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2005年6月26日日曜日

めまい

 先日の面会の時、藤田のいったことが頭にこびりついて離れなかった。もうすべてを失ってしまっているらしい。
「南無さん、もう出てきてもなにもねぇよ。わしももうあんたにしてやれることもなくなった。だから、これが最後の面会だと思ってくれ。すまねぇが、大阪に帰るよ」
覚悟はしていたが言葉に表されると嫌な気分だった。検事はどうしてもオレをすんなり出す気がなかったようだ。引っ張りに引っ張られて先日第二回公判をようやく終えたばかりだった。オレのグループも根こそぎやられちまったというわけか。もうオレも未決で4ヶ月目に入った。頭もボケ始めてきていたが、別段構やしねぇだろう。どうせ出たってやることなんかねぇ。それに毎日塀越しで空を見るのにも飽きてきた。でも飽きた空を見るしかあんめぇ。

やがて廊下に歩く音が響いてきた。がちゃりとあたりを響かせて鉄扉があけられた。
「1024号!身の回りのものを持って出ろ」とオヤジ(刑務官)がオレに言った。保釈が通ったのだ。
廊下を歩きながらオヤジは言った。
「もう来るなよ、南無」と初めて笑顔を見せた。
「へぇぃ、戻らんようにしまっさ」
保安課で一通りの手続きを済ませてスーツに着替えゴム草履から革靴に履き替える。廊下をまっすぐに歩き最後の格子扉が開けられる。整然と歩いているつもりだったが革靴の重たさに一瞬足を取られてしまいよろけそうになってしまった。もうここは来ネェ、とオレは呟いていた。
表へ出ると妻と三人の男達。見上げると天空が真っ青だった。そしてそれは眩暈と共に襲い始め、またオレの足をふらつかせた。
 もう失うものは家族だけか、と空に向かって呟いてみた。

2005年3月11日金曜日

夕暮れ

「参るよなぁ。本当に困ったよ。私の脳味噌ではなぁ。頼むよ南無さん」と石田はオレに泣きを入れてきた。石田は市内の中心地で和装の老舗をやっている。歳は40代半ばであった。女も三人居てそれぞれに盛り場で小綺麗な店を持たせていた。いわゆる旦那さんである。しかし商人らしく性格に狡さを持っていた。オレはその貧相な部分が嫌であった。こういう人間は隠し事が多く最後にタイ(体)を引くのでオレは彼の話にのりたくなかったのだが。
 話の趣旨はこうだった。高校時代からの友人に金を貸した。最初は二、三拾万程度であったが2年もしたら300万円になってしまい、金額的にかさんでしまったのでとりにくい状況になった。債務者は農家の長男で会社員の月給取り、家、田畑もそれなりにある。結婚はしていなく、もっぱらの金の使い道はフィリッピン・パブの女である、と。
 とりあえず彼の事務所へ行くことにした。今までの人間関係を考えると電話だけで断るのも気が引けたからである。まずはビジネス・ライクに切り出すやり方で話の内容を聞くことにした。
「取り分は?」とオレは聞いてみた。言いたいことは判っている・・・。
「どうだろう?サンブナナブ(三分七分)で。上げれますか?きちっとした借用書もあります」案の定、値踏みは安かった。ケチな駆け引きはしたくなかった。断るためにオレは五分五分と言った。
「え~っ!ヤクザみたいだなぁ。南無さんは堅気なんだからふっかけないでよ」とわざと大袈裟な驚きの声を上げた。しかし石田の目は定まっていなかった。何か隠している目だった。
「オレはどっちでもいいよ。別に今困っているわけではないからな。呼んだのはアンタだ」と突っぱねた。
「わかりました。言う通りにしましょう。取り敢えず今50万あるから着手金です。納めて下さい。方法は一切任せます。ただし私に迷惑はかけないで下さいね」最初から用意してあったらしく金は白い封筒に入っていた。そして借用書も目の前に置いた。出来過ぎであるとオレは思ったが言葉の文もある。引き受けるしかなかった。
「承知した。受けるよ。ついては仕事がやりやすいように相手の債務者とオレのレールは二、三日以内にそれなりに引いておいて下さい」こういう風に話は進むことになった。

 数日後債務者と会うことになった。その男は典型的なオボッコイ百姓にしか見えなかった。友人に迷惑はかけれないでしょう、と言ったら素直に応じた。何故あの狸はオレにこの男の事を任せたのか疑問は残ったが気にはとめないようにした。オレの知った金融屋にとりあえず債権を振ることもこの男は了解した。これでオレの分野は終わった。金融屋は自宅に1000万の根抵当権を組んだ。金利後払いで400万の貸し付けだった。男は石田に300万を返してくれと言ってオレに渡した。自分で返せ、と言ったが聞き入れなかった。石田がオレを使ったことでやはり多少の気分を害しているのだろうと仕方なく、その足でオレは石田に金を渡しに行くことになった。そして報酬の残金を受け取った。あとは金融屋と債務者だけの問題でオレは抜けれるはずでもあった。だが、オレの本能はブレーキをかけた。石田のところを出る際オレの疑問をぶつけてみた。
「なぜアイツは自分でアンタに金を返しに来なかったんだ?」と。
「いや、別段考えることもないだろう。無事終わったことだし、感謝するよ」石田の声は心なしか震えているように思え、目に落ち着きがなかった。
「オレに教えておくことはないのか?」ともう一度オレは石田に言った。石田はどぎまぎとした態度を見せ、立って社長室をぐるぐる回り始めた。オレは応接セットの椅子に座り直し石田に応えるように言った。
「いやね、南無さん私はね、ご覧の通りの人間で気が小さいんだ。高校時代もねアイツにきつく当たられて、それが、トラウマみたいで貸し続けたのです。だから、喧嘩腰で来られるとね・・・。恥ずかしい話しだが怖いのが苦手なだけですよ。ははは。それ以外ありません」と無理な笑顔を作っていた。これ以上聞いても言わないだろうとオレはそれ以上問い質すことはしなかった。素人との喧嘩に負けるはずがないからだ。でもそれが間違いのもとであった。

 3ヶ月後、その百姓は猟銃を持ってあの金融屋に乗り込んだ。その時オレは石田の顔を思い浮かべたのだった。奴もやられたのだ、と。
金融屋はオレの携帯を鳴らした。
「南無っ!たすけてくれっ!」金融屋の城石からだった。ただごとではない声の震えに緊迫感が伝わってきた。
「どうしたんだ?」とオレは平静を装った。こんな電話はよくあることだからだ。受話部分を強く耳に押しあて、運転中だったオレは車を道端に止めた。
「経川が鉄砲持って来やっがった。お前がなんとか説得してくれ。もう、辛抱たまらん」オレが電話に出たことによって城石は少しは落ち着いたようだった。
「原因は何だ?」聞かなくとも判る。不法金利か”騙し”がバレたかだろうと俺は思った。でも、なんで鉄砲持っていやがる。
「とにかく、”銭は払えない”の一本槍だよ。うひゃーっ!けぇーっ!」あとは悲鳴になった。しばらくすると、電話を取り上げたらしく”債務者”経川が出た。
「経川さん、南無です。何かあったのですか?」とわざと落ち着いた声でとぼけて言ってみた。
「南無かっ!あんた等でオラを騙しやがって。許さんから、ここへ来いっ!でないと、こいつら全部撃ち殺すからなっ!」興奮した口調だったが、前も石田と” ある”と踏んでオレは説得を試みることにした。まわりの事務具なんかを蹴り倒しているらしく大きな音が何回も響いて聞こえた。
「わかりました。でもそっちへは行けない。来客があったら”大騒動”になるだろう。こんな事でアンタも警察に捕まりたくないだろう。二人っきりならアンタの指定する所まで行きます。それでどうでしょうか?条件も聞きます」と返した。
「ふんっ!オラがおっとろしいのか?へなちょこめがっ!」と荒い呼吸が伝わってきた。自分で自分を興奮に高めた時の状態だろう。ふん、とうしろがっ!これからが地獄の一丁目だぜ、とも思った。鉄砲でテッポウするとはシャレにもならねぇ。それよか許せねぇ、と憎悪が頭をもたげてきた。
「時間と場所を言って下さい。約束は守りますから落ち着いて下さいよ、経川さん。お願いします。どれだけでも私が謝りますから」と声をわざわざひきつらせて高音にした。奴はこれで引っかかるはずだ。しばらく考えているらしく、聞き取れなかったが城石に怒鳴りながら何か言っているようだった。二、三分して再び経川は言った。
「ようし、わかった。今晩7時にオラの指定する所まで来い。一人で来るんだぞっ!わかってるんかぁっ!」受話器の声は割れていてオレは耳を離した。
「オラはいつでも引き金は引けるんだ。忘れるな」とも言った。彼は意気揚々と帰った。そしてオレは急いで金融屋のところへ駆け込んだ。

 城石の目はつり上がっていた。興奮いまださめやらずという所だろう。取り敢えず謝るしかないだろうと思い頭を低く下げた。
「とんでもない客をもってきたもんだよ。一体お前は”あとしまつ”どうするんだよ?ふぅ~っ!」と大きな溜息をついた。
「申し訳ないことしました。ケツモチはします」とオレは素直に装って城石に謝った。しばらく時間は流れた。城石は自分から喋ろうとしなかった。”ケツモチ”の内容をオレの口から聞きたいのだった。オレはわざと時間を長くしてみた。もっと苛ついたほうがオレにとってはいいのだ。
「提案ですが社長、喋っていいですか?」とオレは申し訳なさそうな顔で言った。
「言ってみろ」怒った顔はそのままだった。
「ご存じのようにオレは今晩、経川に会いに行かなければならない。わかりますね?」城石は一瞬戸惑いの表情を見せた。構わずオレは話しを続けた。
「オレはアイツを単なる百姓ぐらいにしか思っていなかったことは事実です。社長を騙したわけではありません。しかし責任はあります。と、言っても、ただ何も無しで行ってもあの野郎はまた暴れに来るだろうと思います。それどころかオレに鉄砲ぶっ放すかも知れません。オレもおっとろしんですよ。それで土産が欲しいわけですよ。でもね、社長には勘違いして貰いたくないのです。債権はきっちり上げるつもりです。ですからオレの指示に従って貰えませんか?」それだけ言うとオレは城石の返事を待った。
「わかった。ワシもあんな奴は二度も三度も会いとうない。お前の指示通りにしよう。任せるよ」と深い溜息をついた。これで言質はとった、とオレは内心笑みを浮かべた。待ってろ経川、トウシロがっ!どっちへ転ぼうが、この勝負はオレの勝ちだぜ、と。
 城石に簡単にオレの作戦を説明し、色々な書類に印鑑を押させた。金融会社の根抵当権設定の権利書、根抵当権抹消登記の委任状、借用証書、等々。抹消登記の委任状は城石のもう一つの別会社の横判を押させ無効に、公正証書に組み直した借用書は持参せず、と云う大まかなスタイルになった。どうせ鉄砲で脅した脅迫にもとづく抹消登記には効力なんかない。これで道具は揃った。嘘がばれなきゃ”無事”というもんだ。

 万が一も考えてオレは早めにシャワーを浴びて身を小綺麗にした。熱いシャワーはオレの闘志をかき立てた。しかし「万が一」が怖かったのは言うまでもない。こんな場面は誰でも区別無くいやなものだ。しかしオレには経川の素人としての計算が手に取るように判っていた。”降参”と云えば勝ち誇るだろうと。しかしオレは石田のようなわけにはいかないぞ、経川さんよ。念のため当初の”依頼主”の石田に電話をした。今日の出来事を簡単に話した。電話口でしきりに俺に謝っていた。鉄砲事件は勿論彼のほうが早く経験済みであった。狡さのお釣りは大きくなるぜ、とオレは心の中で石田から事後むしり取る算段をしていた。オレは思った、これを”事件”にしなきゃなにが事件かっ!たっぷりとみんなからしゃぶってやる・・・。とは言うもののオレが生きていればの話しだ、が。経川が暴力的ゆえオレの身が心配だった。道具を持つと人間は変わる、とヤクザモンに教えられていたからだ。恐怖は”金と云う懸賞金”で乗り越えるしかない。金のニオイの無い恐怖は願い下げ、逃げるが勝ちだ。
 6時半頃経川から電話が入った。場所はやはりヤツの郊外にある自宅ではなく市内の中心にあるマンションの八階だった。金貸し泣かして豪華生活か、けっ!なにが給料取りの百姓だ。
 インターホンを7時きっかりに鳴らした。カメラ付きの豪華版だ。中から小柄なフィリピン嬢が出てきた。ドアを空けると彼女は廊下まで出て辺りを見回した。
「オレは一人ですよ」とその女に言った。そのままオレは女に中を案内された。市内の夜景が一目で眺められる大きなリビングだった。会社員であることは事実だがこんな野郎はいないだろう。オメコにイカレている証拠だ。
 経川に促されて革張りのソファに座らされた。経川の横には銃底を下にして専用の猟銃台座に銃が置いてあった。トラップには精巧な女が彫られていてベラッチのオプションのようだった。ただの月給取りではなかった。腕前も相当とオレは看てとった。さしずめオレも害獣というわけだなと妙な感心もした。
「変なモン持ってきていないだろうな。鞄を前に出せ。それから立って手ぇ挙げて後ろ向け」と銃に手を延ばしながら言った。オレは素直に従った。そして、ボディ・チェックが終わるとそのまま経川の目の前で土下座して頭を下げた。
「まことに申し訳ありません。後日色々なことを聞きました。城石が無法の金を要求したことも・・・。すべてオレの責任です。この通り許して下さい。何でもアナタの言う通りにします」と涙声になるように言った。そして頭を絨毯にこすりつけるように下げ続けた。しばらくすると経川は嘲笑いながらオレに言った。
「おいっ!南無!まだ頭の下げ方、たらないんじゃないの。もっと擦りつけるようにしばらくしとれっ!ははははは」そして銃底の角を思いっきりオレの背中に振り下ろした。激痛が走りオレはその場で蹲るようにして倒れるしかなかった。あまりの痛さに目から涙が出て獣のような唸り声を上げた。
「勘弁して下さい!お願いです!」情けないが全くの涙声だった。
「馬鹿野郎!クズがぁっ!」経川は興奮しだした。オレは身の危険を感じて震えが全身にまわってきた。ガタガタと。そして震えながらオレは必死に言った。
「解決しに来たんですっ!話しを聞いて下さい」話を本筋に戻さなければヤバくて辛抱たまらん。
「オラが決めることだろうがっ!馬鹿がっ!」とオレの顔を片手で上げさせ睨みつけた。オレはまた絨毯に顔をすりつけた。そして、頃合いを見て顔を上げた。
「その通りです。書類も色々持ってきてるんです。聞いて下さい。お願いします」とオレは経川の顔を見た。
「じゃ、オラに見せろ」経川は冷静さを取り戻したようであった。ふぅー、助かった。これからが本当の実戦だよ、半端な知識が知恵に殺されるという。オレは痛みに堪えながらそう思った。あとは一か八かの口車の世界だ、口上はおめぇより上手いぜ、と。
 あとはすっかりオレのペースになって話は進んでいった。オレはアンタに一生ついて行きます、とオレは経川に何度も言った。アニキと呼ばせて下さいよ、とも。こうなれば何でも言えばいいのだ。書類はすべて信じた。根抵当権が登記抹消され、借用書が帰るとなるとアホは信じるものだ。そしてその肝心な借用書を返すと、もう御機嫌になって女にオレにお茶を出せとまで言うような張り切りぶりだ。予想通り勝ち誇っていやがる。こいつはやはり根っからの善人なのだ。恐怖はこいつにこそ降り注いでいるのだと思った。
「登記手続きはどうしましょうか?」とオレは経川に聞いてみた。ここが肝心な所だ。相手は暴力によってオレを支配したと思っているかどうかの判断にもなるのだ。
「南無が代書屋に持って行ってくれ。オレのハンコは認め印でいいのだよな」と言って立ち上がりベラッチを台座に置き、奥の部屋に消えた。しばらくすると印鑑をテーブルに転がし、女にウイスキーを二つ持ってくるように言った。”かかった”と思った。支配する暴力はオレのほうが知ってるよ、ふふふ、だと心の中でほくそ笑んだ。
「それでですね、アニキ、登記が完了するまで1週間ぐらいかかると思うのですけど、どうでしょうかね?」とオレは猫撫で声で問うてみた。
「そうだな、代書の先生に任せるしかないやろ」と軽く返事をした。確実な地獄行きの切符を持たされるとも知らずに、だ。
「じゃ、俺に任せて下さい。代書屋は堀端町の木下先生にお願いしてきます。ウイスキーのお代わり戴きますよ。アニキ」と手揉み同然に奴の御機嫌をとりだした。そして気になることをヘタな芝居を打ちながら聞いてみたりもした。会社のこと、兄弟のこと、年老いた母親がいること、フィリッピン嬢の存在をまわりに隠している事等々、脆く保守的な階級であることが判った。オレはそれを聞きながら追い込みの絵図を組み立てていた。そして、その夜は遅くまで経川とウイスキーを酌み交わした。体の痛みを忘れるために。
 残された日数は7日間。オレの嘘に気づいた時に経川はきっと暴走するだろう。この攻め合いに果たしてオレの勝ち目があるのか。ヤツの懐深く押し入るしかなかった。心の奥隅の澱みから何度もぶくぶくと恐怖に囚われたように妄念が湧き出てくる。その晩部屋に戻ったオレは朝まで眠ることが出来なかった。目を瞑るとオレの脳漿が飛び散るイメージが眼球の中で際限なく繰り返された。まだ俺の頭にウイスキーが残っているのか?そして明け方意識を失うように眠りに落ちた。

 電話の音が夢の中でリンリンと鳴っていた。はっと起きあがると午前10時をまわっていた。背中の痛みが激しく思わずオレは唸り声を上げた。左腕を上げると痛みがいっそう増した。そのままシャワーを浴び鏡で背中を見た。肩胛骨の下がどす黒く腫れていた。どうやら骨は大丈夫のようだった。これも道具だ、とオレはこれからの行動に思いを巡らせ、素肌に薄手の白いワイシャツを選んだ。
 さて、と。頭で描いた絵図をもう一度組み立てた。そして石田と城石に電話を入れアポをとった。たぶん今日一日で勝負の行方が見えてくるはずだ、と。
 石田は待っていた。
「この通りだよ」とオレはワイシャツを脱ぎ腫れ上がった背中を見せた。いかなる言葉の説明より早いからだ。
「無事でよかったです。南無さんに何かあったらと思うと心配です。・・・・・。ところで私は大丈夫ですかね?」石田にとってはオレのことよりも自分の身が心配なだけだ。
「うん、それをオレも気にしているんだ。なにしろ、興奮すると手に負えないくらい”暴発”するのでね。今のところはオレへの怒りは少し治まったようだが。まだ終わっているわけではないよ。ほんとの喧嘩はこれからだからね」とオレは石田の不安をもっとかき立てるようにいった。
「と、いうと?」石田は不安そうな顔で落ち着きが無くなってきているようだった。
「”キリトリ”が残っている。城石の元金と金利が未精算だ。いわばアンタの身代わりに金銭の損害が出たのだからな。従って今晩あたりからモメルかも知れない」オレは石田の恐怖を利用することした。そして更に続けた。
「つまり、2、3日身を隠しておいてくれないかな?オレは立場上逃げるわけにはいかないが、あんたはさ、ほれ、商工会議所の視察旅行とか、何とでも理屈はつくだろう。しばらく女のところでひっそりして貰いたいのだよ。オレがアイツとぶつかったとしてだな、とばっちりは必ずアンタのとこへ行くと思うんだよ。被害妄想とはいえ今もアンタを恨んでるからなぁ。アンタがちょこっと隠れているだけでオレは”仕事”がし易くなるんだよ。このままじゃ、アンタが足手まといでしょうがないよ。オレはスーパー・マンでないのでな。自分を守るので精一杯だ」
 勿論石田の反応はイエスだった。そして、城石も石田に見習って金沢の女のところへ早速飛んだ。これで、いいのだ。

 オレは午後2時頃自分の部屋に戻り電話をかけまくった。さて、発火だ、と。まずは経川の勤めている北陸合成化学の人事課へオミズの店長を名乗りキツイ口調で電話口に出た男を脅しまくった。フィリッピン女を休ませてばかりいて困っている、これじゃ営業妨害だ、経川をクビにしてウチの店で働いて貰う等々と大声でわめき散らした。次に経川の姉と弟の家に電話した。本人が出ようが出まいが関係なかった。とにかく出た者に金融業の商号を名乗り、借金は返さないは、外人女にみつぐは、猟銃で脅されるは、で警察に行くしかない、てなコトをわめき散らした。姉の家は当人が、弟の家はその妻らしき者が出ていづれも最後にオレに謝っていた。そして仕上げに経川の老いた母に電話した。これで保守的で脆い百姓一族は緊急に実家に集まるだろう。そして、彼は暴発する、と。
 その夜オレはあとの動きを見ようと部屋に鍵をかけてまんじりともせず待っていた。電話が鳴るのは早かった。午後9時過ぎだった。経川の低い声が向こう側から聞こえてきた。
「南無、オラは今から外へ出る。頭の中がくるくる回っていて、みんなの前に座っておれない」オレに対しての怒りは感じられなかった。どうやら、ざわついているまわりの音を考えると実家から電話をしているようだった。そしてオレの毒薬がまだ効いているのかも知れないと思った。
「アニキ、一体どうしたんですか?」とオレは早く経川の心の中を覗きたくウズウズしていた。経川は喋り出した。実家に姉夫婦や弟夫婦、叔父、叔母まで来ていて、泣き崩れる年老いた母の前で非難、糾弾を浴びたようだった。これは予定の出来事だった。
「城石の家に電話したけど大阪へ出張に行ったと奥さんが言っていたよ。石田も視察旅行かなんかでロシアへ行って居ないんだ。オラの頭ではわからんようになった。南無、オラはどうなるんかな?」経川は自分の置かれている立場を理解することに疲れたような口ぶりだった。予想とは違った展開になって行くようにオレには思われた。それならそれでも結構、どのみちヤツのほうへは水は流れないのだ。
「アニキ!落ち着いて下さいよ!オレがついてますよ・・・。あっ、それと明日、オレ警察に呼ばれてるんです・・・・。理由は言われなかったのでわかりませんけど・・・」向こうの電話口の息使いに溜息みたいな音が聞こえた。そしてオレは更に言うことを忘れなかった。
「それってアニキのことかなんか、かな。オレは絶対警察なんかに歌いませんから安心して下さいな」とわざわざ声を落として経川に言う事を忘れなかった。
「南無よ、オラはどうすりゃいいんかな?会社クビになって刑務所に入れられるんか?おふくろはどうなるんかな?」電話の向こうで泣いているようだった。怒りと悲しみが背中合わせになってしまっていた。オレは弱いが故に暴力的になる素人の典型的な姿をそこに見た。
「とにかく、例のアニキのマンションで会いましょうよ。オレも一緒に考えますから。明日の警察の調べも”口裏対策”しなければいけませんから詳しく教えて下さいよ」とオレは経川にたたみ込んだ。
「いや、今晩は女のとこへは行かん。一人で考えたいんだ。明日にしてくれ。朝オラの携帯に電話してくれるか?」経川は涙で鼻を詰まらせながら情けない声になっていた。
「アニキがそこまで言うんだったら、わかりました。明日7時頃に電話いれます」
 そして電話は切れてしまった。オレの予想とは外れてしまって、経川の暴力的な部分は消え去ってしまっていた。火種になるだろうと思われた城石や石田が居なくてよかったとも思った。とにかくオレは頭の中の絵を組み直す必要に迫られたようだった。念のためその日は部屋で寝ることはやめた。まだ銃の脅威の元にあることは確かなのだから。

 午前7時、梅雨の中休みなのか早朝から空は晴れ上がり温度計はどんどん上がり続けた。外に出ると太陽がまぶしかった。今日は蒸すな、とオレは上着を脱いで車の中に入り経川の携帯を鳴らした。電源が入っていないらしくサービス案内が流れ出した。その時オレは何ら気にしなかった。そして早朝のコーヒー・ショップで新聞を読みながら時間をつぶすことにした。店内は人でいっぱいで騒々しかった。世の中、可もなく不可も無く流れていくのか、と思いながら人々の朝の流れを眺めていた。読んでいた新聞を広げ直す時に背中の痛みがぶり返してきた。そして、その痛みでハッと我にかえった。まさか経川は・・・、と。オレは名状しがたい不安に囚われてしまっていた。何度も何度も妄想をうち消すように頭を振った。ついにオレは居ても立っても居られなくなり、コーヒーもそこそこに外に飛び出し、石田の携帯に電話を入れた。石田は不安そうな声で電話に出た。
「あのな、石田さんアンタのランド・ローバーを貸してくれないか?」と声早に話した。石田は戸惑っているらしく、なにかモゴモゴ言っていた。要するに自分の女のマンションを知られたくなかったようだった。オレだってそんなこと知りたくもねぇよ。
「部屋まで来ないよ。駐車場に下りてきてくれないか。すぐ着くよ」とヤツの返事も聞かず電話を切った。
 石田はパジャマ姿のまま間の抜けた顔でオレを待っていた。説明もそこそこに、一日だけ借りるよ、と言って、俺の車の鍵を石田の手のひらに残しランド・ローバーに乗り込んだ。とりあえず常願寺川の渓谷沿いを当てずっぽで、あっち、こっちの林道に入り込み経川の四輪駆動車を探し求めた。日中には気温が30度を越え車のエアコンの設定を下げた。山間部は何処も湿度でムッとしていた。午後になっても手がかりは無かった。電話は相変わらず繋がらなかった。オレは県道沿いまで下がって、サービス・エリアに車を止めた。自販機で冷えた缶コーヒーとウーロン茶を買いエアコンの効いた車内に戻った。林道は網の目のようになっていて一日中かけても無理かも知れないな、と思い、市内のヤツの女のマンションに向かうことにした。

 川沿いの県道を下がりながら、オレは河川敷に拡がるグミ林をぼーっとした目で眺めていた。若い連中が仲間内でバーベキュをやっているグループがいくつも目に入ってきた。のんきな奴らだぜ、と思いながら更に向こう岸に目を向けた。一瞬だがグミ林の陰に経川の四輪駆動車の赤い屋根が見えたような気がした。そうだ、ヤツは雉撃ちもするはずだ。山だけではなく川もあり得る。河川敷と言っても川幅なりに草や雑木が拡がり400メートル程度の幅で数キロ続いていた。グミ林がジャングルのようになっていて堤防沿いで見る視角とは変わり、太陽が煮えたぎっている空しか見えなかった。車を止めボンネットに上がりまわりを見渡してみた。2、300メートル通り過ぎたらしく、赤いものは見えなかった。オレはバックして少し戻った。低速ギアに切り替えて小さな流れを横切り道から外れてみた。
 しばらく草をなぎ倒しながら進むと10メートル先ぐらいに赤いランド・クルーザーがあった。間違いなく経川の車だった。中に経川が居るようだった。オレの体が少しづつ震えだした。気を取り直すように車の中でオレはもう一度ランド・クルーザーの中を見たがここからではよく見えなかった。人影は動かなかった。オレは車から降り、それに近づいた。震えは極限にまで高まり足までガタガタ、ガタガタとしていた。正面から見ると経川の首が折れてハンドルに頭がのっている様に見えた。そして頭後ろ半分が無かった。運転席側にまわってみると閉まった窓の内側には真っ黒なものが一面こびり付き数匹のハエが飛んでいた。ハンドルの下にはベラッチが斜めに立てかけてあるようにあった。猛烈な死臭が鼻に入り込み、頭がクラクラしだしてオレは車から離れた。
 オレは車に戻りしばらく考えた。死臭はここまで漂ってくるように思え窓が閉まっているかどうか確認した。ワイシャツの袖の匂いを嗅いだ。実際にはついているはずがないのに頭の中でヤツの吹っ飛んだ脳味噌の臭いが漂っているように感じた。吐き気を催し車外に出て何度も何度も吐き続けた。だらだらと頭や顔から汗が滴ってきて目の中に入り込んだ。これがヤツの答えなのか。えっ!経川よ!こんなにもおめぇはあっけないのかよ。料理する暇もないくらいに地獄へまっしぐらかよ、吐きながら涙にむせてオレはその場に座り込んだ。空を見上げると陽は少しずつ下がろうとしていた。経川っ!この毒は皿まで喰らってやるよとオレは心の中で叫んでいた。
 オレは知り合いの刑事に連絡を取った。警察が来るまで石田と城石には経川が死んだことを伝えた。二人とも巻き込まれていることの恐れをそれぞれの立場で愚痴っていた。こうなった以上、事情聴取を避けることが出来ないからだ。オレは二人に言った、お前達はしょせん民事上の人間でしかないから心配するな、と。
 辺りには夕暮れの気配が漂い始め草いきれのような湿気が死臭と共にオレを覆った。やがて夕陽を背にしながら警察車両がやってきた。長い夜になるだろうとオレは覚悟をした。

 翌日、オレに参考人としての最後の事情聴取が行われた。しょせん自殺に過ぎなかった。オレは知り合いの刑事に言った。猟銃の脅しが絡んでいるんだ。被疑者死亡だよ、と嘯いた。ウラをとると関係者の石田も城石も被害調書は出さないと言った。それで終わりである。事件にする程お役人は暇ではないのだ。そしてオレの仕事はまだ終わっていない。城石の債権は民事上有効であり、今もオレに任せられているのだ。
 オレはしばらく日をおいて城石の事務所に行った。仕事の仕上げに向かわなければならないからだ。
「ようやく終わったよ。通いじゃなくてよかったよ。ヒネの方からこっちへ出向いてくれたんでな」と城石は事のあらましをオレに話してくれた。どうやら石田と同じ扱いらしかった。
「ところで、ここに先日の書類がそのまま残っている」とオレはテーブルの上に預かっていた一式書類を広げた。話を続けた。「それでですね、経川に関しての他の書類も預からせて貰えませんか?キリトリの準備もありますのでいいですか?」と城石に話しを振った。
「なんなんだ?すべての書類はお前に見せたじゃないか。あれで全部だよ。それにこの事件は落着だ。あとはワシが時間をおいてやっていく」と城石はオレにむっとした顔を見せた。オレはいつも裏シャク(借用証書)を債務者の頭の混乱に乗じてとっているのを知っていた。だから、出せ!と言っているのだった。
「社長、ここんところを良く聞いて下さいよっ!いいですか?私の仕事はまだ終わっておりません。アンタはオレに任せると確かに言ったはずではないですか。違いますか?」根抵当権の極度額は1千万円。あとは原因証書の金額がいくらに書きこんであるかが大事なのは言うまでもない。死人に口なしとなった今、元金400万円で済むわけがないのだ。しばらく沈黙が続いた。
「わかったよ、まったくお前はハイエナだな。元金、金利は絶対負けれないぞ!」城石は立ち上がり金庫から一枚の借用書を取り出した。900万円と書き込まれていた。これで遺族へ攻め入る道具は揃った。

 数日後、経川の実家へ、夜訪問した。もう落ち着いてきた頃合いだからだ。焦心を隠せない老いた母に経川の弟が付き添った。仏壇の前に経川の骨壺が錦にくるまれてあった。オレは焼香を済ませ10万円の入った”御仏前”を老母に渡して頭を深く下げた。
 親友だったというふれこみで行ったオレは白々しくもこう言った。金貸しに交渉して”金利はまけて貰いました”と。話しはあっけなかった。弟がすべて責任を持って”処理”しますと云った。「ご迷惑をかけました」とも言った。五日後、弟に代書屋(司法書士)へ呼び出されて900万を受け取った。取り敢えず農協から借りたらしく、そいつらも来ていた。

 オレは500万を城石に渡し、”完了”を告げた。蒸し暑さは今夜も続いていてオレの体に死臭を漂わせていた。

享年46歳 合掌

-了-

2005年3月7日月曜日

赤提灯

 雨が一日中、鬱陶しく降り続いていた。いつもは通り過ぎてしまうその赤提灯であったが、夕暮れ時の小雨が煙る薄もやの中で浮き上がるように見えた。なにか垂れ下がってきた霧に覆われた水面に浮かびあがるように、その明かりがついたり消えたりしているようにオレには思えたのだ。
 通りから少しだけ奥まった草地にその店はあった。錆び付いた仮説プレハブに貧弱なひさしをつけただけの佇まいだ。居酒屋のしるしは提灯一個であった。オレは車を回り込ませて店の向かい側にある草で覆われた空地に車を止めた。まるでその明かりに惹かれるようにして車から降り立ったのだった。
 そんな時が誰にでもあるようにオレはふらっと暖簾をくぐって木の丸椅子に腰をかけていた。床が泥だらけであるところを見ると客層はそういう人種が多いのだろう。五、六人しか座れない丸椅子がカウンターに並んでいるだけで客は居なかった。
 四十過ぎにみえる女が背を向けて薄汚れた厨房でなにかを作っていた。
「なに、飲まれます?」振り向きもせずその女は言った。
「燗酒、・・・コップでくれないか」とオレはそのまま鷹揚のない声で応えた。
 しばらくして、コップ酒とキュウリとキャベツの浅漬けがカウンターに置かれた。酒は地物で熱過ぎず温過ぎずで、じわりと五臓六腑にしみわたっていった。
「干いわしを焼いてくれないか」とオレはその女に言った。そのとき初めてお互いの目があった。そして、女はあっ、という顔をオレに見せた。オレは不思議そうな顔をしてその女を見つめたが思い当たる顔のようには思えなかった。
「南無さん、でしょう?」と女は言った。
「そうだが、あんたが誰なのか、思い出されない。悪いな」とオレは女の顔をじっと見て言った。頭は過去をさかのぼっているのだが、この年になると大概が途中で諦めてしまう自分を見ることになる。
「伊井正一の女房の小夜子です。・・・・。思い出されましたか?」言葉に間合いを取りながら女はオレの目を確認するかのようにゆっくりとした速度で言った。
 オレは記憶の奥襞にこびりついている忘れさられた残滓のかけらを取り出し始めた。艶めかしく蠢く火照った白い裸身が暗闇の中から這い出てきて、ながいあいだ忘れていた匂いが甦るかのようにオレを包み込み始めた。
 そうか二十年前か、と。

 オレは手数料を払わない伊井に切れまくっていた。もっとも詐欺の片棒を担いだ報酬だが、仕事に貴賎は無いのだ。とにかく伊井はオレから逃げ回り、言い訳の電話しかよこさない自称企業舎弟の半端野郎だった。仕方なく奴の自宅に押し入ることにした。伊井はよくあるタイプで知能の足りない若衆をボディ・ガードとしていつもそばに置いていた。二尺鋼管をスーツの背中に差し込んで家に上がり込んだ。返事が無くそのまま二階にかけ上がった。奥の部屋から女のあえぎ声が聞こえていたがそれがなおオレの怒りに火を付けたようであった。オレはそのままドアを開け怒鳴り込んだ。
「200万キッチリ払って貰うぜ!アホンダラッ!」
 小夜子の目はほとんど白目を剥いていて男の背中に手を回し、全身を男に押しつけるように激しく腰を振っていた。高まる声をあげ続ける女の上には汗ばんだ般若の背中が登っていた。一瞬、振り上げた鋼管の行き先が無くただそこで呆然とオレは立ちつくすしかなかった。上に乗っている男は伊井ではなく棹師の和男だったからだ。
「わるいな、にいちゃん、も、そっと、そこでまっちくれぇ」と言って腰を振るのをやめなかった。
「下で待つ」とオレは和男に怒鳴るように言って階下のリビングに降りて終わるのを待つことにした。
 伊井はいなく女房は変わりに棹師のちんぼをくわえこんでいる真っ最中だった。しばらくして和男は裸のまま下りてきて、まだ濡れそぼっている棹をぶら下げながらオレに言った。
「これも仕事でな、南無よ、当分奴は金なんかねぇよ。悪いけど、今度電話で知らせるよ。まだ終わってないのでな」そう言いながらサイド・ボードのウイスキーの瓶を持って二階に上がっていった。

 伊井はもうオレから逃げられないと悟り、静かに話し始めた。
「カタをちゃんとつけるから、しばらくだけ、辛抱してくれ。色つけて払うから、今度の仕事は間違いないんだよ、なっ」また同じ言葉だ。
「あのな、おめぇは時間の問題なんだよ。お金も貰えないまま、オレまでパクられちゃかなわんがな。先によこせっ!馬鹿野郎!」
 サツの旦那連中の動きがあることはオレの耳に入っていた。伊井がパクられるとオレの身も安全とは言えなかった。せめて、金を掴んでパクられたかった。オレの家には1円もなかったのだ。子供の授業料も家賃も滞納したままだ。200万はデカかった。
「じゃーな、ぶち殺してやるから、そこに直れっ!」
 言い終わらない内にオレはまずそばにいつもいるポンタという知恵回りの悪い野郎を隠し持った鋼管でぶちのめし、伊井の顔を蹴り上げた。二人とも痛みでのたうち回っていた。ポンタは何度も立ち上がろうとしたがその度オレの鋼管でぶちのめされていた。さすがに丈夫な野郎だった。
「伊井っ!どこででも金を作ってこいっ!今からオレと一緒に来やがれっ!」といって伊井の体を掴んでその場に引きずり倒して蹴りを入れまくった。
「1週間かかるんだよ、1年になるまで・・・。頼むからやめてくれっ!」伊井の顔は血だらけで、オレに手を合わせ泣いた。1年?ってなにが1年かも考えもしなかった。煮え滾った脳みそは救いようがなく、暴力に走るのだ。
「オレは今、金がいるんだよっ!ボケがっ!甘いこと抜かすんじゃねぇ!」
 オレは許せなかった。このままだとまたオレだけが貧乏くじを引いてしまうのが目に見えていたからだ。金もなくて檻の中には入れねぇ、と。でもその時「棹師の和男」の言葉がひっかかった。ハッカ(一文無し)なのは間違いないようだ。あいつ等も金を取らなきゃならないはずだ。ハッカ野郎から金は取れない。オレは立ったまま二人を見下ろした。
「伊井っ、じゃぁな、てめぇ、聞くがな、一体いつまでオレに待てって言うんだよ」
オレは自分の気をできるだけ鎮めるようにしながら数回深呼吸をした。もうこれ以上痛めつけても意味が無いからだった。それに伊井にとってはこれで充分だろうとも思った。やり過ぎると道田一家のメンツをつぶしかねないからだ。棹師の和男の手前もあった。電話があったからだ。「南無、我慢しろ、おめぇが元々奴の口車にのったからなんだよ」と。オレはしばらくして呼吸を整え事務所の応接セットに腰を下ろした。鋼管は手から離さなかった。ポンタがもう起きあがろうと動いていたからだ。バケモノめっ!伊井はポケットからハンカチを取り出し、唇の血を拭いながらホッとした顔でオレに懇願した。
「ここまで来たからにはもう嘘は無いんだよ。腹はくくってるんだ。わかってくれよ。俺だって道田のアニキにみて貰っているハシクレだ。1週間だけ待ってくれ。約束は守る、なっ、取り敢えずここに十万だけある。これっぽっちで済まないが持っててくれ。あとは間違いなく南無さんの納得する形をつけるよ。このとおりだ」とオレの前で頭を下げた。信じてはいなかったが、身体で教えておけば奴らの中に食い込めるという計算も働いていた。なにか美味しいものにありついているのかも知れないとゲスな考えもあった。道田とは金の繋がりだと言うことはオレも知っていた。三千(債権)は持っていると言うことをオレは「棹師の和男」から聞いていたからだ。しょせんヤクザに縛られた詐欺師でしかないのだ。げんに和男は道田の身内の者であり伊井の監視をしている。和男にとって伊井の女房の小夜子は人質にした女にしか過ぎない。棹師とはしょせんそんなものだ。そんなことよりオレが恐れていたのは警察の動きだった。出来る限り持ちこたえて欲しかった。ひょっとすればオレへのカウント・ダウンも視野に入れておく必要があったからだ。形勢は最悪で、またオレはスッテンのまま檻の中に入る可能性があった。伊井がパクられたら、たぶんオレにも切符は出るだろう。そうなれば当分浮かび上がれないだろう、と。それにしても伊井は自分の置かれている状況が理解出来ているのかさえオレには疑問に思わざるを得なかった。この極楽野郎め。
「今度は生まれ変われるんだよ。うまく説明出来ないが、南無さんも安心して欲しいんだよ。とにかく俺もけちくさい世界からスッキリしたいんだ。頼むっ!」
「オレに油断させて蒸けるんじゃねぇだろうな?」
「はは、信じてよ。まだ俺には小さな子供もいるんだ。そいつの為にもそんなことはしないよ。なっ、大丈夫だよ」妙に自信を持たせる言いようであった。小夜子との間にはまだ学校前の男の子供がいるのをオレも知っていた。棹師をくわえ込んでいる女房でも伊井には家庭なのか、とも思って白けたが、おちるところがもう無いオレ達にとっては、最早どうでもいいことなのだ。堕ちると言うことはそういうことだからだ。
「わかったよ、とにかく今日はひとまず帰る。あっ、それからな、そのバケモノに言っておけ。オレが帰るまで立つなとな。ったくっ、気色悪い野郎だぜ」オレは立ち上がりざまバケモノを蹴り倒し伊井の事務所から出た。
「けっ!十万ぽっちかっ!運もナニもねぇ、オレって最低だな」口から自然に罵りの言葉が出てきた。
 間違いなくオレは身も心も最低なのだ。

 小夜子は干いわしを焼きながら懐かしそうにオレに話しかけてきた。雨で出足が鈍っているのか客はまだ無かった。
「もう二十年も過ぎたかな。南無さんも元気で何よりだね。わたしは見た通りよ。わたしも頂いていいかな?」
「あぁ、好きなもの飲めばいいだろう」
 小夜子は冷蔵庫からビールを取り出しコップとカウンターに置いた。オレは瓶をとりあげ小夜子のコップにそれをついだ。色香は胸元からのぞくその白い肌にまだ残っていた。
「あのね、こちらへ帰ってもう五年になるわ。結局のところ行くところが無くなっちゃってね。今はここの地主さんの世話を受けているっていうわけよ」
 髪のほつれには白いものが見えていたが近所の爺連中にはそれなりに通用するだろう。手首の切り傷の跡を見ると、それなりの地獄を歩まされたのだろう。オレも小夜子もその地獄の底で生き残っていたのである。

 伊井にも昔はまともな給料取りの時代があった。今は電話を数台並べてそれぞれの電話機に貼り付けてあるラベルの会社名で若い女が応対に出る名義屋稼業を行っていた。信販会社専門に喰う詐欺師である。五つに一つが「嘘」というヤツである。その一つで儲けるのだが何事にも終わりはあるものである。そしてその終わりがオレと共に近づきつつあった。たぶん伊井は最後の大きなヤマを踏むのかも知れないとオレは思っていた。道田から借りている金はまともな仕事で返すのは不可能なのだ。ちっぽけな詐欺師では金利で追いまくられるだけに過ぎない。オレにとっての1週間は長かった。途中何度か不安に駆られ伊井に電話をかけてみたりした。連絡はきちんと取れていた。ヤツがパクられていないだけでもオレの不安感は取り除かれていくという奇妙な繋がりに不思議さを覚えた。そして早朝6時に伊井からオレに電話がかかった。
「南無さん、今日のお昼過ぎにはなんとかなるだろう。今からその件でポンタと出かけるので連絡を待っていてくれ」と明るく弾んだ声で、オレの期待も高まった。とにかく今日が無事で終わればいいのだ、とオレはなんども頭の奥底で繰り返した。
 オレはいつものように昼時間をつぶすのが日課となっていた近所の食堂へ行きビールとラーメンを注文した。近所でも評判のワルで通ってしまっているオレが来ることを望んでいないのは分かっていたが、別段店で悪さをするわけではないのでオレは気にしていなかった。店主はいつも通り愛想笑いだけ見せチャーシュの屑をツマミとしてビールをテーブルに置いた。さていよいよだな、とオレは勝手に200万の割り振りに考えを巡らせてテレビをぼっと見ていた。そして突然、伊井の名前がオレの耳に飛び込んできて思わず箸を手から落としてしまった。店のテレビからその名が聞こえてきたのだ。オレはすぐさま立ち上がりテレビの前に走り寄って音声を上げた。オレの手は震え画面に釘付けになった。
「今日午前10時頃・・・・中島保夫さん32才の運転する車が・・・崖から転落し同乗者の伊井正一さん39才は車から投げ出され即死・・・」
 オレにとってはとても信じられないことであった。どうして岐阜県境の山道なんかで、・・・、と。オレはその場に蹲るしかなかった。
「クソっ!なんでなんだよっ!ぇえっ!」と声を上げた。オレの頭は真っ白になりぐるぐる果てしなく回り全ての思考が止まる思いになっていた。しばらくして、オレは椅子に座りながら考えた。伊井は本当に死んだのだろうか、もし死んだのだったらアイツが言っていた『ヤマ』ってなんだったのだろうか、それとも最後まで嘘っぱちのままの詐欺師だったのか。疑念が次から次へと湧き出てきて頭が混乱するばかりだった。200万が消えたことは間違いなく、脱力感に苛まれながらもオレは気持ちの立て直しをするしかなかった。まずは”事故”が本当かどうかから始めなくてはならないだろうとオレは思った。もし伊井が本当に死んでいるのであればオレの身がかなり安全になったと云うことにも繋がる。手っ取り早く確かめるしかなかった。オレは近くの公衆電話ボックスから二課知能犯の能波へ電話を入れた。能波は在席していて電話に出た。
「あのう、南無ですが、スンマセンが今テレビのニュースで伊井のこと、・・」
「馬鹿野郎っ!おめぇ!ぬけぬけと、よう電話しやがるのぅ、あーんっ?」
「いや、スンマセン、スンマセン、でもびっくりしたもんですから。能波さんだったらわかると思って電話しました。スンマセン」
「ふんっ!ハナクソ野郎がっ!これで終わったと思うなよっ!まったく、おめぇは喰えねぇ野郎だよ。電話した勇気に免じて教えてやるよ。うちの連中がガラの確認をした。ポンタと共にアノ世へ行ったよ。けっ!取り逃がしたんだよ、昨晩切符が出てな、今朝六時に踏み込んだらもう蒸けていたよ。それからな、おめぇにも近々出てきて貰うぞっ!わかったなっ!首を洗って待ってろ」ガチャンと電話は切れた。受話器を握っていた掌はじっとり汗をかいていた。オレは急いで家に向かった。こうなるとアイツとの絡みのメモ類なんか全部ヤバイことになる、と気が急いだ。とにかく焼却するかどこかに隠すしかないのだ。せこい考えの自分に情けない気持ちになりながら、とにかくあとはオレ次第で切り抜ければ、どうって事は無いのだ、と言い聞かせた。パクられてたまるかっ!

 夕方『棹師の和男』から電話が入った。
「南無さんよ、話しがある。今晩1時頃俺の女のやっている店『フランシーヌ』へ来てくれねぇか。伊井の関係書類全部持って来い。悪いようにしねぇよ」最後の言葉に妙なひっかかりがあったが、今更、奴らの組織とモメてみたってしょうがないのだ。サツとヤクザの挟み撃ちになればいかのオレでもどうにもならない、不気味だったが和男と会うしかなかった。
 5分前にフランシーヌに入った。
「連絡しますのでしばらくお待ち下さい」和男の女は既に聞いているらしくそつもなく奥のボックスへオレを案内した。ヘネシーをグラスに注いでから丁重にお辞儀をしてカウンターの方に戻っていった。カウンターには数人の客がいてそれぞれカウンター越しの女達と賑わっていて、ボックスだけが違う世界のように思われた。
 やがて、和男が若い衆を伴って真っ白なスーツ姿で現れた。若衆はカウンターに座りオレのことを睨みつけていたがオレは意に介する必要など無かった。和男はニヤリとした顔を見せてオレの前に座った。
「済まないな、呼び出して。遠慮無くやっちくれ」和男は水割りのブランデーを女に言って、終わると女に席を外すように言った。
「持ってきたか?」
「ああ、これで全部だよ。勝手に焼くなり捨てるなりしてくれ。どのみちオレにはもう不要だ」とオレは一式資料を袋ごとテーブルの上に差し出した。中身を一通り和男は改めていた。
「ありがとう、俺の気持ちだ、受け取れ」と言って和男は銀行の紙袋をテーブルの上に置いた。金であることはオレにも分かった。
「どうしてオレなんかに?」オレは和男の顔を見上げた。
「この金は俺が伊井の為に立て替えるのだ。伊井が死んだ今となっては、おめぇもこのままじゃ浮かび上がれめぇ。色も付けてある。うちの若衆のポンタにおめぇがヤキ入れたことも、奴は一緒に死んじまったしな。それもこれも不問だ。これで文句は無いだろう」和男は不気味な笑いを浮かべた。袋の中には 300万が入っていた。
「すまんな、遠慮無く貰っておく。助かるよ。ついでにすべて忘れたよ。それでいいか?」今後一切口出し無用、すべて喋るな、という意味ぐらいはオレにも分かる。分からないのはそこまでの値打ちが何であるのかということだけだった。オレの心がどんどんは惨めな気持ちに落ち込んでゆくのがわかった。そんなオレの気持ちと裏腹に和男は女を二人呼びつけボックスでオレと雑談をしながら上機嫌であった。オレは調子を合わせながらそれに興じていたが心は虚しかった。

 葬儀は道田一家の実質的な組葬として行われた。出席に戸惑いがあったが今となれば伊井から貰った金だという思いもあったので末席で行くことにした。たった、2、3年のつきあいだったが伊井は足早に逝ってしまった。オレよりはるか彼方に跳んでいったのだ。ヤツは何に生まれ変わるのだろうか、とも奇妙なことを考えたりした。道の向こう側の車の中には覆面の警察車両がいて、能波の姿も見えたが、知らんぷりで寺の門をくぐった。
受付には道田の若い者が数人で対応していた。オレの姿を見るとその内の一人が顔見知りで「よくも図々しく来やがったな」とオレを睨みつけたがその後、にやりと笑って「終わったことだけどな。ま、せっかく来たんだ、焼香してやってくれ」と言ってオレを素人衆の席に案内してくれた。喪主席にはやつれてしまった小夜子と五才になる遺児が座っていてその後ろには和男が神妙な顔で座っていた。オレには和男がまるで小夜子に取り憑いた死に神のように見えた。焼香を終え喪主席に挨拶をした時、和男と目があった。和男は一瞬だったが薄笑いを浮かべオレの目をじっと見た。酷薄そうな和男の視線がオレの背中に痺れるような悪寒を走らせた。そのときオレの疑念のうちのなにかが溶けるように頭を覆い始めた。そして、・・・・、和男が伊井を殺したのだ、とオレは瞬時にその妄念にとらわれてた。伊井の女房をみよがしに弄び、身体を縛り、伊井を追い込んでいったのだ。死んだ方がマシだぜ、と呟き続けたのだ。伊井の言った『1週間』とは自殺する期限だったのだ、と。ヤツは本当に生まれ変わりたかったのだ。ちくしょうめっ!なんて奴らだ。小夜子をむしゃぶり尽くす気なのだ。1年とは保険契約のことを指していたと理解するまでにオレはそんなに時間はかからなかった。保険金受取人の小夜子を離すわけがないのだ。これは遺族以外誰も悲しまない葬儀なのだ。

 門を出ると数人の警察官がオレを取り囲み、能波に拘束された。待機していた別車両に押し込められた。そのまま警察へ直行だった。
 取調室の中で能波はオレを立たせ腕時計を見ながら言った。
「只今、昭和・・年・・月・・日15時23分、容疑、公正証書原本不実記載・・市・・・番地、南無玄之介。司法警察員能波・・、・・・、以上っ!」読み上げは終わった。身柄拘束の令状は見せられなかった。
「手を出せぃっ!」と横の若い刑事がオレに手錠をかけて留置場へ連行した。司法警察員拘留48時間が始まったのである。屑はこのようにしていつでもいかなる時でも自由なんて無いのだった。伊井という獲物を失っていきりたつ能波と無言のオレの戦いは深夜まで及んだ。何回も椅子ごと、蹴り倒されたがその度オレは『スミマセン』としか言えなかった。元々は「別件逮捕」でしかないのはお互い承知の上なのだ。黙秘権しかないのだ。伊井のことなんぞ一行も書かせてはいけなかった。どうせ証拠は無い。死人に口無しなのだ。オレが耳をふさぎ口を閉ざせばオレは必ず助かる。
「おめぇ、『完黙』通すつもりかよっ、えぇっ!どうなんだよ」
「・・・・・・・・・」
「ウンとかスンとか言ってみろよっ!ハナクソ野郎がっ!」
「・・・・・・・・・」
 二日目は深夜2時頃まで続いた。三日目の朝、課長が出てきて、なにか美味しいそうな話しを振ったが、オレには沈黙しかなかった。嵌められるわけにはいかない。必ずここから出てやる。
「こらっ!南無っ!てめぇ、玄関パッキンやってやろうかぁ!なめやがって」能波は激怒していた。もうこうなれば何をされようが仕方ないのだ。地裁で10日の再拘が付き簡単な検事調べがあったきり、調べはもう無かった。蒸されたのである。オレは留置場で毎日を過ごしていた。漫画本も接見も禁止された。12日目、ようやく釈放され、警察署の玄関を出たところで能波によって再逮捕された。
「どや、南無、気分は?玄関パッキンって気分がいいなぁ。なんぼでも容疑はあるからな。よりどりみどりや」能波はけらけら笑っていた。
 取調室に戻るとまた留置場へそして取調室へ。
「・・・・・・・・・」
「こらっ!おめぇ、笑いやがったなっ!」とまた椅子ごと蹴り倒された。無論、笑ってなどいなかった。その都度頭を下げて椅子に座りなおした。小便はさせてもらえなく椅子の上で垂れ流すしかなかった。
「くせぇー野郎だな。こうなれば犬っころとかわらんのぅ、1日中そこで垂れてろ!ションベン野郎がっ!」オレは犬の方がマシなのではないかと思いながら自分の小便の匂いの中で己自身を嘲笑うしかなかった。そして翌日釈放された。玄関パッキンは無かった。これ以上の勾留は検事が嫌がったのだろうと思った。能波はにやりと笑いながらオレを課の出口で見送った。
「やはり、おめぇは食えねぇカス野郎だな。せいぜいヤクザもんと連んでろっ!ションベン野郎がっ」
 出てきたその晩、和男から電話が入った。
「蒸されたんだってな、ありがとな。当分おとなしくしてることだな」それだけだった。半月で300万はオイシイと思わなければならなかった。所詮は奴らのようになれない、屑の生き方なのだ。伊井の転落は自殺ではなく事故として扱われた。運転免許がないから自殺はあり得ないからだ。たとえ伊井が運転していたとしてもだ。伊井は小夜子に1億円を残しポンタと共に急ぎ旅立った。
 しばらくして小夜子は桜木町で小さな店を開いたと言うことを聞いたが、もうオレには関係ないことであった。半年もすればそんな店は無くなってしまうのだ。ケツの毛一本だって小夜子には残らないだろう。その後彼女の消息は聞かれなくなった。店も経営者は変わってしまっていた。そして2年も過ぎた頃か、和男は急性肝炎であっけなく死んでしまった。

 小夜子は語り続けた。
「あれからね、息子を連れて山代温泉に行って二人で生活してたんよ。でもね息子も17才の時に飛び出したきり、もう帰って来なくなっちまってね。それっきりさ」
「そうか、苦労したんだな」何らオレと変わるもんじゃねぇなと思った。
「何度か死のうとしたけど死なずに生きてるさ」小夜子は自分の手首の傷をさすりながら人のことのように言った。なにかを思い出したのか目は潤んでいた。
「もう一本飲むか?ついでにオレにも酒のおかわりをくれないか」オレはしんみりしている小夜子に言うべき言葉はそれぐらいしかなかった。しばらくの間お互い言葉もなく黙って飲んでいた。二十年振りであってもお互い語ることなんか無いものだ。
 その内、外から人の声が聞こえ常連らしい客が三人入ってきた。作業服に長靴スタイルの者達だった。外の雨足が強くなってきたようだった。ここいらが潮時だろうと思い小夜子に勘定を済ませ外に出た。
「南無さん、この傘さして行ってよ」小夜子がオレの後ろに立って言った。
「すまんな、借りるぜ。だけど、返しには来ない」とオレはぽつりと言った。
「あのね、南無さん、あなたが部屋に飛び込んできた時のこと、覚えてるでしょう?あの時が和男と初めてだったの」
「・・・・・・・」そんなこと今更聞いてみても、お互い流されながら生き残った事実だけで充分だった。
「わたしは今でもあなたの怒った顔を覚えているわ」
「そうか、・・・」小夜子の白く汗ばんだ痴態が瞬間頭をよぎり、それを打ち消すようにオレは首を左右に振った。
「次の日、伊井はわたしに土下座をして泣いて謝ったのよ。情けない男だよね」
「・・・・」もうオレはそれ以上聞きたくなかった。
「だから、わたしは今でも伊井の女房なのよ」
 オレは黙って傘をさして歩き出した。背中で小夜子は叫ぶようになにか言ったが、激しく降り続く雨の音でよく聞きとれなかった。振り向くこともせずにオレはひたすらじっと前を見つめながら歩いた。

 外はまた煙ったような風景が広がっていた。
 まるでこの世のものではないかのように。
 その中で浮かんだような赤提灯の店、ぽつんと。

-了-