのです・・・」あとは涙で喋ることが出来なかった。受話器の向こうでオヤジが言った。
「儂が悪いのだ南無。許せ。だからもういいのだ。頼むから帰ってきてくれ」オヤジの声は悲痛に響いていた。
「二、三日だけでもこっちにいます。オレは大丈夫です。このままだと気が済まないのです。わかって下さいよ。このまま何もしなかったらオレはただの獣じゃないですかっ!そうでしょっ!」叫ぶように言ってオレは電話を勝手に切った。泣いてなんか居る暇はもう無いのだ。何度も電話が鳴ったがオレは出なかった。やがて、息子が緊張の面持ちでやってきた。三十過ぎの逞しい躯を持っていた。オレは彼の肩を抱きながら歩いた。
「おふくろさんはその管理事務所の中で休んでいる。・・・。・・・それで社長が死んだ」と告げた。息子の躯はぴくんとして止まった。そして日に焼けた顔でオレをじっと見つめた。
「気を落とすんじゃないぞ。ほら、それだ」とまだくすぶっている山崎の亡骸を指さした。そして息子はオレの手を振り切ってその前に駆け寄り、わああああっ!うおおおおおっ!と叫んで火の中に手を突っ込んだ。オレはすぐさま彼の躯を抱えて熱い体液にまみれた彼の腕を引いた。肉の焼けた臭いと共に吐きそうな糞の臭いがした。怒りと悲しみに突き上げてくるどうしようもない衝動で息子はオレに襲いかかり首を締めながら躯を押し倒した。そして馬乗りになってオレの顔と云わず胸と云わず、ところ構わず殴りまくった。人殺しめっ!お前を殺してやる!ぐわぁあああっ!と。歯も折れ、口の中は血だらけになったが、なすがままでいるしかなかった。殺されてもしようがないのだ。取り返しがつかないなんて言葉は許されなかった。オレは屑以下なのだ、と。息子は涙と涎をオレの顔に垂れ流しながらオレの顔をじっとみた。そしてオレの躯から降り、横にぺたんと座り込んでしまった。あとは声が無く泣き続けた。しばらくしてオレは意を決して息子を抱えて立たせ、言った。
「悪いが、お前は長男だ。残酷だがこれから大変なことが起きてくるだろう。全部お前はそれを見続けなければならない。お前は今オレを恨んでいるかも知れない。でもそれは後回しにしろ。わかるか。オレはお前達のことをお前の父親から頼まれている。つまり、オレは遺言を実行しなければならない立場だと言うことだ。だから今から全てオレの言うことを守るのだ。わかったか?わかったのなら頷くのだ」息子の顔は土色に変色していてガチガチと唇が震えていた。あうあああっ!と泣き叫びながらオレに抱きついてきた。オレは息子を抱きながら、もっと酷いことになってくるんだぞ、と耳の側で呟いた。最後までオレから離れるんじゃないぞ、とも言った。何度も何度も息子はオレの肩に顔をつけながら頷いた。そして管理事務所にいるおふくろを見てやれ、と言ってそちらに向かわせた。
 このようにして計画は全て崩れていった。一寸先は闇になるだろう。自分の描いた絵に自分が溺れてしまったことは認めなければいけなかった。オレ自身の為にも何が起きようが引き下がるわけにはいかないのだ。絶対落ちるわけにはいかん、のだと。
 オレは気を取り直し弁護士に電話をかけ山崎が自殺したことを告げた。予定は予定通りに進めて欲しいとも言った。弁護士は面倒が色々予想されるがやってみると返事をくれた。次にタマゴの事務所に電話を入れ税理士にもう一度タマゴを寄越してくれるように頼んだ。まだ調べて貰うことが出来たので来て欲しいと。自殺のことは伏せておいた。タマゴに電話が替わられてオレは言った、まだ帳簿のことでわからないことがあるから来てくれないか、と。
 そしてオヤジに電話をした。
「先程はすみませんでした。もう落ち着きました」
「では、帰ってくるのだな?」
「いや、帰れません。始末をしなければならないことが沢山あるのです。お願いがあります」
「なんだ?」
「人間を一人だけ寄越して貰えませんか?出来れば慶伊を借りたいのです」
「わかったすぐ向かわせる。無理だけはするんじゃねぇぞ」オヤジはホッとしたようだった。管理事務所の中にはいると二人とも泣いていた。
「今から警察に電話してここに来て貰え」と息子に言った。
 やがて警察がやってきてオレは友人の立場で簡単な質問を受けた。先程息子に殴られた唇の腫れを見て、それはどうした、と聞かれたが材料の鋼管にぶつけた、と答えた。オレの住所氏名を記録して、後日と言うことになり、鑑識を含めた検証が始まった。立ち会いは息子が行った。
 慶伊やタマゴから電話が立て続けに入りオレとの落ち合う先を聞いてきた。先日のホテルのカフェで打ち合わせを行うことにした。オレは息子に終わったら電話して欲しいと告げその場を去った。既に午後1時をまわっていた。

 二人ともロビーで待っていた。面識がお互い無かったので、慶伊とタマゴとを紹介し、カフェに入った。そして二人に山崎が自殺したと言うことをはじめて二人に告げた。それぞれに思いが巡ったのか黙ってオレの説明を聞いていた。慶伊の顔は先日の事を考えたのか暗い顔をしていた。
「慶伊、余計な事を考えるな。オレの頭はもう切り替わっているんだ。お前もそうしろ」と言った。慶伊は黙ってオレに頷いた。
「さて、慶伊は別にしてもタマゴはたぶん初めての体験になると思う。税理士の世界を飛び越えるかも知れない。それぞれの役割はオレが頭で考えてある。だから、お互いに力を合わせてオレを支えて欲しいのだ。お前達にはその力があると踏んでいる。オレにとって、これは一種の戦いなのだ。負け戦になるかも知れないがオレはそれはそれで納得するつもりだ。力を貸して欲しい、頼む!」俺は二人に頭を下げた。今となってはこの二人を頼り、混乱の中で状況を切り開くしかオレには思いつかなかったからである。戦いだといいながらも一体、敵とはなになのかもわかっていない発想でしかなかった。まだ冷静さを取り戻していないオレとしては客観的な意見もまわりに必要だった。そしてまもなく大きな嵐が押し寄せてくる事は間違いなかった。オレはこの二人を見つめながら、不退転の決意を新たにしたのだった。そうしないとオレもまた押しつぶされてしまうからだった。だが現実はそう甘くもなかった。
 しばらくしてタマゴは言った。
「南無さん、ぼくは色々なことを想定してみたのですが、マズイことと、そうでないこととが今後起きてくるように思われるのです」
「マズイほうから言ってくれ」
「先日の調査のときにわかっていたのですが、山崎建設には滞納税金が大量に発生しています。予定納税も含めると、およそ2500万にものぼります。その他社会保険庁に対する保険料滞納分と会わせれば3千万は越すかも知れません。当初の段階では社長が死亡すると言うことは予定に含まれていませんでしたので、ぼくの頭では捨てられていました。しかし、こうなると、お上は冷酷かつ迅速に動きます」
「と、いうと?」
「早ければ明日にでも元請けで発生している売掛金は全て国税か社会保険庁が差し押さえるでしょう」
「うーん、そうなのか」今更ながらそんなことを考えもしないオレの間抜けさ加減に腕を組まざるを得なかった。こうなると来月請求以降の売掛債権はとれないと云うことになる。
「まだあります。銀行預金の全てが銀行側が自殺を知った時点で凍結します。そしてその後不渡りが起き始めると思います」
「きょう普通預金に振り込んでくる売掛金が下ろせないと言うことか?」
「そうです。死んだものには引き出し請求のハンコが押せないと理由は付けるでしょうが、担保債権以外の貸付金の相殺を行うはずです。あの資金繰り状態であれば1円たりとも残りません」従業員の給料も払えなくなり、どんするに貧するになってしまったわけである。全てが崩れていき混乱の中で佇む満身創痍のオレの姿が見えて来るような気がした。弁護士を使っても敗退するのか、と。
「どうすればいいのだ。従業員にも給料は払えず、残された家族も一文無しになってしまう」とオレはタマゴに悲痛な思いで訴えかけた。悪いときには悪い事が”嵐”のように次々と起きてくるのが現実としても、こうなると、もう最低であると云わなければならなかった。くそっ!これでは家族も救えぬ、と腹の中で毒づいた。
 タマゴを見るとなにか言葉を出すのをためらっているように見えた。まだ、何かあるのだ。
「もうこうなったら、なんでもいいや!どんな事でも聞く覚悟は出来たよ。こりゃ、もう、落ちるところまで落ちるしかないな。さっさと言ってくれっ!」タマゴは唾を飲み込むような顔を見せ、そして辺りをはばかるように身を乗り出して、ゆっくりと低い声で話し始めた。
「でもまだ可能性はあります。南無さん落ち着いて聞いて下さい。いいですか。ぼくはあの調査のときに毎月月末に口座から経営者保険が引き落とされていることに気づいていました。したがって、本日分も午前に自動引き落としされているはずです。保険証券の存在も私は書架にあるのを確認しています。五年前からの契約ですから自殺でも有効なはずです。しかし、債権者にばれるとそれも押さえにはいるでしょう。法的な問題もあるので一刻も早く弁護士と相談するべきとぼくは進言します」そしてタマゴは力が抜けたように大きく溜息をついた。
「よくわかった。やっぱりお前は最高だよ。ところで保険金の額はいくらだ?」
「1億円です」
 オレは早速この事を含め弁護士に電話をし、オレの”気持ち”も伝えた。どうすればいいのか、この際指示を仰ぐしかないのだ。
「南無さん、売掛債権についてはいかに国税であろうが全額は取れないのだよ。南無さんが従業員の給料を念頭に置いているのなら話は簡単だよ。私は元請けと話しをして請求を社員の”全てに優先する労働賃金”にスリ替える。したがって従業員のそれぞれの普通預金に賃金として振り込ませるつもりだ。それ以外の金を国が持って行くことになる。だからね従業員の住所、氏名、預金口座番号、元請けに届け出の労働者名簿、そして各従業員の作業日報も含めて大至急ファックスで放り込んでくれないか。だから、この金は南無さんはあきらめてくれ。それとだな、売掛債権請求の代理人となっている私は弁護士法に触れることになるのでな、スリ替えの件は友人の弁護士に頼んでみるよ。報酬はいつでも返すよ。ただし、保険金の受け取り代理人に指定してくれるのならこのまま預かるよ。このような状況になってこれば、たぶん素人だとすんなりとは保険金には辿り着けないと思うからね」
「任せるしかありません。それでですね先生、あとオレはなにをすればいいのですか?」
「一刻も早く印鑑を作り、金沢の代書屋へ行き、法人の代表者の変更を法務局で行うのだよ。くれぐれもアンタだけで行ってはいけない。詐害行為と見なされアンタが危うくなる。代表者に据える息子と動くんだ。変更登記が完了次第、印鑑証明、資格証明、つまり出来上がった法人謄本それと大事な保険証券を持って息子と富山へ来てくれれば、おっぱじめるよ。国税や気づいた債権者達と争いになるかも知れないが、全力であたらせてもらうつもりだ」
「わかりました。早速そのように動きます。先生、頼りにしてますよ」
「ははは、あんたに似合わないことを言うね。我々としてはだな、”良いこと”もやらなきゃいかんということだよ、なあ南無さん。私は力を込めて応援するよ」そう言って弁護士の電話は切れた。嵐の前の静けさとはこういう事も含めて言うのだな、と一人呟いた。
 オレは手短に今後の行動を話し合った。慶伊にはキリトリ屋の類から山崎の自宅で家族を守る事、そして、万が一の為、タマゴの身辺も警戒することも付け加えた。タマゴには息子に倒産に至る事情を簡単に説明してくれ、と言った。我々に対する誤解を解いていく必要があったからだ。全て今後は息子の動き如何であることは明白なのだ。自分よりタマゴの方がうってつけだと思えた。
「ちょっと質問していいですか?先程から気になっていたんですが、その顔、一体誰に殴られたんですか?」と慶伊は怒ったような顔で話に割り込んだ。
「あっ、これね。そんなにひどくなってきてるか?」時間の経過と共に顔の左半分が熱くなってきているのには気づいていた。舌を口の中にグルリと回すと中が二、三カ所が切れているようだった。
「息子に殴られたんだよ。まっ、恨まれても仕方がないだろう」慶伊にとっては予想外の答えだったらしく、はっとした表情を見せたが、しばらくすると彼なりに納得したようだった。だから、息子の説得はタマゴに頼みたいのだよ、とオレは心の中で呟いた。タマゴには慶伊を連れて山崎建設に行き弁護士が必要といった書類関係を全てファックスをしてその他、帳簿類、その裏付け書類、印鑑、手形小切手類等、金庫の中のもの一切を段ボールに詰め込みホテルの部屋で保管するように言った。とにかく債権者達に見つかるとマズイものは全て我々の手に置いていくのは常道であるからだ。それがおわったら、山崎の自宅へ慶伊は常駐、タマゴは息子と連絡を取り二人っきりで一通りの説明を行い、オレと落ち合えるように段取りを組んで欲しい、と言った。二人は早速飛び出していった。
 しばらくすると息子から電話が入り現場検証が終わったことを告げた。遺体は金沢大学病院に運ばれ解剖後引き渡すと言うことであった。義母を連れていったん自宅に帰るとも言っていた。3時をまわっていた。不渡りが始まりだすのだ。
 オレは竹内に電話を入れた。
「山崎が先程自殺した」
「そうか。・・・・・。で、どうするのだ?」
「占有を早めることが出来ますか?」
「いつでもOKだよ」
「では四時頃から始めて下さい。オレは先に入ります」ホテルに慶伊達の為に2室予約をしてから事務所に向かった。
 タマゴ達の作業は終了したようであった。事務員はもう既に話しを知っているらしく涙目になっていた。オレは事務員にいったん山崎の自宅に引き上げるように言って先に立ち去らせた。タマゴには自宅に息子が帰っているはずだからオレの指示で動いていると告げろ、と言った。
「代書屋に連れて行き息子の名で代表者変更登記の書類作成を依頼してくれ。代書屋には電話を入れておく。そしてその足で印鑑屋に寄り至急でゴム印も作成するんだ。全て指示して息子にやらせるんだぞ。でも忘れるなよ。オレ達は陰(カゲ)でしかないんだからな。慶伊はそのまま自宅に残ってくれないか。たぶん今晩から明日あたりがキツイと思う。キリトリ屋は力で押し返せ。どうせ二、三日で全員を黒部に待避させるつもりなんだ。頼むぞ。家族には指一本触れさせるんじゃない」二人とも落ち着いて聞いていた。タマゴに登記費用として30万渡し終了後段ボールはホテルに運び込むように指示した。そして二人は自宅へむかった。オレは息子に電話を入れあらためて気を取り直すように言った。そしてタマゴ達がそちらに行ったことも伝えた。表情は見えないがしっかりと受け答えをした。

 従業員はまだ現場から帰ってくる時刻ではない。オレはしばらく一人で事務所のソファに座っていた。電話は鳴りっぱなしにしておいた。3時半をまわってから二人、三人と取引業者らしい人間が集まりだした。誰も事務所にいないので、その内の一人がやってきて「あなたは?」と聞いた。「債権者だよ」とぽつりとだけ答えた。4時近くになると騒々しいくらいに人が集まりだした。銀行員らしき者も居た。どうやら自殺のことが伝わっているようだった。相変わらず電話が騒々しく鳴っていたが誰も出なかった。時折疑わしい視線を投げかけてくる者が居たが腫れ上がったオレの顔に見返されると一様に目を外した。自宅にも押しかけた者も居たらしく慶伊に追い返され愚痴を言っている者も居た。彼らは何か出来るわけもなくただ居るしかないのだ。
 4時半頃、脇に木板を抱えた40前後の男が数人を従え事務所の入り口でオレの名前を呼んだ。オレはここだ、と手を挙げた。上下のスーツをきっちり身につけた男であった。
「お初です。私は竹内の若い者で田口と云います。ゆえあって”名札”はありません。お見知りおき下さい」と頭を下げ名刺を差し出した。有限会社 北国葬儀友愛互助会 代表取締役 田口健次と、あった。名札が降ろされていると云う事は堅気の身分になっていると云う事を意味するのだ。そして、プロの占有屋であると言う事でもあった。オレと一通りの情報交換をすると、彼は坊主頭で首から長くて太い数珠をぶら下げている大男を側に従え、集まっている一般債権者に向かって大声で言った。
「えぇー、お集まりの皆さん!ご苦労様です。わたくしは北国葬儀友愛互助会の田口と申します。先日より山崎さんと取り交わした契約によりこの事務所を借りる事になっていました。詳しい事はこの通り公正証書を取り交わしております。またこの土地建物には私共の賃借権の登記も行われております。山崎さんは残念な事に今日お亡くなりになられたそうで私も驚いております。いずれ葬儀の御依頼もあるようなので準備をしなければいけません。御不満も御座いましょうが、皆さんの存在がはっきり言って、”目障り”ですので今から出て頂きます。宜しいでしょうかっ!」と公正証書と賃借権の登記済証を手で振りかざしながら宣言した。そしてみんなは渋々出て行き始めた。表の駐車場にたむろしていた名残惜しそうな債権者も他の若い衆に怒鳴られ追い立てられ静けさが戻った。次に山崎建設の看板が外され代わりの看板が掲げられた。先程田口が脇に抱えてきた木板が彼らの看板だったのだ。しばらくするとトラックが来て若い衆が一斉に手伝い、真新しい棺桶が五個運び入れられ、ひとつは事務所のカウンターにドンと置かれた。窓には彼らのもっともらしいポスターが窓にペタペタと貼られ始めた。
「南無さん、これで完了です。あとは二人だけ宿泊させます。明日あたりから色々と揉め出すかと思いますが。力で押し切ってしまいます。所有者以外の異議申し立てなんか屁のカッパですわ。ですから安心して下さい」オレはあっけにとられてしまっていた。色々な世界があるものだ、と。占有者によって将来の不動産競売を視野に入れているのだと気づくにはそう時間がかからなかった。二束三文で競落して普通の相場で転売するのだろう、と。これで一般債権者のほとんどの意志は挫かれるだろう、とオレは思った。竹内の笑みが浮かんだ。

 このような状況で倒産を迎えたのだが、出会う出来事自体が想像を超えていった。戸惑いがなかったと云えば嘘になるだろう。もはやハッタリで立っているしかなかったのだ。このまま延々と続いたら、オレの判断ミスを誘い、それこそ遺族に対して申し開きが出来なくなる事を怖れていた。オレは遅い時間ではあったが山崎の息子達と話しをする事にした。しょせん、日は流れていくのだ。
 慶伊は頑張っていたようだった。タマゴも同席して山崎の妻、長男夫婦、次男と話し合いを行った。長男はオレの腫れている顔を見て謝った。これはこれで便利なんだよ、と言って気にするな、と。山崎の遺体は明日の午後には自宅に帰ってくるという連絡が警察から入っていた。オレは会社の現況を簡単に話をした。明日午前中に全員揃って従業員の私物を取りに行かせる事、帰りには自宅で取り敢えずの給料の一部を支払う事、引っ越しを考えている事、将来長男を筆頭にして再生をさせるつもりがあると言う事、につきた。そして今朝方、山崎の妻から預かった800万を戻した。
「これで従業員の給料にするんだ。あとの給料については弁護士に既に話は付いている。内容については明日タマゴから従業員に説明させるから心配しなくても良い、そしてお父さんの葬儀の事だが、このような事態となっては金沢に於いて行う事は反対したい。お父さんの故郷で執り行う事がトラブルを最小限に出来ると思う。段取りについては義母さんとアンタが朝日町にいる親戚と話し合って早急に決めて欲しい」全員黙ってオレの言う事に頷きながら聞いていた。
「引っ越しについてですが、何処へ行けばいいのですか?」と長男はオレに聞いた。
「黒部に瀟洒な家が用意してある。そこへお前達夫婦と娘、義母さんと行って欲しい。朝日町や糸魚川にも近いので親戚関係とも相談しやすいだろう。次男の方は今のところ金沢のアパートにいても問題はないと思う。いやであれば兄と一緒に黒部へ行ってもいい。運送屋はオレが富山で手配するから心配するな」次男は金沢にいる事にすると言った。
「その他の事についての打ち合わせは早朝7時までにアンタがオレのホテルに来て欲しい。その時に指示する」とオレは敢えてみんなの前で保険金の事は言わなかった。何処に情報が漏れるかわからないからだ。
 慶伊を残してオレとタマゴがホテルに戻ったのは深夜12時過ぎであった。お互い緊張で疲れていたが、そのまま打ち合わせに入った。明日9時に代書屋へ息子と行って出来上がっている登記書類にハンコを押させること。10時までに自宅に戻り従業員に説明し給料を渡す事等々である。
「なにか他にあるかな?」
「長男の債務保証額の事があります。本人とも打ち合わせをしたのですが、今日の銀行の相殺額を以てしても届かない分が出るように思います。もっとも本人にはこれと言った財産がありませんので放っておけば置いたになりますが、将来の再生の事を考えると響くかも知れません。県信用保証協会付きと言っても全国共通なので蹴飛ばすと一生つきまとうと思います。明日まで予測残債を本人ともう一度話して明細を出しておきます」保険金さえ下りればなんとかなる。問題はどのような債権者がそれを嗅ぎつけて押さえに入ってくるかだけなのだ。ヘタを打てば1円たりとも残らなくなるからだった。
 翌朝、長男がやってきて、保険金についてのあらましを話した。少し、タマゴから聞いているらしく、理解は早かった。
「それで悪いが、お前は葬式には出れないだろうと思う。義母さんと次男に任せて明日から二日余りオレと行動を共にして欲しい。とにかく今日はあとでタマゴと代書屋へ行ってきてくれ」と言って後はタマゴに任せた。オレは今日で金沢を離れるつもりでいた。もうする事がここでは無いのだ。あとは弁護士に任せるしかなかった。葬儀屋に変わった建設会社跡は県外からやって来たキリトリ屋と相当揉め、パトの出動となったと竹内から電話が入った。自宅の方はその分静かであった。こんなものかも知れない、ハイエナは発熱する部分に集まるものなのだ。オレはその夜、慶伊を残してタマゴと富山へ戻った。
 色々ぎくしゃくはしたが全て予定通り進んだと言えよう。葬儀も何事もなく終え、遺族の黒部への移動も完了した。弁護士はオレに二ヶ月ぐらいかかるだろうと言った。オレの手元にはオヤジから預かった金が90万ばかり残った。遺族の生活費にはなるだろうと長男に渡した。
「助かります。あのぉ、後日落ち着いたら南無さんの社長にお会いしたいのですが・・・・」と言った。
「お前がそうしたいのであればそうしろ、オレは別に何とも言えない」
「いえ、死んだ父も迷惑をかけています。息子である私がケジメを付けに行くしかありません。そうすれば家族みんなで新たな世界で生きていける気がするのです。このような世界はもう堪えられません。私達は生まれ変わりたいのです」オレもそう思うと付け加えた。事が終われば一切合切オレ達と縁を切るべきだと。オヤジも異論があるはずもないのだ。

 11月の半ばを過ぎた頃であった。弁護士から完了の電話が入り息子を連れて2時頃まで来て欲しいと電話があった。オレは息子を連れて2時前に事務所に入った。
「南無さん、やはり国税が強敵だったよ。2700万押さえられて7300万だけがとれる事になった。今から息子さんと銀行に行って引き下ろしてくる。しばらく待ってくれ」と言って息子を連れて出ていった。
 ようやくこれで終わるのだと言う思いと共に、死んだ山崎の顔がオレの前にぷかりと浮かび上がってきた。笑っても怒ってもいない無表情の顔であった。これでいいんか?と問うてみたが返事があるわけもなく、やがて山崎の顔はそのままオレの前から消えていった。弁護士への追加報酬は100万だった。そのままオレは息子と共にオヤジの家に向かった。道々の風景はもう既に秋の終わりを告げていた。立山の峰々は既に雪に覆われていた。
「長い間ご迷惑をかけていました。申し訳ありません。社長や南無さんが居なければ私達はどうなっていたかもわかりません。家族一同感謝しています。ついては南無さんのおかげで無事保険金がおりました。負担して頂いていた父の借金や諸費用合わせて精算をしに来ました」と息子は言いオレからあらかじめ聞いていた2600万をテーブルの上に積んだ。
「わかった。いただくよ。全ての精算はこれで終わっている。あとは儂達と会う事もないだろう。元気でやるんだな」お互いこれであっけなく終わった。
 帰りの車の中で息子はオレに300万をお礼と言って渡した。躊躇するオレの顔を見てとったか真顔で言った。
「少ないかも知れませんが手切れ金です。持って行って下さい。あなたとも永久にオサラバです。私達は数日でお借りしている家も出て妻の実家の近くへ引っ越します。もうあなたとは会いません」それもそうだとオレはその手切れ金を受け取った。
 もうひと月も経てば雪が降りだすだろう、とオレは車窓の外を眺めていた。

合掌 享年59歳

-了-

2006年1月1日日曜日

マドラー

 久しぶりにオヤジから夕飯の誘いの電話があった。
「タモンに七時頃まで来い」
 そういえば二ヶ月以上も顔を見せていなかった。名古屋での仕事がトラブル続きになり最終的な弁護士との交渉事に振り回されていたからである。また向こうとの往復出張も重なっていていささか気分も滅入っていた。
 オレはそこそこに書類仕事を片づけて車に乗り込み夕刻のラッシュを抜けハイウェイを飛ばした。左手に夕日を浴びた穏やかな日本海が紅に染まった鏡のように広がっていた。いつもであればもうすぐ迎えるであろう大陸の風で荒れ模様を見せる海であるが珍しく小春日和となっていた。長く北陸に住むようになると時々見せるこのような風景に心が和む。しかし天はヤヌスの如く明日には牙を剥き出し違った顔を見せつけることもある。

 二ヶ月前、オレは名古屋のダチの情報により第二名神高速道路の工事が進むなか、桑名にある廃棄物処理工場移転の利権絡みに介入していた。用地買収金がたんまり入る地元廃棄物処理会社の利権を裏稼業として見過ごすことが出来ないからだった。また工場移転候補地の確保はオレのサイドで既に出来上がっており廃棄物処理会社との交渉も思いのほか順調に進んでいた。しかしここ大詰めというところで、四日市に本拠地を置いている組織が突然代理人という触れこみで利権介入してきたのであった。
 オレが常宿にしていた名古屋中区の錦通りに面しているホテルのロビーへいかにも厳つい軍団として数台の車でやって来た彼等はロビーに溜まり、その内の数人が一階にあるカフェで待っているオレの席にやってきた。篠塚と名乗った先方の幹部格の男の言葉は丁重であったが中身はとてもオレがのめる条件ではなかった。つまり「手を引け」と言うことに他ならなかった。こちらはオレを含めて三人であったが下がるわけにはいかなかった。なんと言っても玉(利権金額)は大きかった。特に今回オレのボディガードも兼ねていた亜根羽はそれなりの組の幹部としてのメンツも絡み、話し合いの場としては決して引っ込むこともなく相手方と目で火花を散らしていた。こういう物事の交渉ごとというものはどの程度まで互いに突っ張るのかと言うことでしかなかったがお互いに最終的なそれには触れないようにしていた。いったん結論は次回と言うことでその場を納めたが、納まりつかなかったのはオレ達であった。ヤツらは仕掛けたオレ達に正面切って横車を押してきたのである。地の利で形勢不利というものの一円も取れないという事になれば看板を下ろすしかなかったからだ。部屋に戻ってからのオレ達の気持ちも憤懣やるかたない気持ちであった。亜根羽は特に黙りこくったまま何か考えているようであったが敢えてオレはそれを無視した。割の合わないことだけは決してしてはいけないことであるからだ。
「南無さん、どう切り回すつもりなんでぇ?」と亜根羽は怒りに満ちた顔をオレに見せながら聞いた。
「このまま一文無しになるわけにはいかねぇ。といってもこのままの持久戦では地の利の薄いオレ達が不利に決まっている。おめぇになんかいい考えでもあるってのか?」
 オレはヤクザの常套句を聞くつもりはなかった。メンツに傾けば銭を失うだけでは済まないことも明白であるからだ。
「考えるためにあんたがいるんだろうがっ!おれっちにそんなもんなんかあるかよっ!だがな、このまま引き下がるわけにはいかねぇ。あんたさえ決めてくれたらナンボでも突っ張ったるわい」と亜根羽はオレに答えた。

 盛り場のほぼ真ん中に位置する「タモン」はいわば市内一番の高級ステーキ・ハウスである。オレはそのまま車を店の正面に止め店内にに入ると受付で車のキーを預けた。慇懃な素振りで支配人がオレを出迎え丁重に頭を低く下げオヤジの席へとオレを案内した。
「永らく失礼をしていました」とオレはオヤジに頭を下げると支配人が後ろに引いた椅子に腰をかけた。テーブルの上にある83年のシャトーマルゴーをオレのワイングラスに注ぐと静かに向こうへ去っていった。
「おう、名古屋での一件は聞いてるよ。スクラップ屋というものは所詮ウダウダ言うに決まっているもんだ。ま、はじき飛ばされないようにな」とニヤリと笑ってオレの顔を見た。
 もうすでにトラブル情報は耳に入っているというわけだ。
「はぁ、どうも予想外の展開になってきましてね。二つにひとつという塩梅になってきました」もうオレにとっても行くか泣くかでも済まなくなってきていた。
「南無よ、値打ちはどれくらいあるんだ?」
「一丁以上(一億)はいくでしょうね」
「では結論が出てるようなもんじゃねぇか」
「はぁ?」
「出方によっちゃ、二丁にもなりうるじゃねぇか。頭は使うだけでは足りないんだよ。駒が動かせるかどうかでしかねぇ。いつまでも半端なことするんじゃねぇ。大阪の内川には話をつけたる」
 今は大阪にいる内川はオヤジの昔の実子分であり亜根羽の大親分格に当たる人間であった。いかのオレでもそのクラスにまで口先を入れるわけにはいかなかった。また内川まで巻き込むとなると事が大きくなり過ぎて収拾がつかなくなることも考えられた。しかしここに至ってはオレは黙っているしかなかった。オヤジはそんなオレを無視するかのように勝手に話を進めていくつもりのようであった。そのままオヤジは電話でオレと一緒に戻ってきた亜根羽を呼び出し、次の店でオレ達三人が落ち合った。

 そしてオレは三日後再び亜根羽の他に20人ぐらい連れて四日市に向かった。そして大阪の内川からも応援部隊として30人ぐらいが一足先に四日市諏訪栄町のホテルに入り込んでいた。
 四日市の篠塚の思うような展開にならなかったことはその結末が示していた。亜根羽は、双方が話し合いのために落ち合ったホテルの最上階ラウンジでいきなり篠塚の手首を押さえつけ出刃を振り下ろし左指5本を第二関節から切り落としたのであった。あっという間の出来事でありこのオレでさえ予想だにしていない出来事であった。
「篠塚さん、この返しはオレの小指でええやろ」亜根羽はそう言い終わると自分の左指の第一関節にたった今使った出刃を打ち下ろし指先を切り離した。
「これで互いの目方が合うじゃろうが」
 亜根羽はそう言ってウエイターにスコッチの水割りを用意させ自分の切り落とした指をそこに入れゆっくりとグラスの中を回し始めた。

-了-

2005年6月26日日曜日

めまい

 先日の面会の時、藤田のいったことが頭にこびりついて離れなかった。もうすべてを失ってしまっているらしい。
「南無さん、もう出てきてもなにもねぇよ。わしももうあんたにしてやれることもなくなった。だから、これが最後の面会だと思ってくれ。すまねぇが、大阪に帰るよ」
覚悟はしていたが言葉に表されると嫌な気分だった。検事はどうしてもオレをすんなり出す気がなかったようだ。引っ張りに引っ張られて先日第二回公判をようやく終えたばかりだった。オレのグループも根こそぎやられちまったというわけか。もうオレも未決で4ヶ月目に入った。頭もボケ始めてきていたが、別段構やしねぇだろう。どうせ出たってやることなんかねぇ。それに毎日塀越しで空を見るのにも飽きてきた。でも飽きた空を見るしかあんめぇ。

やがて廊下に歩く音が響いてきた。がちゃりとあたりを響かせて鉄扉があけられた。
「1024号!身の回りのものを持って出ろ」とオヤジ(刑務官)がオレに言った。保釈が通ったのだ。
廊下を歩きながらオヤジは言った。
「もう来るなよ、南無」と初めて笑顔を見せた。
「へぇぃ、戻らんようにしまっさ」
保安課で一通りの手続きを済ませてスーツに着替えゴム草履から革靴に履き替える。廊下をまっすぐに歩き最後の格子扉が開けられる。整然と歩いているつもりだったが革靴の重たさに一瞬足を取られてしまいよろけそうになってしまった。もうここは来ネェ、とオレは呟いていた。
表へ出ると妻と三人の男達。見上げると天空が真っ青だった。そしてそれは眩暈と共に襲い始め、またオレの足をふらつかせた。
 もう失うものは家族だけか、と空に向かって呟いてみた。